日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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2009年(主日B年) 6月7日 三位一体の主日
申 4:32〜40 ロマ 8:14〜17 マタ 28:16〜20 2012年(主日B年) 6月3日 三位一体の主日
申 4:32〜40 ロマ 8:14〜17 マタ 28:16〜20
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。 彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタ vv.19-20)
言うまでもなく、私たちの信仰はイエス・キリストを信じる信仰です。
だからこそキリスト教なのです。
先ずここで私たちは、自分がキリストではなくて別の何か、例えば主義や主張や特定の文化や政治的目標などなどを、人生の最大の関心事にしているのではないかと、真面目に考えてみる必要があります。
使徒時代の当初から、教会で信仰が宣言される第一の場は洗礼式でありました。
そしてこの信仰宣言は間もなく三位一体定式のものになって行きます。
使徒信条も、ニケア・コンスタンチノープル信条も、父と子と聖霊への信仰を述べる三つの部分で構成されていることを、理解しましょう(カトリック教会のカテキズム 189-191)。
三つの中のどれかが無視されたり、あるいはどれかが極端に重視されてバランスが崩れると、そこには異端的な信仰が生まれて、(聖なる、普遍の、使徒的、唯一の)教会を危険に陥れます。
それは昔の話でも、どこか遠い国の話でもなくて、実は私たちのすぐ身近なところにいくらでもある切迫した危険であることを、警告しておきたいと思います。
日本語で “普遍の” と訳されている語は、原文では “カトリック” であり、これはその起源においては “正統的”“非分派的” という意味で使われていたのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
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出 24:3〜8 ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12-16,22-26
モーセがシナイ山で律法を受けて主と民との間に結ばれた古い契約においては、動物のいけにえの血が “契約の血”(出 24:8)として注がれました。
しかし新しい契約の仲介者(ヘブ v.15)であるイエス・キリストは、御自身を献げることによって、私たち教会のために永遠の贖いを成し遂げ(ヘブ v.12)てくださいました。
ヘブライ人への手紙は 「人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋 ・・・・・ (天の)聖所に入って ・・・・・ 」(ヘブ vv.11-12)と述べて、
教会の中で主日ごとに記念され再現される聖体の奉献の意味するところを説明しています。
この天の聖所で父なる神の右に座したもう主イエス・キリストは、やがて終わりの日に再び来て、ミサをささげる私たち教会に神の国を受け継がせてくださいます。
教会がキリストの聖体を奉献するミサを共にささげる度ごとに、そのことによって教会はいつも “キリストの贖いの死” を公に宣言して来たと言うことが出来ます(Iコリ 11:26)。
聖体の秘跡はこれに与かる信者たちだけの私的な礼拝行為ではなくて、実は同時に教会が外の世界の人々に対して証しする “キリストの贖いの死” の宣言でもあるのです。
新約聖書に描かれている初代教会の姿は、彼らが主日ごとにささげているミサの意味を積極的に外の世界の人々に説明し、証しし、宣教するものでありました。
「キリストは新しい契約の仲介者なのです。」(ヘブ v.15)
今年も聖体の祭日の朗読聖書は、私たちの教会が21世紀に向かって、“キリストの贖いの死” を宣言する教会となって行くことを励ましてくれるのです。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2009年(主日B年) 6月14日 キリストの聖体
出 24:3〜8 ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12〜26
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。 “取りなさい。 これはわたしの体である。”」(マコ v.22)
ローマ・ミサ典礼書の総則は、その前文の冒頭(1)で次のように述べています。
「過越の晩さんを弟子たちと共に祝い、その中で御自分のからだと血のいけにえを制定するため、主キリストは大広間を準備するようにお命じになった(ルカ 22:12)。
教会は、この命令が自分にも与えられたものと常に考え、とうとい感謝の祭儀の執行に関する心構え、儀式、場所、式文について規定してきた。
第二バチカン公会議の意向に基づいて定められた現行規則と、ラテン典礼の教会が今後ミサをささげるときに用いる新しいミサ典礼書とは、教会の熱意、ならびに聖体の神秘に対する信仰と変わらない愛を示すものであるとともに、
多くの新しいことがらが導入されたとはいえ、教会の絶え間ない確固たる伝承をあかしするものである。」
ミサの祭儀について、なによりも先ず明確にせねばならぬことは、これがそこに臨在される復活のキリスト御自身の行為であるということです。
“これをわたしの記念として行いなさい” とは、聖書に記されたあの弟子たちとの最後の晩餐を、現在に再現すること(秘跡的再現)であって、それが生けるキリストの行為であればこそ、また私たちにとっての現在の出来事となるのです(前文 2)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 2012年(主日B年) 6月10日 キリストの聖体
出 24:3〜8 ヘブ 9:11〜15 マコ 14:12〜26
ヘブライ人とは、旧約聖書の民イスラエル(ユダヤ人)のことですが、この書が “ヘブライ人からの手紙” ではないことを不思議に思う人がいるかも知れません。
“いけにえ” や “祭司職” というのは旧約聖書の律法によって規定された制度であったからです。
しかし、イエスはそれとは別の 「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」(ヘブ 4:14)としておいでになり(ヘブ v.11)、「御自身の血によって、ただ一度聖所 に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブ v.12)
ですからヘブライ人の旧約聖書は 「古びてしまったと宣言され」(ヘブ 8:13)、「キリストは新しい契約の仲介者」(ヘブ v.15)になられたと、もう一度ヘブライ人に向かって宣言したのが、この “ヘブライ人への手紙” なのです。
そう宣言しているのが “使徒たちと教会” であるということは、すべてのキリスト者にとって “いわば自明な前提” であるはずなのですが、すでに久しく実際には多くの信者が、自分の信仰をそんなに真面目には考えて来ませんでした。
今日の祭日は、そのような私たちのために定められていることを感謝しましょう。
ヘブ v.12 の 「ただ一度(εφάπαξ)」 とは、“最後的、決定的” という意味であって、神がキリストの十字架において 「罪を罪として処断され」(ロマ 8:3)、私たちのために 「永遠の贖いを成し遂げられた」(ヘブ v.12)ということです。
私たちは洗礼の秘跡を受けるときに、この贖いの福音を教会と共に、“私も信じますと告白して”(マコ 16:16)救われました(ヘブ 6:4,10:10、ロマ 6:10、カトリック教会のカテキズム1123参照)。
カトリック教会が「洗礼は一回限りのもので、くりかえすことはできない」(カテキズム 1272)と説明しているのは、それがキリストの 「ただ一度(εφάπαξ)」 の贖いに与ることだからなのです(ロマ 6:3-11)。
・・・・・ 以下、本文参照。
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エゼ 17:22〜24 IIコリ 5:6〜10 マコ 4:26〜34
南王国末期の紀元前608年に王となったヨヤキムは、攻め上って来たバビロンの王に最初の三年間は服したが、その後反逆して598年に至って死に、その子ヨヤキンが王位を継ぎました。
その三ヶ月後にバビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムに攻め上って来て、彼は捕囚としてバビロンに連れて行かれ、バビロンの王はヨヤキンに代えてゼデキヤを、彼に従順な王として位に就かせました。
これが第一回捕囚と呼ばれているものです(エゼ 17:11-14、王下 24:1-17)。
しかし間もなく、ゼデキヤはバビロンの王に背き、エジプトに使者を送って馬と軍勢を得ようとしたのです(エゼ 17:15)。
そして南王国の運命は、まっしぐらに586年の滅亡へと突き進んで行ったのでした(エゼ 17:1-10、王下 24:18〜25:21)。
以上の歴史を物語る 「たとえ」(エゼ 17:1,12)に続いて、今朝の朗読テキストで神のことばが語られるのです。
エゼ 17:2-5 に語られたバビロンの王に代わって、今度は主なる神が 「高いレバノン杉の梢」(すなわちダビデ王家)から 「その柔らかい若枝」(イザ 11:1 参照)を折って、「高くそびえる山」(イザ 2:2、ミカ 4:1、ゼカ 14:10)の上に移し植える。
すると、「それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうと茂ったレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。」(エゼ v.23、マコ 4:32)
私たちは今朝、終わりの日のこと、神の国の実現の日のことを聞かされているのです(Iコリ 15:24)。
「そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」(エゼ v.24)
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