>>523
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活中に眼あれば 還(ま)た死に同じ
薬忌何ぞ須(もち)いん作家(てだれ)を鑑するを
古仏すらなお言う曽て未だ到らずと
知らず 誰か解(よ)く塵沙を撤くことを
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注:
活中に眼あれば 還(ま)た死に同じ:生の根底に徹すれば大死と同じ。
薬忌何ぞ須(もち)いん作家(てだれ)を鑑するを:飲み合わせてはならぬ薬を飲ませて練達の禅者(投子)を試す必要はない。
作家(てだれ):この場合、投子を指している。
古仏すらなお言う曽て未だ到らずと:(投子は「明に投じて須らく到るべし」と言うが)古仏さえそんなことはできない。
解(よ)く塵沙を撤く:向上一路」に沙を撒く。既定の価値に安住することを否定する。
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生の根底に徹すれば大死と同じで達人の境涯である。
飲み合わせてはならぬ薬を飲ませて投子和尚のような練達の禅者を試すまでもない。
投子は「明に投じて須らく到るべし」と言うが、古仏さえそんな境地に到ることは難しい。
それでは「向上一路」の悟りの絶対境に目潰しの塵砂を撒いて、悟り臭さ消して人々を導くことができるような人は一体誰だろうか? 
 悟りの痕跡を消して大死大活の世界に導くことができる人は趙州や投子のような手だれの禅者以外に考えることはできない
最後の句(第四句)は趙州や投子のような手だれの禅者を讃美している。