(つづき)
「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。」(ヘブ 5:8)
「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリ 2:7-8)

御子の従順とは、いったい何に対する、だれへの従順だったのでしょうか。
今朝の福音書のテキストの中にあるイエスの言葉からは、何が聞き取れるでしょうか。
そして私たちのキリスト教信仰にとって、それはどんな意味があるのでしょうか。

イエス・キリストが従順をささげられたのは、彼をお遣わしになった方の御心に対してでありました(ヨハ 5:30,6:38)。
それが可能であったのは、イエスがその父の御心を知っておられたからです(ヨハ 6:39-40,8:55,12:27)。
この父の御心を解き明かし、解釈することがキリスト教神学の課題であって、教会の教えと司祭の説教はしっかりと神学によって支えられていなければなりません。

新約聖書は初代教会の宣教を支えた使徒たちの神学の、いわば果実であります。
この新約聖書が、キリストの父なる神への従順を理解する鍵として、イザヤ書の中の “僕の歌” を取り上げ、しかもこの理解の仕方がイエス御自身にまで遡ることを福音書で語っているのです。
使徒たちが原始教会で繰り返し説教し、当時の信者たちに熟知されていたこの背景を前提にして、今朝の第二朗読は理解されねばなりません。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より