主任司祭は、「攻撃的なので、人に会わせるわけにはいかない」とおっしゃいましたが、
私が攻撃的だというのは、主任司祭の勝手な思い込みです。
(※中国人は、物事や言葉の受け取り方がおかしいと思います。)

主任司祭が、聖堂の近くで騒いだり、ゆるしの秘跡を受けに来た人を「先約があるから」といって、
後回しにしたりと、イエズス様からは遠い、神に敵対していると思われるような行為をするので、
それを注意しているだけで、「攻撃的」だと受け取り、他者にも自分にしていることと同じことを
するに違いない、と思い込んでいるのです。

私は、思い込みの激しい主任司祭が思っているように、何の理由もなく、他者の名前を出すほど、
非常識なことは致しません。

主任司祭は「人に会わせるわけにはいかない」とおっしゃいますが、私は、神様に会いに来ています。
人に会うことなど、二の次です。
主任司祭はこの世に属しているのでしょうか、「人に会うこと」がミサに与る第一の理由だと
思っているような気がしてなりません。
この司祭を推薦した司教が二人いたそうですが、この司祭の何を見て、「司祭にふさわしい」と
思われたのか、疑問に思います。
この司祭を推薦した司教も、責任を問われるべきではないでしょうか?

他の教会に転籍すれば良い、というのは、まず考えていません。
司祭も異動しますので…。
「イジメはさせない」と言いながら、主任司祭のしていることは、人権侵害というイジメのように思えます。
主任司祭は、私のことを「偶像崇拝している」とおっしゃいましたが、
「私は人間ではなく、神様に従う」ということを、常々申し上げております。
神様の御言葉に従うことは、偶像崇拝でしょうか?
同じ信徒でありながら、他者が信じている神様を「偶像崇拝」だと断罪するのは、
いくら司祭であっても、許されないことだと思いますが、皆さんはどう思われますか?

「偶像崇拝」だと他者を断罪する司祭に、気づきを与えられる御言葉があれば、
教えてください。