仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】241 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>461
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ存在しないなら悟りを開いたとかどうでもイイじゃんw
悟りにとらわれてるから鑑定してとか言うんだお >>463
なら盲目の人には世界は存在してないんですか。 >>465
それでは、そうやって悟ったかどうかわかるんですか。 >>466
いや晃の目に映るんで
存在を確認できるって意味 >>464
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレそうやって貴方が色々考えるのが頭なんだおw
頭をなくせば痛くないんだおw
笑っちゃおwww >>468
視覚とは物を映像化することですよね。
夢で見る映像も存在するんですか。
夢と現実を識別するものは何ですか。 >>467
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ悟ったか分かろうなんて欲があるから貴方は煩悩があると麦は思うけど >>469
それは死ぬということですね。
ナイスアイデア。 >>471
煩悩とは欲という意味なんですか。
まあいいでしょう。
欲があって何か問題でもあるんでしょうか。
どうせ妄想でじつざいしません >>470
夢だと自由な行動は取れない
現実なら自在 >>472
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ比喩だお
アンパンマンの頭を新しいのに付けかえるイメージだお >>473
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ悟りは実在しますか?
わんちゃんも猫ちゃんも悟りなんて知ったこっちゃないだお >>476
それで他人の痛みがわかるのか。
それとも自分の痛みなのか。
自分と他人の区別とは何ですか。
区別は妄想で実在しないんじゃないですか。 >>477
悟りは実在しません。
悟りとは実在しないと知ることです。
知るという概念も妄想で実在しません。
なぜ私は悟ったと言えるのか。
それは正直わかりません。
このわかりませんが唯一の実在なのかもしれません。 寝ます。
みなさん相手してくれてありがとう。
また明日。 >>478
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレ区別って貴方が区別しているからそう考えるんじゃないかな?
貴方と麦がお話ししているそれだけですけど >>481
∞ノノハ∞
∪川^〇^ハレこちらこそありがとうございました
おやすみない⌒☆ >>438
現証が文証に勝って、文証は理証に勝ってるのか?
日蓮と違う事を君は言ってるけどそれで良いの?
南無妙法蓮華経を唱え捲るは日蓮が最初に提唱した教えだから、教示を違えてたらダメでしょ まあ日蓮曰く、仏法は道理と証文とには過ぎずと言い、道理証文よりも現証には過ぎずと言って
要すれば仏法とは道理であり、それは証文として説明されてる通り、現証として現れてるこれが仏法だ
とも読める
だからして、題目を唱えなければ上記の三証は現れない訳ではないし、日蓮もそうは言ってない
精神統一してみれば必ず分かる、と言う意味で題目を唱えよと教えている
これ、身口意の三業(行為と発言と思念の非行)を即刻停止すれば、全ての不本意が
停止に向かい始める事を教える毒矢の例えの実行とも言える
これが坐禅であれ念仏であれ観想であれ、主義思想と作法違いを除けば同じ事をしようとしてる 意識は存在しないかー^^
@「遍計所執性」
認識する側(能取・主観・主体)
↓
認識の対象の側(所取・客観・客体)
↓
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着 565因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 00:40:31.56ID:8SaYA+vx
物質的現象が空だというならば、もう一つの現象である心的現象の方は
どうでしょうか? 私たちの感覚、想い、意思、判断といったものは
確かな存在なのでしょうか?
これについては現代の脳神経科学が教えるように、私たちの思いや考えは
脳のニューロンの物理的な動作によって決定されており、「意識」は
それによって生じる副産物、つまり幻かもしれない、ということが分か
っています。したがってこれらの心的現象もまた「空」だといえるでしょう。
566因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 00:42:38.67ID:8SaYA+vx
したがって人間のことをいうならば、まず第一に目、耳、鼻、舌、体、脳と
いった感覚器官や思考器官の存在も確固たるものとはいえません。
また、色、音、匂い、味、手触り、(脳に浮かぶ)イメージといったものは、
感覚神経や脳のニューラルネット内を駆け巡るただの電気信号であり、
そこに色や音としての実態はありません。したがって脳内で発生する
クオリアも幻といえます。 9因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:16:12.34ID:y3RwUnun
「意識こそは虚妄分別するものである。その性質が分別を具えたものだからである。それは
意識自らの言葉に依る熏習を種子として生じ、またあらゆる表象の言葉に由る熏習を種子
として生じている。それ故に、意識は無限に種々の形相のある虚妄を分別するが故に遍計
と名づく。」
無着(摂大乗論)
10因縁果 ◆d........o 2016/10/25(火) 17:16:31.99ID:y3RwUnun
「(意識が遍計することは)名・概念を対象として虚妄分別するのであり、概念を依他起性の
上に相(形相・性質)として付託し、相を見て執着し、種々に思考を廻らして言葉として言う、
見る、聞く等の四種の言説を為して、ものが存在しないのに存在と誤認するのである。」
無着(摂大乗論) 「スッタニパータ」にも、解脱に関連して、
(1)想受滅または想を離れる、
(2)識の滅または識別の止滅、
(3)名称と身体(形態)から解脱、
(4)捨念清浄、
(5)論議が絶える(戯論寂滅)
ということが言われる。
このことからも、最も初期の頃から、
想、受、識、言語作用の滅した清浄な体験が
あって解脱したと考えられる。 日蓮が題目を唱えて宣揚し始めた時、坐禅も念仏も観想も行としては既にあり
教えもそれなりに構築されていた
日蓮が曰く、それらの既成は既に概念化され役に立ってないとして、題目を唱え提唱した訳だ
要すれば、概念として形骸化された仏道の振りをやってる振りしてても、当時は良くなってないじゃないかと
今、これが正しいのか間違ってるのかを証明する方法は一つ
題目の人は題目をやめて他をやってみれば分かるって感じ
形骸化仏教が日蓮の批判した対象だったのだから
日蓮の提唱した題目行も、現代では狂信者たちに形骸化されてるから
師の如く、同じようにしてみれば良い訳
坐禅に固執してる人も念仏や観想に固執してる人も同じ
今やってるその行が形骸化してるなら、やめてみれば良い
行じて何かを得よう・知ろうとしてるそれがそもそも間違ってる訳で
行なえば一旦終わらねば、終る事がないならそれは邪禅に過ぎず魔境に過ぎないのだ 626因縁果 ◆d........o 2017/05/07(日) 18:06:30.88ID:/K9HpoFD
573因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 01:04:14.45ID:8SaYA+vx
私たちの脳の中で言葉の意味が成立するメカニズムは、ちょうど認識に
おいてあるクオリアを伴った認識の要素が成立するメカニズムと似ている
と考えられる。すなわち、言葉の意味も、言葉の意味を司る脳の領野
(ウェルニッケ野)におけるニューロンの発火の間の相互作用による
結び付きから決定されてくると考えられるのである。
574因縁果 ◆d........o 2017/05/06(土) 01:07:22.50ID:8SaYA+vx
私たちは、自分の外の事象を認識している場合と、単にそれをイメージして
いるに過ぎない場合を区別することができる。また、現在まさに目の前に
あるものを認識している場合と、過去に見たものを思い出している場合を
区別できる。重要なことは、このような区別は、それぞれの場合に私たち
の心の中に浮かぶ表象のクオリアの違いとして現れるということだ。
例えば、現在、外にあるものを認識している場合には、そこには非常に
鮮烈な、生々しいクオリアが伴う。それに比べて、過去に見たものを思い
出している時のクオリアは、薄ぼけた、抽象的なものだ。私たちは、
このような区別を当然のものと思ってしまいがちである。
だが、これらの表象は、元をただせばニューロンの発火に過ぎないのだ。
物理現象としては均一なニューロンの発火から、どのようにして
「自己の内と外」、「現在と過去」といった区別を支えるクオリアの差が
出てくるのか? この問いは、脳の情報処理能力の根幹に関わる問題なの
である。 522因縁果 ◆d........o 2017/05/04(木) 19:39:27.63ID:Gr9Z7nKu
「対象への執着と対象の認識とは事実上不可分であることを、釈尊は見ていた
のであろう。わずかでもなんらかの対象を認識するところに、無明や妄執が
滲み出している。心の微細な領域において、そういうことがあることが、釈尊
には知られていたのである。そういう意味で、認識活動が死滅するとき、
個体への執着も解放されるというのである。」 257神も仏も名無しさん2017/04/29(土) 05:17:42.08ID:v0pLu7bE
比丘たちよ、このように見て、(教えを)聞いている聖なる弟子は、
色において厭離する。感受において厭離する。表象において厭離する。
志向作用において厭離する。識別作用において厭離する。厭離するものは、
貪欲から離れ、解脱する。解脱したとき、「解脱した」という知識がある。 554因縁果 ◆d........o 2017/05/05(金) 03:10:08.75ID:527ttIFw
辺見、一辺にとらわれた考え方をいう。
もっとも一般的には断常二見をさしている。すなわち、人間は死によって
無に帰すとするのは断見、何かが残って続いてゆくとするのは常見である。
このような一方的な考え方を辺見という。
ところで、これをもう少し詳しくいうならば、色受想行識という五つの
要素(五蘊)によって成立している人間が、自らに対して常住普遍的支配
的である我を執じ、さらに、その我執によって五蘊それぞれに我を執ずる。
そのように執着された五取蘊について断無と執じ、常有と執ずることを
いうのである。その点で執辺見とよばれることもある。 因縁果 ◆d........o
一生懸命色々学んでる様だけど、羅列させてるって事は認めて欲しい欲求に駆られてるのかな?
仏法はお釈迦様が曰く、法住智と涅槃智との二智が分かれば完全なんだよ
つまり、「生じるという性質(法住智)のものは、滅すると言う性質(涅槃智)のもの」と言う事
これだけで理解した人の代表がコーンダンニャって人で初転法輪に出てくる人
それ以降は人の煩悩の数(=84000)だけ教えが展開され法門が増えたってだけ
知れば良いのはこの二つ、生じると言う性質のものは滅すると言う性質のものであると
これを二智と呼び正宗分、ここが分からないならその他は先を説明する流通分になる 「認めて欲しい欲求」
ん?
おまいら凡夫に?
うわぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ >>497
釈尊が無記とした事と同じ
意識の上に展開される思念を用いて、いくら有無を語ったところで矛盾にしかならない
だから釈尊は、涅槃は尋ねず、自ずから訪れよと諭された事に留意 ニューロンの0.5秒間以上の連続発火の相互作用による結び付き・・^^
すなわち・・^^
思惟・思考による言説概念化
↓
虚妄分別
↓
実在・執着
となる^^ >>501
それ三結、特に有身見
これは疑ってる故に起こる、それ故に「こうじゃなきゃいけない筈だ」に拘ってしまう
それを三結と言う、初門で引っかかる入口未解決の問題だよ 意識って究極には発火なんだよな・・^^
すなわち・・^^
幻想^^ >>504
じゃあその発火は何が起こしてる?
それは誰? 戯論寂滅・・・^^
『(涅槃とは)一切の知解(ちげ、獲得・対照的知識)が滅し、戯論が滅して、寂静なる(境地)である。 623因縁果 ◆d........o 2017/05/07(日) 09:33:20.88ID:/K9HpoFD
温泉瞑想で・・^^
ブラフマン(梵:宇宙を支配する原理)
↓ニューロンを発火
自性 自己 ・・観察(個体の本質であるアートマン(我))
↓
プラクリティ・自性=創造原理=身体。
↓
十二因縁
う〜〜ん^^
ちょっと違う感がある^^ あっ^^
おいらのカキコミはすべてどこかのコピペだから^^
あしからず^^ 金剛経曰く、この世界は夢幻泡影の如しと思え、と言う
世界とは世間の事、では世間とは何か
経典ではこの世間を一切と言い、その一切とは識であると説く
この識を万が一にも「自己なる本質」などと思うなら、これは再び母胎に宿る事になる
自己なる本質など、そう呼べるものなどどこにも無いと諦められた人は、再び母胎に宿る事がない
と説かれてる 今起きてこのスレに書き込みしてる人に質問なんだけど。
お経や教科書を読んだり写経の真似したりして悟れると思ってるのかな。
失礼を承知で聞くんですが。 「お経や教科書を読んだり写経の真似したりして悟れる」
そういう感じじゃないんだよな・・^^
気ずかさせられる・・^^
というか・・^^
ふむふむ^^
と言う感じ^^
「同感だな^^」となり・・^^
「あーやめられない^^」
となる^^
それが体験で実感すると^^
「おっ^^」となる^^
これがおもしろいんだよな^^ >>511
悟りは行住坐臥の全てに遍くあり
>お経や教科書を読んだり写経の真似したり
でも、己義を構えてその事に固執しない限りは無駄ではない
ただ、分かるか分からないかの違いだけはあるけどね >>512
最後に「おおおおおおおおおおお」となるのが悟りなんですか。
それを待ってるの? 所謂禅宗などで指南されている「写経」も、見方を変えればこれも坐禅と同じ
言い方を変えれば唱題や称名と同じ、とさえ言える
禅定をもとめて三業を即刻絶つと言う意味に於いてはね >>513
悟りは「知る」んじゃないの?
何が行住坐臥の全てに存在するの?
その存在の正体とは何ですか? 悟りとは寂滅に到る道のりである^^
涅槃の境地に到れば寂滅為楽の境地がある^^
「おっ^^」とは・・^^
寂滅為楽の境地がそこにあることを体験したがゆえにである^^ >>515
写経も坐禅も念仏も題目も本質は同じ。
その本質とは何だと思いますか。 >>516
何だろうね?
それを知るのが仏道なんでしょ >>517
寂滅って死ぬことですよね。
死ねば悟って仏さまと思ってるんでしょうか。
死ぬ気分を味わうことが悟りなんですか? >>518
仏道は本質論ではないから、本質を説かない
が、「一体何によってるのか」と言う究極の謎を言うとすれば
その答えは「識」だろう、と >>520
>寂滅って死ぬことですよね
死ぬこと、と言う時点でそれは観念だと言える
もし、月が爆発したら君は、月は死んだと言うかもしれないが
コップが粉々に砕けたらどうか、コップの死と思うかな?
思えるだろうし言えるだろうし、思えないかも知れないし言えないかもしれないだろ
この時点で死は観念に過ぎないと分からないだろうか >>519
がんばって仏道に励んでください。
応援してます。
ちなみに答えは・・・・私の胸にしまっときます。
鬼和尚との答え合わせしますんで。 >>513
蛇足というか大きなお世話だと思いますが。
>>でも、己義を構えてその事に固執しない限りは無駄ではない
もし「無駄」だとしたらどうしますか。
仏道がすべて無駄だとしたら? >>524
>仏道がすべて無駄だとしたら?
君は無駄なのかな? >>521
なぜ仏道は本質論ではないと言えるのですか。
識が本質なんでしょうか。
識とは意識のことですか?
それが究極の謎なら仏教は本質論ですよね。 >>522
いいえ、死は「現実」だと思います。
もっと言えば死以外の現象はすべて観念と言えませんか。
鬼和尚も同じことを言ってましたがやっと理解できました。 >>525
無駄というか役に立たない、というのが本音ですね。
仏道に頼るのではなく、自分自身を拠り所にすべきじゃないかと。
あくまでも私の個人的な主観です。
仏道は否定しません。
むしろ仏道は答案用紙じゃないですか。
問題用紙は自分自身では。 >>526
>なぜ仏道は本質論ではないと言えるのですか。
涅槃に本質は問えないからね
少しでも本質と決め付けた時点でそれは涅槃にならない
また、識を本質と思うのは自由だが、この識すら変化の事で本質を持たない
見方を変えれば識とは縁起の事で、縁起は本質を持たない
縁起する様を考察する場合、それは一例を引いて考えねばならず
その一例とはつまり因果と因果の集まりとを考察してるだけにしかならず
縁起で縁起をいくら考察しようとも、縁起の本質を見出すことなど出来ない事になる
何故なら、実感がそもそも縁起で、考察も縁起なのだから
事物の有り様を外側から眺めて観なければ全体像は想像に過ぎず事実とは言い切れないのと同じように
縁起の内側でいくら縁起の全体像を考察しても、それは想像上の妄想にしかならない、となる
この縁起がつまり識であり、つまり釈尊が言ってた如来の事
我々の思考でその全体像を知る事は出来ない
何故なら、全体像と言う本質が無いからに他ならない 「識」といえば唯識^^
最近唯識を見直してきてるんだよね^^
ニューロンの発火の観点から・・^^
また世親ちゃんにお世話になろっと^^ >>528
>むしろ仏道は答案用紙じゃないですか。
君は答案用紙なのかな?
君が答えなんじゃなく、君は答案用紙だったのか >>529
つまり本質が無い「本質」があるということですね。
あえて矛盾した言い方をすればね。
仏教は本質論であると私は思うのですが、
この矛盾を解決するには、本質を「ナニ」と表現すればいいと思いますか。 >>532
本質は観念に過ぎない
君は仏教を本質論だと考えたいらしい
それならば仏教は観念論となるのだろうね >>531
はい。
私は答案用紙です。
現実のペラペラの用紙と私は同じです。
本質論として言います。 >>535
書き直しが出来る答案用紙と君が同じである訳がないだろう
君の行いは全て一過性で、漏れなくやり直しが利かないじゃないか
気休めや慰めで、まだまだ時間はあるから人生やり直しが出来る、などは方便だよ
故に、君は君自身が当人なのであり、君こそぶっつけ本番なんだよ
書き直しの出来るリハーサルなど、本来どこにも存在してないだろ
必ず時は移って同じと言える時は二度とない >>536
思いは実在するのかな?
有るとも無いとも言えないから無記なんじゃないかな 答案用紙と問題用紙とか意味わからず使っちゃった、テヘ
こりゃまだ悟ってないかも^^
混乱させてごめん。 >>537
すいません、答案用紙って答えの書いてる用紙だと思ってました。
うっかりミスです。
あちゃーこんなんじゃ悟ってねーわ。
鬼和尚に笑われる。
スルーしてください。 >>538
私は無いと断定します。
そもそも観念ってなんですか。
観念と観念でないものをどうやって区別してるんですか。
なぜ無記なんでしょうか。
それが無いと断定することが悟りでは?
仏教は断定は断見といって否定してますが、果たしてそうでしょうか。
なぜ断定してはいけないのですか。 断見をググったら輪廻転生を否定することだったね。
すまん、知識不足で^^
また混乱させたかも まあ別にいっか断定することを断見と言っても。
気にしない〜^^ >>541
>私は無いと断定します。
>そもそも観念ってなんですか。
それが観念
>観念と観念でないものをどうやって区別してるんですか。
区別と言う観念で区別を観念しているに過ぎない
>なぜ無記なんでしょうか。
>それが無いと断定することが悟りでは?
>仏教は断定は断見といって否定してますが、
否定しているのではなく、否認するのみ、つまり認めないってだけ
認めないと思うのではなく、否認とは既読してもスルーするだけ
違うと思えばそれが否定、賛同すればそれが肯定
否認はこの両者にあたらない
>なぜ断定してはいけないのですか。
考えた事は全て思考に過ぎず、それは観念に過ぎないから >>542
>断見をググったら輪廻転生を否定することだったね。
断見も輪廻転生も否定も、これらは観念に過ぎず、それは思考されたものに他ならない >>485
日蓮、仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず
また、道理・証文よりも現証にはすぎず >>546
>仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず
仏法は道理を超えず証文も超えない、と読めるが?
>道理・証文よりも現証にはすぎず
道理や証文も現証は超えないと読めるが?
つまり、仏法は道理を超えず、道理は現証(現実)を超えない事を言ってるんだろ
であれば、君の行いは如何なものかと >>544
つまり、一切は観念だけど実在するか実在しないのかわからない。
わからないと悟れないんじゃないですか。
それとも無記であることが悟りの内容だとでも? >>548
拘る事をやめてみれば良いのでは?
例えば写経とか坐禅とか、一見自分には無益に見えるそれに
試しに没頭してみたらどうか >>550
ひょっとして拘らないことが悟りだと思ってますか?
そりゃ悟ったら拘らなくなるのは当然ですが。
なぜ拘らないのか。
それが悟りの内容だと思うのですが。
とことん拘って何が悪いのですか? >>549
仏法は道理を超え、道理は現証を超えるのかw
それじゃオカルトになるが良いのか? >>551
>とことん拘って何が悪いのですか?
我執は煩悩の燃料だから
煩悩を鎮められないなら苦滅が出来ない
苦滅が出来ないなら悟れない
悟れないなら平安に至れない >>554
煩悩を燃料に菩提に変えることは
よくある 私を気にかけて、私のやり方で必要なことをくれたりする、奇特な人との出会いがなければ、どうにもならないんだなと、最近思う >>552
横レス失礼。
仏教がオカルトだとなぜいけないのですか。
私は仏教は100%オカルトだと思ってます。
気は狂ってません。
マジです。 >>553
現証を説明する方法が道理であり証文なんでしょ
道理や証文のソースが現証だから、君が現証って事でしょ
つまり、題目唱えてその結果が君なら、それは正しいのかと言う問いに戻る訳で >>556
煩悩即菩提の事を言ってるつもりなのかな
この言葉の意味は、煩悩に気付ければ菩提と出来るって意味だよ
煩悩を煩悩と気付けなければ、いくら待っても菩提にならない >>558
>仏教がオカルトだとなぜいけないのですか。
教えが書物や空中のままであるなら、それはただのオブジェクトに過ぎない
しかし、仏道として真に受けるならそれは君自身(私自身)を言う事になる
仏道がオカルトと言うなら、君はオカルトなのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています