碧巌録(へきがんろく) 第41則? 趙州(じょうしゅう)大死底人(だいしていのひとにとう) 

垂示

是非交結の処、聖もまた知ること能わず。
順逆縦横の時、仏もまた弁ずること能わず。
絶世超倫の士となり、逸群大士の能を顕わす。氷凌(こおり)の上を行き、剣刃(やいば)の上を走(い)くは直下(まさ)に麒麟の頭角(つの)の如く、火の裏(なか)の蓮に似たり。
宛(あたか)も超方を見て、始めて同道なることを知る。
誰かこれ好手(やりて)の者ぞ。
試みに挙す看よ。


氷凌(こおり)の上を行く:危険きわまりない状況を自在に切り抜けることの喩え。
麒麟の頭角(つの):滅多にないものの喩え。

垂示

是と非が入り交わり結ばれて一つになったような処は、善とも悪ともはっきり分別することができない。
善でもなければ悪でもない。そのような処はどんな聖人もはっきり捉え知ることができない。
順と逆の場合でも同じである。順と逆が縦横入り交わり結ばれて一つになったような時には、仏でもはっきり弁別することはできない。
ところが同類や仲間を超えた「絶世超倫の士」となれば、是非を知り、順逆自在となり、「逸群大士」の能力を顕わすことができる。
そのような「絶世超倫の士」や「逸群大士」は、滑り易い氷の角でも平気で歩くことも、油断すれば足を切るような剣刃(やいば)の上を行くような常識で考えられない働きも自由にできる。
しかし、実際にそのような傑出した人物は千人に一人、万人に一人、麒麟の頭角(つの)や火の裏(なか)の蓮の花のように滅多にいるものではない。
更に、四方を超出した超方の人物は殆どいないと言ってよい。
もし、超方の人物に出会って一目でそれと知ることが出来るとしたらそれも大したことである。
そういう知音同志というものは滅多にいない。さてそのような好手(やりて)の達人と言えるような人物が歴史上いただろうか?
試みに例を挙げるので参究せよ。