坐禅と見性第116章「正念相続せよ」 [無断転載禁止]©2ch.net
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ロンさん、
>無我を悟ったとして、それでホントにぜんぶ解決かな?
逆じゃない。 >>505
遊ばせるって、誰が言ったの?
何のこと?
>>506
逆とは? >>508
>俺の言葉。
だったら、わかるように説明してくれよ。。
>悟るのは誰だ。
自己であり、無であり、かつ全体だな。。
悟るという働きが悟る、と言ってもいい。。 未解決のままに解決しているしてる、と受け止めている。
だから、自身を認めないままに認めてる。 >自身を認めないままに認めてる。
また、わけのわからいことを・・
誰が認めるんだよ、他人・・
そのときのありようしかないだろう・・ 体が順応していないだなぁw
人の評価なんてものは、どうでもいいじゃないんですか。
ジャンキーちゃん・・ >>511、512
言葉を弄るとそういう表現もあるでしょ?
絶対矛盾的自我同一性とかね。
言葉は、言葉を受け止める人の経験や知識で変わるものだけど、あなたはその言葉を、他人の評価云々の次元で観てるんだね。 たぶん、きりないと思うよ。そういうのは・・
言葉足らずで、ごめんなぁ・・ 夕食作って食べてた。。
>>510
なるほど。。
>>511
どうしてわからないのだろう?
>そのときのありようしかないだろう・・
こんなんでどうするんだ?
言い訳みたいなこと言って。。
>>512
自分はこれでいい、と言い張ってるだけに見えるよ。。 >自分はこれでいい、と言い張ってるだけに見えるよ。。
そう、それはどうもです。
いいんじゃない、別に・・
何か特別なものがあるの?
俺にも、飯食わせろよ・・
酒でも買ってくるか。 いや、いいんだ、いいんだ、別に。
まぁ、折角だから、悪いけど、もう少し突っ込み入れるよ?
>そのときのありようしかないだろう・・
そのときのありようしかないなら、
それそのままにそのときのありようなのに、
それを言うのは何? 曹洞宗の禅というのは、理と実践に乖離があって、懸隔があって、提唱などでは、そのままで解決していますとか、どうあろうと、法の通りですとか、
無我になろうではなく、はじめから無我ですなどと説明して、初学者を安心させる。。
これは間違ってないし、その通りなのだけれど、安心して、坐禅、道中の禅に励んでもらうための説明であって、
それに納得して終わりというものではない。。
というか、完全に納得してはいけない。。
というのは、理をわかることと、実証することには、懸隔があるから。。
証していないのに、わかっただけで、そのままでいい気になってしまう。。
もちろん、そのままで悪いわけではないが、そのままに居直ると、実証する、という実践へ向かうことができなくなってしまう。
実践、という言葉にも語弊があるが、理解から実証へ入っていく、ということができなくなってしまう。。
理として無我である、ということと、実際には自分をあるように思ってしまっていることの間には、矛盾がある。。
自分はこれでいい、というのも、単に思っているだけ。。
無我である、というのも思っているだけ。。
この実証するということが、まさにかつがつに求めて、必死になって、探求すべきことなのに、
わかってお終い、特別な悟りなんぞありません、ということを言う禅師のもとでは、実証する修行が全くできない、ということになってしまう。
義衍師の本、提唱録でも、そのまま、ということしか言ってないように思える。。
しかし、それは、あくまで全体向けの提唱であって、室内の、個別指導ではそれだけで許されるはずはない。。
夕や同じ師に就いている修行者、は、どうもおかしなところで「止まっている」、ように僕には見える。。
ということは、その師は、実証へ導く指導がそもそもできないのでは、と思える。。
僕だけでなく、僕と同様のことを言う人は他にもいる。。
そこらへん、夕にはよくよく考えてほしいと思う。。 >>520
誰だろうねw
それを知ってからが本当の修行だろうね。
知った方には用なし。主語がぬけているけどね・・
俺から言わせれば、知るも知らぬも0ポイント
そして、知ったというほうを勝手に遊ばせる・・ ロンちゃんは、
よく評価でくきるなぁw
あの老師は評価が難しいかもなw
ロンちゃんの評価なんて、関係ないんだ。
俺が付いていこうと思っただけだ・・ >>523
僕は、一応、彼の動画も観たし、ネットに上がってる言葉も見た。。
ダメだこりゃだね。。彼だけじゃないけど。。
某禅ブログの主も同じ意見だよ。。
>俺が付いていこうと思っただけだ・・
師に付いて行ってどうするの?
自分自身の探求だぞ。。
ついていこうと思わせるところが、まずダメなんだろうな。。
突き放す師が本物なのだけれど。。 「私の言ったことは忘れてください」
これは、違う意味で、文字通りの意味で正しいだろう。。
雪渓師とか町野氏の本も読んだ方がいいだろう。。
せったんHPでもいいかもだけれど。。 たしか、その老師は、青野敬宗老師の会下の人にも発破をかけられた、みんな高齢だから、早く行けと。
まえから、知っていたが。
いったら、せったん派の人たちもいるじゃありませんか。
支店長も来るの、なつかしいなぁw 青野敬宗老師は、本とか残ってないけど、彼ほど徹底していた人はいないだろう。。
ネット上には、いろいろ情報があるが。。
とにかく、カカシ=童天にせよ、夕にせよ、結局、喜ばされて終わり、だもんな。。
しょーもな〜、終わってる〜、というのが正直な感想だ。。
せったん派なんて知らんよ、支店長もどうでもいいわ。。w >自分自身の探求だぞ。。
なに、言っているんだ。
だから、
俺が付いていこうと思っただけだと言っただけだ。
そんな立派な言葉を並べるだけが師か。
彼はこういう、本当はこういうところには、こない方がいいw ロンさんも、ひどいなぁ、
支店長は、ロンさんが、わかったと言ったときに、一番最初に、よろこんでくれたじゃないか。 >>528
>彼はこういう、本当はこういうところには、こない方がいいw
だから、自分でわかってるんでしょ、自分が偽だと、どこかで。。
義衍師の息子であるわけだから・・ホントは自分でわかってるんだよ、無意識かもしれんが。。
夕にせよ、カカシにせよ、他人に突っ込まれても、聞く耳持たんでしょ、心酔し切っちゃってるから。。
信じ込んでるから・・それがまさにおかしいとこだよな。。
カルトじゃないんだし・・禅修行者は、問答できないでどうするんでしょ? >>427
>喜ばされて終わり
何言ってるんだ。老師には何も話してないわなな。
おれは、自分で探求しているだけだ。
なに、一人で決めつけているんだ。 >>532
え?独参も行ってないの?
参禅したんじゃないのか?
独参行かないと意味ないぞ、どこでも。。 >心酔し切っちゃってるから。。
何言っているんだ。
心酔なんてしたことないわw
ロンさんみたいに、ひねくれていなだけだよ・・ 皆の衆は外道の道を
まっしぐらじゃのう!
南無南無 (*^人^*) 僕は別にひねくれてないけど、比較検証できんとね〜。。
今生きてる師だけでなく、道元とか、もっと昔の祖録とか・・そこらへんと違わないことを言っていれば、
正師と言えるかもしれない。。
あとは、ちゃんと奪ってくれるか、与えるんでなくてね。。
僕は最初の入り口は、簡単な本だったけど、そのあとで澤木興道の提唱を読んだ。。
武士は食わねど高楊枝とか、人情なしになるとか、あたりまえになるとか、言ってるんだが、
全く納得しなかった。そんなことでどうすんだと。。悟りってものはないのかよと。。
そしたら、案の定、澤木興道はなんもわかっとらんという禅師を知った。
それがせったんさんだった。。他にも雪渓師とか、町野氏とか、この二人は会ったことないけど、
同じこと言ってる。。
そこらへん、疑り深く見ていくことも重要だよ。。
正師に就かなければ、やらない方がいい、と道元禅師も言っている。。 >>536
悟りの道は唯我独尊じゃよ。
他人に頼り救われようなど
外道の道を行くだけじゃ! まぁ、ロンちゃんがそうおもうのなら、それいいんじゃないか。
何か知らないが、随分と、一方的だなぁ。
自分がさぞ、あっているかのように。
自分があっているとは一度もいっていなぜ。
ただ、疑問を提示しているだけだ。 おれは、耳かすぞw
わからないことは、わからないというし・・ >>522
唯識的には「見るもの(見分)と見られるもの(相分)に分析されている」というそうで、西田先生はその克服を「絶対矛盾的自我同一」と看破されてるけどね。
徹底出来ないままに徹底されているところに安心は得てはいるけど、未決のままなんだ。 >未決のままなんだ。
主客未分は、わかる。わかる主体もわかる。
そこを遊ばすんだというところまではいっていない。 年中、いろんな言葉が提示されるが、自己矛盾がないところまで、もっていくのは難儀だ・・
そう意味では、支店長もでおーも、ぜんぜん先をいっている。
無念の境界、無念の工夫、甚だ大事だ。 >>536
人の言葉をうのみにしているのはどっちだろうと思うぞ。 >>540
絶対矛盾的自我同一
なんか、難し言葉だが、わからなかったら、レス番わすれたが、あんなもの提示しないさぁ。
わかって、疑問に思ったから提示したのさぁ。
山は山である。
それ以上に、頭を悩ませてるのが、知った側を勝手に遊ばせるだ。
本当に面倒くさいよw
古鏡は、いいね。 わかる、わからない、甚だなんぎだw
ちょっと飲みすぎた。
では、また・・ 童天は、あっているんだよ。
時たま、頭に来るけどw
どっ天、ごめん・・
わるいな、不器で・・ 今やっているよ、むしかいして・・
無とはなにか、
安泰寺の独参会をユーチューブを見ながら。
ありゃ、金剛般若経だなって、
誰かは、沢木老師を非難しているみたいだけどね。 この五章を鳩羅摩什の訳とサンスリット訳が少々違う。
サンスリット訳は、道元が近い。
漢訳
およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。
若し諸相は相の非ざると見るときは、即ち如来を見る。
サンスリット訳
特徴があると断じれば、偽りであり、
特徴がないと断じるなら、偽りである。
特徴があること、かつ、特徴がないこと、
その両方から、如来を見なければならない。
道元正法眼蔵見仏
諸相と実相を見るがごとしは、即如来を見る。
*漢訳には、特徴があること、が入っていない。 *漢訳には、特徴があること、が入っていない。
これ間違い、入っていた。 また突っ込み入れて何だけど、
>>545
>勝手に遊ばす。
遊ばすものが遊ばされるものでしょ? >遊ばすものが遊ばされるものでしょ?
その域を超えているね。
そうだね、俺にはできないね。 >>1
>来るものは拒まず。
>去るものは追わず。
これ仏法でないの
そんな人間が
坐禅と見生って自己満足ですよ
乙w >>552
>道元正法眼蔵道元正法眼蔵見仏
道元さんは見仏されましたか?
>サンスリット訳
仏典はとっくの昔に日本の僧がそのまま持ち帰っていますの
鳩羅摩什の残した物がサンスリット訳が道元に近いってそんな学説があるのですか?
あなた学者なの? >>552
思いますに
>サンスリット訳
これ危ないですね
>漢訳
>およそあらゆる相は皆これ虚妄なり。
>若し諸相は相の非ざると見るときは、即ち如来を見る。
如来を見るって如来は光なのに何言ってるのか
>即ち如来を見る。
それ言いたいだけかと >>161
>傷つくのは、おまえなんだそ
傷つくって誰がどのような場合のことかな?
あなたは何かを知って何にも傷つかない方法を得たの?
傲慢か勘違いとしか >>542
わかった主体を遊ばす、ということ?
それはなんのため?
>>543
それは、主体を遊ばせているのではなく、遊ばせている方が主体になる、というだけじゃないか?
主体が主体に関わる、というのは無理だよね。。
一時に、主体は一つしかないから。。
そういうことやめなさい、が修行じゃないの?
自己を運ばない。。
だから、「知ったほうがに用がない」という考えそのものがおかしい。。
用がないもあるも、それは単に去っていくものだから、去っていくものに用があろうがなかろうが、
勝手に去っていく。。どうして、気にする必要があるのか?
>>544
だから、定盤星を認めること勿れだよ。。
「こうすればよい」というのを認めてはいけない。。
認めたら、矛盾が生じる。。
むしろ、どうしようもない、が正しい。。
どうしようというのだ?
どうにもならんものを。。w >>547
>それ以上に、頭を悩ませてるのが、知った側を勝手に遊ばせるだ。
>本当に面倒くさいよw
意味ないと思うぞ。。
もともとないものをどうしようというの? >>556
ちゃんとまともに考えよう。。
自己というのは、一つしかないんよ。。
自己が自己に関わるってのは、不可能だ。。
子供を遊ばす、犬を遊ばす、はできる。。
自分を遊ばす、はできんな。。
自分が遊ぶ、はできるけど。。w
自分のしっぽ追いかけても意味はない。。
しっぽに用はないなんて言われても。。w
あなたにはしっぽあるんですか、と突っ込んでみよう。。w 「自分を遊ばせる」は言うなれば声色の奴婢と馳走しないと言うこと。
分かった方には用は無いというのも同じこと。
なぜなら、分かっていると言うのがこの「奴婢」だから。
それではいつまで経っても死に切ることなど夢のまた夢。 >>564
ろんさん
自己が一つってどういう意味ですか?
尻尾とか仏法に関係無い言葉で何を言いたいのか
あなたがたはお経でない単なる宗祖を信じるしかないのね
スレは他にありますのにここで悟りがー!坐禅が−!っ
ですよね
>そういうことやめなさい、が修行じゃないの?
あのね、人間には修行は無理なので修行がどうとかいうことではないの
自己とかあなたの信じるお経(?)に出てくるの?
人間はこの世を成す欠片でして我先に仏になりたがる者が言うlことは
嘘ですよ
自己に重きをおく宗教は無いですし >>565
無我であるのに、無常であるのに、どうしてわかった方なんてのがあるんだ?
どうしてそんなのに拘るんだ?
声色を知る者、が自己だと思っている、主体だと思っている?
ちがうぞ。。
わからんか? 本来無我。
そうは言っても、物心ついて二分裂が始まって、苦しみあぐねる者となる。
だからそれを元の一つに戻してやる。
その元一つであったことに気が付くのが見性で、だからと言って気が付いただけでは二分裂のまんまの役立たず。 横からごめん。
分裂したままにひとつなんだけど。
(絶対矛盾的自我同一) >>568
すみませんが誰か見性された方がおられますの?
それが出来れば仏なのですがそんな人間はいないですよ? >>576
ここにおられる人が見生とかおっしゃるので聞いたのですが
あなたは人でないものをご存知なのかな? 戻そうとする自分が戻される自分なのに、一体何処に戻るつもりなんだろうか。
あなたはそこに居るのに。 >>578
戻るも何もこの世が有る限り命は形を変えて存在するだけで
それは人間だけではないですよ
全てが宇宙を成す欠片ですし、これ人間の計る時間とか関係無く存在してますよね
戻る戻されるではないですよ
お経読まれたことないのかな
仏は光ね
仏を人間にわかりやすいように具現化されたのが仏像ね もちろん、無駄ににあがくプロセスも必要かもだけど、本来、そうならないように、とりあえず、
わからせる、のが師匠の仕事のはずなんだけどな。。
わかったら、やることなくなっちゃうでしょ。。
努力すべきことがない。。
要は、坐る、以外ないわけだ。。 >>568
他に惑わされるから、二分裂になるんでしょ。。
これじゃだめだから、あれになろうと。。
そうじゃなくて、これしかない、いや、これと認められない。。
忙しかったりすると、自分のことなんて忘れてるだろ。。
それに近いよね。。 だから自分を相手にしないということが必要になるんですよ。
それが分かった方には用は無いということ。
あがくのとは違います。
その真逆。 ポタ公にも似たような、突っ込み入れたんだけど、
>自分なんて無いよ。
自分が無いなら、自分が無いとは言えんでしょう。 >>583
だから、その自分=わかった方が、あると思ってるのがそもそもおかしいんだよ。。
相手にしない、ではなくて、ないものを相手にしようがない。。
認められない、ということ。
そこらへん、まず明らめなきゃ。。 相手にしないという事自体、既に相手してるんじゃないのかな。 >>584
ないと理解する、という現象だけがあるんじゃないのか?
そういう働きがある、というだけで。。
それを無というわけで。。
だから、それを言う自己があるわけじゃない、と思うのだが。。。
それを自己と捉えれば、自己になってしまう、けれども。。 >>588
真空妙有(用)っていことかな。
妙っていうのは不可思議、考えようがないと聴いたことがある。 >>591
それは働きの話かもね。
ただ空になってればいいってもんじゃなくて、妙なる働きがある、ということかな?
もちろん、その働きも空であるけれど。。
天真にして妙なり、というフレーズもある。。 >>587
>自分なんてものは、思いの上だけのもの。
自分という思いの上だけのものが、(自身を)思いの上だけのものと思考する。
思いの上だけのものならば、その思いの上だけのもの、というのも思いの上だけのもの。
何が残るんだろうね。
三諦を思い出したw だから、知った方には用が無いって言ってるのに、分からんちんだなあ。 言語道断とか、何気に顧みると誤解されてる言葉の中にも凄い言葉もあるんだなぁ。
思いの外ね。
これで分かっちゃう人もいそう。 でも、僕は思いの内も大事だと思うのよ。。
理解とか学習とか、参師聞法もそう。。
それらが全部要らんというのは、ちがうだろうと。。 学ぶ、考える、と言ったら、徹底的にやる。。
中途半端なんとなく、誰かさんが言ったからとかダメで、自分の頭で徹底的に参究する。。
また、調べる。。
そうじゃないと、思いの外には出られないのではないかな〜と思う。。
もちろん、いい師に就いて、そこで坐ってれば、そういうプロセスもなしに、という場合もあるみたいだけれど。。 思いの外と思いの内ね。
それ聞いてウィトゲンシュタインや維摩経を思い出した。
維摩経の文殊菩薩(此処では思いの内の限界まで行った象徴、可哀想な当て馬役)と維摩居士(思いの外の象徴)の壁かな。
文殊や舎利弗って損な役割多いなぁw >>602
維摩居士は、在家だから、もともと思いの外で生きていた。。
ウィトゲンシュタインも、戦争へ行ったからよかったという人がいる。。
砲兵隊長になって勲章ももらった。。
じゃなきゃ自殺してたかもだ。。w ろんちゃん、レスくれた。
私の答えは、u0kc5rw1さんに右へ倣えです。 >だから、「知ったほうがに用がない」という考えそのものがおかしい。。
>用がないもあるも、それは単に去っていくものだから、去っていくものに用があろうがなかろうが、
>勝手に去っていく。。どうして、気にする必要があるのか?
主客未分を知った。知ったのは主観であるから。
これで、はっきりする。 はっきりしている方が、わかりやすいと思うけどね。
おれからみたら、ろんさんは言葉を濁しているように見受けらる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています