浄土真宗親鸞会 [無断転載禁止]©2ch.net
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・上司の指示には従うこと
・組織はなぜ必要か。親鸞聖人のみ教えを、1,正しく、2,速やかに、
3,より多くの人に、伝えるために是非とも必要。烏合の衆では
徹底できない。
・組織で大切なのは、上司の指示に絶対服従すること。
上司の指示に従わないことには、組織にならない。
上司を批判していては組織にならない。
・上司の批判をしたり、従わなかったりは、絶対に許されない。
嫌なら離れればいい。自由だ。
・親鸞聖人のみ教えがよく分かったら、必ず上司の指示に従える。
よく分かっていないところに、「従えない」という言葉が出てくる。
上司の指示についてゆけないという人がいるが、
どうしたらそんな言葉が出てくるのか。
どんな指示にも従いますと誓約して入ってきたのに、ついてゆけない、
従えない、と言えばどうなるか。
後生の一大事を忘れてかからないと出て来ない言葉である。
上司より「地下鉄にサリンを撒いてこい」と言われたら従わなければいけないのか。
狂っているな。 tesi_tesi4@Gmep1.w53msi7j7w2.com tesi_tesi4@owDuU.w53msi7j7w2.com tesi_tesi4@YOtUx.w53msi7j7w2.com tesi_tesi4@OxW9N.w53msi7j7w2.com tomato_tomato@uwpdyyshottdaod.eksnmlnzondewzg.backpack-basketball.net tomato_tomato@eilsqgmazbgezov.ddviglsluskynuu.backpack-basketball.net "EL-DI@BLO@"@oiuytr34567.765frtyui987.kdsd-fbsbx0s.com chanel@zero.candle.cove.bravado-brood.com 親鸞聖人でさえ、私は欲望と煩悩に満ち溢れ悟りへの道は遠いとおっしゃている。
俺、ミニマにスト、物欲なし、物もつと維持管理がメンドクセー、いわゆる悟り。
まあ、ネットのおかげなんだよね。ネットがあるから大抵の物欲はなくすことができる。
そうかんがえると、ネットがない時代に悟りを開いていた釈迦は本当にすごいと思う。 チャクラは下からではなく頭の天辺から数えるのが正しいはずです。
赤子は頭から世の中に出てきますし、意識も視界も頭にあるので、
下の方の意識の無いところから成るのは考えにくいです。 頭に意識があり視界があり成長の順で先であるのが頭だと考えられ正しいはずです。
下のどうということもないところから成長する身の霊とは考えにくいです。 何かで読んだが、例え話を多用して納得させる手法はカルトや詐欺の常套手段らしいよ。 老子も教えているかと思われますが、老子の教えにある美と知れば醜悪となるの言葉は、
翻訳間違いかと思われます。
美人は女性なら慎重さを身に付けようとするはずですが今は勇敢なようです。
狙われ続ける為に普通隠し警戒しだすはずですが。
男性なら美というより己であるという概念が組めなくなり狂います。
仏壇で自分のみだと唱え念じ続けても己になれた気がせず落ち着きません。 日本は歴史の流れから見て大王としての仏陀としての国です。
仏陀化の条件を満たしているからです。 2021年度河合塾偏差値 神学系メイン方式
60.0 同志社(神)
57.5 関西学院(神)
55.0 上智(神)
52.5 西南学院(神)
2021年度河合塾偏差値 神道系メイン方式
55.0 國學院(神道文化)
40.0 皇學館(神道)
2021年度河合塾偏差値 仏教系メイン方式
47.5 駒澤(仏教)
45.0 龍谷(仏教)
42.5 大正(仏教) 立正(仏教) 佛教(仏教)
37.5 大谷(仏教) 龍谷(真宗)
35.0 大谷(真宗) 種智院(仏教)
神父(牧師)>神主>坊主 そもそも阿弥陀仏はインドの西方住みであり仏教国ではない為、
仏教を学べていない阿弥陀念仏は仏教ではないのではないのでしょうか? disclosure@dunyxwmunxwjl.uujumnvgtddam.entourage-alibi.net ここのせいで大学生活がほんとに惨めなものになった。
その時の同期や後輩が専任講師として載ってるのみて、彼らと比べたら人生潰されなかっただけまだよかったと多少は心が休まる。
結局、いまだに誰も信心決定なんてしてないと思うけどね。どうだろう。してても構わんけどね。 >>476
俺も同じ感じだよ
バカ森犬鉄のせいで最悪だ
まあでも短期でやめたんで傷は浅くて済んだがね
同期が講師ってなんとも言えんな
学生中は続けても社会人になって脱出できる人が多いようなこと聞くけど講師までいくとキツイわ
審塵穴嬢とかw
な〜ムアーミだああんぶ
な〜むあーみだああんぶ
高森ケンテツ地獄逝き決定 inu_amado@081jlfmzlt89r.m5ocf6x3msk1n.shining-expense.net 合宿でお世話になった瓜生さんがアンチバカ森になっててワロタ emperor@uyrn7n827mn4.p6l1o4nil.shining-expense.net バカ森教祖も長生きだなあ。もっともあんなバカ息子残して死ぬに死ねんだろうが。 バカ森犬鉄
高森ケンテツ
親鸞会が崩壊する様を見てこの世の地獄の後はガチ地獄へ落ちろ
なーむあーみだああんぶ
カールトカールトのバカ森会 馬会員の死にそうなまでの誤放射をなんだと思っとるんやバカ森
バカ森一家地獄へ落ちろ xsdyr4pxdkvnfc7w.ukmx44u.lq@rvz4f.tw.1thi458.competitivemovable.com 45gywousl54.31my.0r@t3w.dnd.snsj2x.busilynarrator.com 教祖がくたばったら香典が最後の金儲けのチャンスになるってこと。
バカ息子が二代目教祖になっても誰もついてこない。幹部たちの集団指導体制となり、カリスマ教祖もいないので
ゆるやかに縮小していく・・・あ、今だって衰退期のカルトって揶揄されてるかw。 本人は信心決定したと本気で思い込んでるからね。
存在しないのに。誰もできない体験。
そこを、疑いもなく全く同じ体験とするから、勘違いさせられる。 glu8ww8o2l@j.crosswordalignment.net 馬鹿森ケンテツ地獄逝き決定
高森ケンテツ地獄逝き決定
なーむあーみだああんぶ amazon-erh45y43t3@softservices8192831.com amazon-htlv@amazonadministratorjp.com fbcob-cx8g@g77-xdaynhb.millionairespeechless.net なぜ戦後の日本で阿弥陀信仰は流行らなかったのか
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1601496056/ 主題歌
「投げ捨てろ!阿弥陀如来 今すぐに 阿弥陀如来 今すぐに」
夕暮れ午後6時頃 太陽見ている時に
西方浄土の教え たまには思い出すけど
「あなたは欲しくはないの? 御利益欲しくはないの?
死んだらきっと極楽行きと 余裕があるのね」
※創価 創価 創価学会 憎しみ I hate you 創価 創価 創価学会 憎しみ I hate you
なぜなの?阿弥陀が 流行らない ヤツらに押し潰され
「投げ捨てろ!阿弥陀如来 今すぐに 創価に入ろう 今すぐに」※
私はアヤフヤだから しょっちゅう迷ってしまう
幸せ求める事は 自然な事と思うが
「地獄に堕ちるわよ」とか あっさり言われちゃうから
心配事が突然増えて 不安になるのよ
顕正 顕正 顕正会 本気で I envy you 顕正 顕正 顕正会 本気で I envy you
令和の折伏(しゃくぶく)大行進 巻き起こしていきそう
「投げ捨てろ!阿弥陀如来 今すぐに 地獄が嫌なら 今すぐに」
(※くり返し) 9z2kvh0@35pak0ib.softwarefootnote.net 歎異抄のアニメ映画を上映するとき、なぜ、親鸞会となのらないのよ。偽装勧誘か?純粋な人は騙されないように気をつけてください。世の中には、いろんな方がおられます。本物が何か、わざわざ、偽装してまで勧誘をしなければならないか、考えてみて下さい。 正々堂々と勧誘しろよ。
「私は、信仰宗教とは関係ない」みたいに
勧誘するな!純粋な人をもて遊ぶのは、
卑怯極まりない。
私は、浄土真宗親鸞会の者ですと言え。
真宗十派にも、属していないことも説明して。 弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり 誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ 弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり 智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ 弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて
往生をば遂ぐるなりと信じて
念仏申さんと思いたつ心のおこるとき
すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり 弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず
ただ信心を要とすと知るべし
そのゆえは罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさる べき善なきがゆえに
悪をもおそるべからず、 弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに、と云々 浄土真宗親鸞会の方見てると思うが、自分自身の信仰に自信があり、自信教人信の誠があるなら、自分自身を名乗りなさい。それが信仰だ。 ある人いはく、当流のこころは、門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候(そうろ)ふやらん、如来・聖人の御(おん)弟子と申すべく候ふやらん、その分別を存知せず候ふ。
また在在所所に小門徒をもちて候ふをも、このあひだは手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候ふ。
これもしかるべくもなきよし、人の申され候ふあひだ、おなじくこれも不審千万に候ふ。御ねんごろに承りたく候ふ。
答へていはく、この不審もつとも肝要とこそ存じ候へ。かたのごとく耳にとどめおき候ふ分、申しのぶべし。
きこしめされ候へ。 故聖人の仰せには、「親鸞は弟子一人ももたず」とこそ仰せられ候ひつれ。
そのゆゑは、如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、ただ如来の御代官を申しつるばかりなり。
さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、如来の教法をわれも信じ、ひとにもをしへきかしむるばかりなり。
そのほかは、なにををしへて弟子といはんぞ」と仰せられつるなり。
さればとも同行なるべきものなり。
これによりて、聖人は「御同朋おんどうぼう・御同行おんどうぎょう」とこそ、かしづきて仰せられけり。 バカ森ケンテツの
バカ森会は人を騙して儲けるだけ
高森ケンテツ地獄逝き決定 >>497
確信をつかれると、和讃や歎異抄や御文のコピペする浄土真宗親鸞会の広報さん必死たよ
ね。 まあ、自信を持って布教できないような
信仰なら、やめた方がいい。 おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめた まう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり。
しかるに、念仏よりほかに往生の道をも存知し、 また法文等をも知りたるらんと、心にくく思し召しておわしまして はんべらば、大きなる誤りなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゆしき学匠たち多く座せられて候なれば、かの人々にもあいたてまつりて、往生の要よくよく聞かる べきなり。 親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、 よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
念仏は、まことに浄土に生まるるたねにてやはんべるらん、また 地獄に堕つる業にてやはんべるらん、総じてもって存知せざるなり。 たとい法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候。
そのゆえは、自余の行を励みて仏になるべかりける身が、念仏を 申して地獄にも堕ちて候わばこそ、「すかされたてまつりて」という 後悔も候わめ。
いずれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。 弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。
法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかる べからず候か。
詮ずるところ、愚身が信心におきてはかくのごとし。
このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、 面々の御計らいなり、と云々。 なぁ、こうなるのよ。
自分の信仰に自信を持て、高森先生に騙されて
地獄に落ちても構わないという強い信心を持て
堂々と浄土真宗親鸞会として、名乗ろう。 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや
しかるを世の人つねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや 善人をや」
この条、一旦そのいわれあるに似たれども、 本願他力の意趣に背けり そのゆえは、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心欠けたる 間、弥陀の本願にあらず
しかれども、自力の心をひるがえして、 他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生を遂ぐるなり
煩悩具足の我らはいずれの行にても生死を離るることあるべからざるを 憐れみたまいて願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、 他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり
よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、と仰せ候いき それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。 されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。
さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あはれといふもなかなかおろかなり。 されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。 言えないよね
親鸞会なんて草
恥ずかしいよね親鸞会
馬会員の信者どもでも高森ケンテツに騙されてるってそろそろ気付いてきてるだろう
でも今更やめられないんだろうね
自身の過去数年や数十年を否定するだけならまだいい
誘ってバカ森会に入ったやつとか勧誘した親とかの出前から行け出せないもんね
図様だけど気の毒だとは思うよ 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。
住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。 知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。
のこるといへども朝日に枯れぬ。
或は花はしぼみて、露なほ消えず。
消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。
いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。はてには朱雀門、大極殿、大學寮、民部の省まで移りて、ひとよがほどに、塵灰となりにき。 火本は樋口富の小路とかや、病人を宿せるかりやより出で來けるとなむ。
吹きまよふ風にとかく移り行くほどに、扇をひろげたるが如くすゑひろになりぬ。
遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすらほのほを地に吹きつけたり。
空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じてあまねくくれなゐなる中に、風に堪へず吹き切られたるほのほ、飛ぶが如くにして一二町を越えつゝ移り行く。
その中の人うつゝ(しイ)心ならむや。あるひは煙にむせびてたふれ伏し、或は炎にまぐれてたちまちに死しぬ。
或は又わづかに身一つからくして遁れたれども、資財を取り出づるに及ばず。
七珍萬寳、さながら灰燼となりにき。
そのつひえいくそばくぞ。
このたび公卿の家十六燒けたり。
ましてその外は數を知らず。
すべて都のうち、三分が二(一イ)に及べりとぞ。 男女死ぬるもの數千人、馬牛のたぐひ邊際を知らず。
人のいとなみみなおろかなる中に、さしも危き京中の家を作るとて寶をつひやし心をなやますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍るべき。』また治承四年卯月廿九日のころ、中の御門京極のほどより、大なるつじかぜ起りて、六條わたりまで、いかめしく吹きけること侍りき。
三四町をかけて吹きまくるに、その中にこもれる家ども、大なるもちひさきも、一つとしてやぶれざるはなし。
さながらひらにたふれたるもあり。
けたはしらばかり殘れるもあり。
又門の上を吹き放ちて、四五町がほど(ほかイ)に置き、又垣を吹き拂ひて、隣と一つになせり。
いはむや家の内のたから、數をつくして空にあがり、ひはだぶき板のたぐひ、冬の木の葉の風に亂るゝがごとし。
塵を煙のごとく吹き立てたれば、すべて目も見えず。
おびたゞしくなりとよむ音に、物いふ聲も聞えず。
かの地獄の業風なりとも、かばかりにとぞ覺ゆる。 家の損亡するのみならず、これをとり繕ふ間に、身をそこなひて、かたはづけるもの數を知らず。
この風ひつじさるのかたに移り行きて、多くの人のなげきをなせり。
つじかぜはつねに吹くものなれど、かゝることやはある。たゞごとにあらず。
さるべき物のさとしかなとぞ疑ひ侍りし。』又おなじ年の六月の頃、にはかに都うつり侍りき。
いと思ひの外なりし事なり。
大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。
異なるゆゑなくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人、たやすからずうれへあへるさま、ことわりにも過ぎたり。
されどとかくいふかひなくて、みかどよりはじめ奉りて、大臣公卿ことごとく攝津國難波の京に(八字イ無)うつり給ひぬ。
世に仕ふるほどの人、誰かひとりふるさとに殘り居らむ。
官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも、とくうつらむとはげみあへり。
時を失ひ世にあまされて、ごする所なきものは、愁へながらとまり居れり。
軒を爭ひし人のすまひ、日を經つゝあれ行く。 春はあけぼの。
やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。 夏は夜。
月の頃はさらなり、闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。
また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。
雨など降るも、をかし。 秋は夕暮れ。
夕日のさして、山の端いと近くなりたるに、烏(からす)の、寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。
まいて、雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。
日入りはてて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず。 冬はつとめて。
雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。
霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりて、わろし。 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱忌(しうい)、唐の祿山(ろくさん)、これらは皆旧主先皇の政にも従はず、
樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして亡じにし者どもなり。 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とりどりにこそありしかども、
ま近くは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ心もことばも及ばれね。 於春々 大哉 春と云々
青くても あるべきものを 唐辛子
青ざしや 草餅の穂に 出でつらん
青柳の 泥にしだるる 潮干かな
あかあかと 日はつれなくも 秋の風
秋風に 折れて悲しき 桑の杖
秋風の 吹けども青し 栗の毬 顔に似ぬ 発句も出でよ 初桜
かゝり火に 河鹿や波の 下むせひ
杜若 語るも旅の ひとつかな
杜若 似たりや似たり 水の影
杜若 われに発句の 思ひあり
牡蠣よりは 海苔をば老の 売りもせで
隠さぬぞ 宿は菜汁に 唐辛子 西行の 庵もあらん 花の庭
西行の 草鞋もかかれ 松の露
早乙女に 仕形望まん しのぶ摺
盃に 泥な落しそ 群燕
盃に みつの名を飲む 今宵かな
盃の 下ゆく菊や 朽木盆
盃や 山路の菊と 是を干す 田一枚 植ゑて立ち去る 柳かな
内裏雛 人形天皇の 御宇とかや
たかうなや 雫もよよの 篠の露
鷹の目も 今や暮れぬと 鳴く鶉
鷹一つ 見付けてうれし 伊良湖崎
高水に 星も旅寝や 岩の上
誰が聟ぞ歯朶に餅負ふ丑の年 なほ見たし 花に明けゆく 神の顔
なかなかに 心をかしき 臘月哉
中山や 越路も月は また命
永き日も 囀り足らぬ ひばり哉
詠むるや 江戸には稀な 山の月
無き人の 小袖も今や 土用干
夏かけて 名月暑き 涼み哉 這ひ出よ 飼屋が下の 蟾の声
萩原や 一夜はやどせ 山の犬
箱根こす 人も有るらし 今朝の雪
橋桁の 忍は月の 名残り哉
ばせを植ゑて まづ憎む荻の 二葉哉
馬上落ちんとして残夢残月茶の煙
馬上眠からんとして残夢残月茶の煙 前髪も まだ若艸の 匂ひかな
秣負う 人を枝折の 夏野哉
まづ祝へ 梅を心の 冬籠り
枡買うて 分別かほなる 月見かな
まづ知るや 宜竹が竹に 花の雪
先づ頼む 椎の木も有り 夏木立
待たぬのに 菜売りに来たか 時鳥 やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
薬欄に いづれの花を 草枕
やすやすと 出でていざよふ 月の雲
痩せながら わりなき菊の つぼみ哉
宿借りて 名を名乗らする 時雨かな
宿りせん 藜の杖に なる日まで
柳行李 片荷は涼し 初真桑 蘭の香や 蝶の翅に 薫物す
龍宮も 今日の潮路や 土用干
龍門の 花や上戸の 土産にせん
両の手に 桃と桜や 草の餅
留守に来て 梅さへよその 垣穂かな
留守のまに 荒れたる神の 落葉哉
六月や 峰に雲置く 嵐山 本師源空世にいでて
弘願の一乗ひろめつつ
日本一州ことごとく
浄土の機縁あらはれぬ 智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ 善導・源信すすむとも
本師源空ひろめずは
片州濁世のともがらは
いかでか真宗をさとらまし 曠劫多生のあひだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし 源空三五のよはひにて
無常のことわりさとりつつ
厭離の素懐をあらはして
菩提のみちにぞいらしめし 源空智行の至徳には
聖道諸宗の師主も
みなもろともに帰せしめて
一心金剛の戒師とす 源空存在せしときに
金色の光明はなたしむ
禅定博陸まのあたり
拝見せしめたまひけり 本師源空の本地をば
世俗のひとびとあひつたへ
綽和尚と称せしめ
あるいは善導としめしけり ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています