チベットには「他人を見る目は持っているが、自分を写す鏡が無い」という諺がある。この諺どおりもしも自分
の中に人に対する本当の慈悲が芽生えるのを望むなら、まず自分自身の欠点を観察し、それをよく自覚することが必要だ。
それから、心の中で自分を他人の立場において、そのひとの実際の状態はどんなものか、しつかり見つけ出す必要がある。そ
れを可能にする唯一の方法は正しく覚醒と知恵を保ち続けることだ。
そうでなければたとえ広大な慈悲を備えているようなふりをしたところで、いつかは慈悲など、本当はまつたく
一度も芽生えたことがないという事が、はつきりする時がやってくる。純粋な慈悲が本当に生まれるまで、自分の限界や障壁
を乗り越えるのは、まったく不可能だ。しばらく修業しているうちに、自分は「神」で、自分以外は「悪魔」だと考えるよう
になってしまう修行者も多い。それは自分自身の限界を肥大させ、自己への執着と他人への憎しみを膨れ上がらせるだけの事
だマハムドラやゾクチェンについて沢山のおしゃべりしたところで本当は細部にいたるまで世俗八法のとおりふるまう専門家
になるだけの事だ。それはいまだ真実の慈悲が生まれていないことをはつきりしている。?私の異見書く行が無い、何か不満