日本もキリスト教を盛んにしようよ。 [無断転載禁止]©2ch.net
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2005年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:10 Iテサ 2:7〜13 マタ 23:1〜12
「このようなわけで、私たちは絶えず神に感謝しています。 なぜなら、私たちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。
事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(Iテサ v.14)
残念なことに、私たちが育って来たこれまでの教会では、人の言葉が声高に語られて、神のことば(キリストの福音)そのものは事実上殆ど伝えられていませんでした。
そのため一般信者はもちろんのこと、多くの司祭も、“福音とは何ですか ?” と尋ねられると、おのおの自己流の意見を言うだけで、教会に委ねられた使徒継承の福音には無関心であったと言わざるを得ません。 (つづき)
2003年から用いられるようになったカトリック儀式書 “子供とともにささげるミサ” の閉祭のあいさつの選択肢の一つに、「感謝の祭儀を終わります。 主キリストの平和と福音を告げ知らせるために、喜びのうちに行きましょう」 というのがありますが、
それを聞くとき、自分は教会でキリストの福音を教えてもらったことがあっただろうか、自分は “これが福音だ” というものを知っていただろうかと、真面目な信者は自省の念に駆られるはずです。
律法宗教となったユダヤ教が、結果として神のことばを無にして、人間の言い伝えを教える宗教になったと非難されたように(マコ 7:1-13)、
私たちキリスト者も教会の教えを学んでいれば神のことば(キリストの福音)は無用であると、そんな錯覚に陥っていたのではないでしょうか。
使徒パウロが自らを、「キリストに仕える者、神の秘められた計画(福音)を(宣べ伝えるために)委ねられた管理者」 と考えていたように(Iコリ 4:1、ロマ 1:14-15)、
現代の教導職も 「神のことばの上にある者ではなく、むしろこれに奉仕し、伝えられたことだけを教えるのである」 と述べられているのです(神の啓示に関する教義憲章 10)。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています