碧巌録(へきがんろく) 第39則? 雲門花薬欄(うんもん かやくらん)

垂示

途中受用底は、乕(とら)の山に靠(よ)るに似たり。
世諦流布底は猿の檻に在るが如し。
仏性の義を知らんと欲せば、当に時節因縁を観ずべし。
百練の精金をVえんと欲せば、須らく作家の炉鞴(ろはい)なるべし。
しばらくいえ、大用現前底(だいゆうげんぜんてい)は、何をもってか試験せん。



途中受用底:「臨済録」上堂の「途中に在って家舎を離れず」に由来している。
現実社会(途中)に在って衆生済度の働きをしながら悟りの絶対境(家舎)を離れない人を指す(「臨済録」上堂8を参照)。
世諦流布底:世俗的価値観に流される人。
仏性:本来の面目、真の自己(脳)。
炉鞴(ろはい):ふいご。修行僧を鍛える師家の手段の喩え。
大用現前底:悟りの大いなる働きが顕現している人。

垂示

現実社会に在って衆生済度の働きをしながら悟りの絶対境(家舎)を離れない人にとって、矛盾や悩みに満ちた現実世界が衆生無辺誓願度の実践に生きる世界だから、虎が野に放たれ山に帰ったような威力を発揮できるはずである。
しかし、世俗的価値観に流される自主性がない人にとっては、猿が檻に入れられたような窮屈な世界になる。
しかし、仏性を明らかにして、見性成仏をめざす禅修行者にとっては、矛盾や悩みに満ちた現実世界が時節因縁を実感する自己の居場所であることが達観できる。
百練の精金のように自分を鍛えたいと思うならば、道眼の明らかな正師について修行する必要がある。
ところで、悟りの大いなる働きを顕現している人が目の前に現れたらどのように点検したら良いだろうか。