わっこのお部屋4 [無断転載禁止]©2ch.net
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道ってのは手段でしかないね
外界から垣根を取る道も内界から垣根を取る道もある
どちらのルートも「一」に帰還することが目的だ 坐禅したって何の意義もありませんw
無所悟、無所得w
内外の垣根をとるっていう意義思考を手放すために坐るんだわなーw
初めから垣根なんぞ、ないっつーw 道がある等と思うことで、どれほどの者が迷ってることか…w
わっこ姫の好きなクリシュナジも「真理とは道なき道」つってるがなw 認識の問題w
おぎゃ〜と生まれ落ちてから、あらゆる物事に触れて、その経験で「我」を認め、強めていくw年を経るごとにw
カラスの鳴き声がすれば、頭の中で「観念化」し、いつだって何もかも同じ風景で感動も無くなるw
同じなど有り得ないのにw
仏教を名乗っていても、三法印の抜け落ちた偽ものが多いw
個だと思っていたものは幻で、最初から全であったと気付いたら正念相続し保っていくのが、大悟後の修行に当たるw
これをサボると、悟りを通して物事を見るから人を見下すってわけw
「今」について、なにも知らないって、気付けばいいw
よく坐禅会に行けば、世俗の価値観を持ち込まないでくださいと言われるが、
悟りっていう経験を通して、上下分別城砦築くのは、まさしく世俗の価値観であり、それに準じたやり方だっつのw
めっちゃおおいぞw禅のプロってやつw聞かれても無いのに語りだすw
俺やん…w >>222
孤独ほど人を隙だらけにするものは無いですよ♪ なんてね✨🍓 「今」つっても瞬間瞬間だから、掴みようもないし、その必要もないけどなw
過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得w
知りうることは出来ず、知った分は余計物w捨てよ捨てよw ジャンキー来たから、ちょっとどっか行くわw
まぁ嫌いじゃないけど、面倒臭いからなw
これ、知った分だなwすまんなw
実際ちょっと今から遠出するからなwあばよw 孤独?
孤独だって言うときの孤独の基準て誰が決めてるん? 私達皆さんは真理の為に闘っているのでしゅ。👰だから孤独なのです。⭐ >>241
ノンアルコールでならしてみればどうでしょう >>242
ありがとう
ノンアルコール試してみます 既にいろんな美魔女がおるから練習せんでも叶っとるだろw 虚しさや空虚感ってどうすれば無くなるのでしょうか
愚かですが何故 虚しいのかもわかりません 一過性のものは全て虚しいっすよね
おそらく、今である諸行無常の一過性のものが
実は永遠に繋がってて、意味深いことを知れば
その虚しさはなくなるのではないかしら 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか
ようするに、
汝自身を知れ
に全ては折りたたまれてますよ >>253
>虚しさや空虚感ってどうすれば無くなるのでしょうか
>
>愚かですが何故 虚しいのかもわかりません
おそらく過去未来への漠然とした不安感でしょう
「今」しかないのです。
今ここを意識して下さい。 >>256
ありがとう
【今】というのは
今ここに集中する感じでしょうか? 今ここに集中しようなんて思ったら、別事になるw
「それらしい今」という虚構を産み出してまた苦しむだけw
集中しようなどと思っている自己を忘じると、そりゃ今を生きている以外なく。w >>257
守・破・離の原則!
先ずは今に集中してみましょうか!
無理せず焦らず。 坐禅の用がどこにあるって、何かの用を求める思考を放り出すために坐るんだっつう話w
今ここを意識しろ、なんて鎖巻きつけてどうするんよ…w
未悟者は、言葉の上からの認識でなんとか頭で処理しようとするんだよw
だからクリシュナジの元で大悟するものが出なかったっつう話w
余計事取り去ったら、仏だけが残ってる。それが事実であり「今」w
あなたが私であり〜って奴なw
その今の事実こそ、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静だっつう話w
意義を求める思考によって苦しんでるわけで、それら意義思考から解き放たれるのが悟り。 >>259
守、破、離の原則
初めて知りました
仏教の知識がないので調べてみます
無理せず焦らずにやってみます
ありがとう >>261
ありがと。
だから、守・破・離と書いた。
筏の喩えとも言える。
先ずは調身、調息、調心から入らないと。 >>257
今ここしかなく、今ここが涅槃である事を自覚する感じです。 >>264
はい⭐⭐⭐過去にも未来にも没頭する人は今の大事な時を蔑ろにします✨🍓哲学は現実の意義
です👸なにか到達できない距離があります✨今、ここで探求をしない者は存在を失います
毎日が高価で尊いのです👸 >>253
哲学の結論から言うと
人の空虚な内面の空間は
内面の自由の空間へと成るのです。👰 哲学は時間的に聖書よりも古いのです👸
人間にとって聖書よりも哲学のほうが根源的です。⭐哲学は聖書の中に侵入する能力があります✨🍓 こんな思想もありました✨🍓
すべての真理の疑いが「我はある」という確信にあたり崩れる。⭐ >>270
>こんな思想もありました✨
>すべての真理の疑いが「我はある」という確信にあたり崩れる。⭐
これらの文章は誰が書き、誰が読んでるか
と言うことです。 時間性はそもそも如何なる存在者では、なく
時間性は存在するのではなく時熟します✨🍓 >>273
時間性が停止した時、真理が現前します。 信仰が人間に理解出来ない事は神の意志によって生起したもので有るのです。⭐⭐💛 それに対し現実の政治は人間の知識では、全く無意味なものと考えられます✨🍓 >>274
夢を見ているときとか、物事に集中しているときは、時間をかんじないのですが。
そのときは、真理が現前しているのでしょうか? >>279
>>>274
>夢を見ているときとか、物事に集中しているときは、時間をかんじないのですが。
>そのときは、真理が現前しているのでしょうか?
時間性が停止しているとは、言いかえると思考が停止してます。
思考停止した時真理が現前します。 >>280
あ〜…そのように書くんですか〜…w
274で感心したんだがなぁw 今とか思考停止とか言いながら自分の過去の体験を悟りだと思い続けてるんだからしゃあない >>283
なにも変わることはないんだ
今のままで完全完璧なんだ!
こう言うのもあります。 ハイデガーは存在にこだわってましたが、
わたし達は宇宙として存在してるんです。 精神とは、われわれがすでに知っているもののことである。
そして既知なるものとは、われわれが経験したもののことである。
その既知というものさしを使って、われわれは未知のものを知ろうとしている。
しかし既知すなわち精神には、未知のものを知ることは明らかに不可能である。
既知は、すでに経験されたり、教えられたり、収集されたりしたものしか知ることができない。
……
もしわたしの精神が、自分は未知のものを知ることは絶対に不可能であるという事実を悟ったならば、
あるいはまた、精神は未知のものへ向かってただの一歩を踏み出すことさえ不可能だという事実を理解したならば、
そのとき何が起こるだろうか。
そのとき、精神は完全に静かになる。
それは絶望ではなく、もはや何ものをも探し求めないことである。
……
ところであなたは、愛は静かなものであるということに気づかないだろうか?
他者の手を握っているとき、
子供の顔をいとおしく見入っているとき、
夕暮れの美しさに見とれているとき、
そんなときすべてが沈黙し静かである。
愛には過去も未来もない。
それは異常なまでに静かである。
……
精神が静かなとき、
完全な無の状態にあるとき、
全ての思考が消滅したまったく普通とは異なる状態にあるとき、
そのようなときにのみ、名状し難いもの、
すなわち未知のものが姿を現わすことができる。
「いかにして神と出会うか」 クリシュナムルティ著 中川正生訳より11頁〜13頁抜粋。 >>293
四六時中そうならないとおかしいんですよw
いつだって未知です。眼や耳の事も知らないのです。その時だけ。見えることだけです。
見性なんて恥ずかしくて言えるもんじゃないもんですよw 思考は存在が本来的に人間に関わることを作ることも巻き起こすこともできません✨思考はこの存在からの関与を存在から思考自身に委ねられ差し出すに過ぎません✨👰 このように差し出すことは存在が思考のうちで
言葉となって現れてるからです👸 >>297
>>299
冗談です👾
手羽先食べたい >>291
精神は私自身を把握するには あまりに 狭い⭐💛 >>303
人に着いて来て欲しいの?
教祖になりたいんですか? 精神はそれ自身対象化されない唯一の存在です👸それは純粋な作用でありその存在をこれ等のその作用の自由な実行にのみ持つ😹 >>304 このばあい、着いて来ないは
理解されないを表しているのじゃ 精神の中心又は人格は従って対象化の存在では、なく物的な存在では、なく自ら自身において常に自ら自身を実現する諸々の作用の秩序の組織です👸⭐ 精神は希望を持ちます。
この希望を持つことが最も悲劇を生むのです。 地獄から還ってきたw
くそ、地獄やったw
自己探求w 井上義衍老師の流れを汲む、貫道老師に会いました。
雪担老師の話も聞けて面白かったです。 >>317
そりゃ、よかったな。
俺様は6月前後の呪いの修行w
欠陥ある分、のたうち回る定めらしいやw
この世にいない死人坊主に命日前後の出血サービス教育やw
苦悩して結論出てきて蓋をあければ、死人坊主の言いなりw 玄峰: (『無門関提唱(むもんかんていしょう)』第七則趙州洗鉢(じょうしゅうせんぱつ)の提唱の一部から)
『趙州(じょうしゅう)、因(ちなみ)に僧問う』趙州和尚のところに『乍入叢林(さにゅうそうりん)』今ようやくこの僧堂へ初めて入った僧が因に問う。これはただの問であるかないか、どうか。
『乞う師、指示せよ』どうかご垂示を下さい。指示はゆびさし示すじゃが、ただの指示ではない。急所を指示する。一切の修多羅(しゅたら)は月を指すの指なり。
自分めいめいの性根玉(しょうねだま)を月にたとえた。性根玉というのも玉にたとえたものじゃ。
どんなものがめいめいの性根玉であるか―。
この坊さんが趙州和尚にむかって、こう急所をひとつ、お示し下さい。いろいろのほかのたとえ話やほかのことじゃない、直々に自分の人々の性根玉をさしつけて教えて下さい、こう乞うたら、
趙州和尚が、『喫粥了也(きっしゅくりょうや)未(いま)だしや』そうか、朝のお粥を食べたか、食事はしたか。『僧云く、喫粥了也(きっしゅくりょうや)』
ヘイ、いただきました。そうすると趙州和尚が、『鉢盂(ほう)を洗い去れ』お前の持っておる持鉢(じはつ)(お坊さんの飯椀)じゃ。鉢盂、この食器はわれわれの使うものじゃ。
一般の人は自分がその仕事のために働いて、そうして給料をもらう。われわれは織らずして着、耕さずして食らう。着物も人の織ったものを布施してもらう。
一文も、金もうけするということはない、月給どころか、日給も一文もない。ただ禅宗坊主は坐禅三昧に修行して、そうしてどうかして一切衆生のために身を捨てて、肉を割いて母に返し、
骨を砕いて父に返し、しかして後大神力をめぐらして父母のために説法する。父母のため一切衆生のためじゃ。父母ということは天地ということに解釈していくのじゃ。
だからいろいろ施しを受ける。六波羅蜜(ろくはらみつ)のうちの檀那(だんな)波羅蜜(はらみつ)を受けないでは一日も生活ができない。 磨いたら
磨いただけの光あり
性根玉(しょうねだま)でも
何の玉でも 人多き人の
人あるその中で
人人となれ
人人となれ 覚悟を召されよ、と俺を追い込みやがるw
半端な俺の精神を追い込む果ての知った事w
>
平井: そうですね。これは玄峰老師というよりも、お釈迦様がお悟りを開かれた時に、妻子眷属(さいしけんぞく)や自分の地位を棄てて出家したお釈迦様が、
「世間は、これ我が有なり、衆生はことごとく我が子なり」と言っております。
「世間は、これ我が有(う)なり」ということは、世間のことは一切自分の責任だ。一切の生きとし生けるものは、自分の子どもだ、と言っておられますが、玄峰老師もこれと同じ、
それですから老師が、よく「いやしくも坐禅をする者は人一倍の力がなくちゃいけない。人一倍の力というものは、強いものにはより一倍強く、
弱い者にはより一倍弱くなっていく」。強いばかりが能じゃない。弱い者にもより一層弱くなって接していく。であるからして、玄峰老師なんかでも世の中のことは一切自分の責任だ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています