父と子の二者に限って見れば、ざっと目を通してみるだけでも、ヨハネ福音書では「私は・・・私の父を敬っている」(8:49)
「父は私よりも大いなるかた」(14:28)と言われています。
たしかに1章ではキリストは「神の言(ロゴス)」として「神」と言われ、「ひとり子なる神」とも言われていますが
その一方ではイエスの言葉として「わたしに栄光を与える方は、わたしの父です。この方のことを、あなたがたは『私たちの神である。』と言っています。」
(8:54)とか、「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」(20:17)
と記されています。イエス自身が「神」であるならこのように自分以外の「神」を語らないでしょう。
実に不自然です。共観福音書においても、「(神、)おひとりのほかに善い者などいない」(マルコ10:18、マタイ19:17、ルカ18:19)
とか「子も知らない。父のみが知っておられる」(マルコ13:32、マタイ24:36)
パウロ書簡では「キリストは神のもの」(コリント一3:」23)とか
「キリストの頭は神である」(同11:3)とか・・・その他多くの例を挙げることができるので、「本質(or 存在)における従属」という解釈も、「職務の従属」と同等もしくはそれ以上の根拠を聖書に有つと言えます。
そもそも「本質において」であれ「職務において」であれ、「従属」には変わりありません。
本質的に同等であるなら、そして各位格が同じ意志を共有しているなら、従属関係など持たずとも各々で自由に活動することが全体として調和するはずです。