>>491



聞見覚知 一一にあらず 
山河は鏡中の観に在らず 
霜天 月落ちて夜将(まさ)に半ばならんとす
誰か共に澄潭に影を照(うつ)して寒(つめた)き
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注:
聞見覚知 一一にあらず:伝統的には六根の「見聞覚知」の働きはそれぞれが別の働きではない。
それでは一つかというと一つでもないと考えているようである。
ここでは、六根の「見聞覚知」の働きはそれぞれが分業して独立しているように見えるが
一つの根源(脳)から派生していると考える。
この解釈では、図10に示した脳の分業機能と矛盾せずに解釈することができ、分かり易い。


山河は鏡中の観に在らず :山や河は鏡に映して見られるものとは何の関係もない。
六根の「見聞覚知」の働きは脳の神経細胞を微小電流が流れることで成立している。
その意味では鏡の物理光学的メカニズムとは全く違うものである。
誰か共に澄潭に影を照(うつ)して寒(つめた)き:澄み切った沼に共に己の姿を
映して寒く冴えかえるのは一体何者であろうか?
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六根の聞見覚知の機能はそれぞれ別の働きで分業しているが一つの根源(脳)から派生している。 
認識される山河は鏡に映して見られるものとは何の関係もなく、違うものだ。
凍てつくような寒さの真冬の真夜中、霜は降り月は落ちて真っ暗な時、
寂として澄み切った沼に共に己の姿を映して冴え返っているのは一体何者であろうか?
そこは真っ暗で雑念妄想を掃蕩した“人境倶忘”の「無」の世界(下層無意識脳)である。
そのような世界(脳の世界)から鉄樹花を開くような、常識を超えた創造的生活が生まれるのだ。