宗教、哲学、その他 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
【蛇のように賢く、鳩のように素直であれ】
・今の今まで、私達は飢え渇き着るものがなく虐待され身を寄せる所もなく、苦労して自分の手で稼いでいます。
侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵(ののし)られては優しい言葉を返しています。
今に至るまで、私達は世の屑(くず)、全てのものの滓(かす)とされています。
コリント一 4章11節
・神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者を言葉で励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
イザヤ 50章4〜6節
・見よ、わたしの僕(しもべ)は栄える。はるかに高く上げられ、崇(あが)められる。かつて多くの人をおののかせた貴方の姿のように彼の姿は損なわれ、人とは見えず、最早、人の子の面影はない。
それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。誰も語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。
イザヤ 52章13〜15節
・わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直であれ。
マタイ 10章16節
・お前は力に応じて隣人を援助し、 危ない目に遭わぬように注意せよ。
シラ(集会)の書 29章10節
・聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
マタイ 7章6節 【過労自殺】
・イエスは言われた。
「あなたたち律法の専門家も不幸だ。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしないからだ。」
ルカによる福音書11章46
・主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。
イザヤ 59章15、16節
・なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。
ルカ 9章41節 【ゆとり】
・学者の知恵は、余暇があって初めて得られる。実務に煩わされない人は、知恵ある者となる。
旧約聖書 シラ(集会)の書 38章24節
・経済効率重視から本当の幸せを求めて:スローライフの広がり
http://www.japanfs.org/sp/ja/news/archives/news_id027247.html
・空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれどもあなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
マタイ 6章26節
・神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
ヘブル 4章12節 【打ち破る敵としての賤民】
・「まことに、われわれがここに用意しているのは、不潔な者たちのための住まいではないのだ。
われわれの幸福は、彼らの身体と彼らの精神にとっては、氷の洞窟であることだろう。
かくて、われわれは、強風のように、彼らの頭上で生きることを欲する。ワシたちの隣人、雪の隣人、太陽の隣人として、このように強風は生きるのだ」、ツアラトストラは、かく語った。
「兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った」と書いてある通りである。
私たちが主イエスを信じて信仰の中を歩むこと自体が彼らの裁きとなるのである。
なぜなら、そこには、彼らが喜ぶこの世的な快楽も、彼らが頼りにする、慣れ合い的な人間関係も、社会経済の力学や法則も存在しないからであり、世界は終末に向けて、そのように動いてゆこうとしているからである。 【うつ病について】
・良い香りの献げ物と、 質の良い小麦粉を供え物として献げよ(自分という神殿に対して)。 余裕のあるかぎり十分に、供え物に油を注げ。
その上で、医者にも助けを求めよ。 主が医者を造られたのだから。 彼を去らせるな。お前には彼が必要なのだ。
シラ(集会)の書 38章11、12節
・あなたがたは知らないのか。自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを。あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。
あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
コリント人への第一の手紙第6章19−20節 【仏教】
・お釈迦様
「聡明にして共に行い善く住む慧者を友に得たなら、あらゆる危難を克服し喜び、念もて、かれと行くべし。
聡明にして共に行い善く住む慧者を友に得ぬなら、王が領土を捨てる如く森象の如く独り行くべし。
愚者には友の資格なし。独りで行く方がよい。諸悪をなさず、泰然として森象の如く独り行くべし。」
↓日常語訳
「もしも正しい生活している賢明な友を得るならば、共に歩め。それで一切の困難を克服して心にかなう気付きある生活ができる。
もしも正しい生活している賢明な友を得られないならば、征服した王国を捨てる王のように林中の象のように一人歩め。愚か者と付き合うよりは独り歩む方が良い。
林中の象のように悪をすることなく求めること少なく独り歩め。」
・一切れのかわいたパンがあって平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。箴言17:1
・アタラクシア(エピクロス)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%A2 ・イエスキリストが実在していたかどうかという疑問自体が根本からズレている。その疑問を抱くことが、聖書の謎解きができていない証拠である
・わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あたながたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
ヨハネ福音 14章27節
※上記の異言(そのままでは理解不能な天使の言葉)を翻訳すると次のようになる。
「聖書に書かれている内容の解釈が正しくできているか答え合わせをします。心の準備をお願いします。なぜなら、恐らく、あなたがたの解釈はかなり間違っていると思うからです。どうか、ショックを受けないでください。」
■
なにより大前提として、聖書に記述されている内容はほぼ全て比喩的表現だということを忘れてはいけない。
【イエスキリストは共同体が擬人化されたもの】
http://www.believers.org/jp/jbel193.htm
・人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
マタイ10・26−33
・覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。
ルカ12章2〜3節
※上記の2文が両方ともイエスの発言だとしたら、同一人物が同時に複数人存在することになる。
十字架への張り付けは、共同体が活動の自由を奪われ、共同体から多くの殉教者を出したという意味。
十字架上の死は、共同体が再起不能になるぐらいの損害を被ったという意味。
3日後の復活は、共同体を再結成して本格的に活動できるまでに3日かかったという意味。
マリアの処女妊娠とは、マリアが単独で共同体を創設したという意味。
つまり、聖母マリア崇敬は正しかった。 新スレが 建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第121章麦の秋、ひばり舞い歌う [無断転載禁止]©2ch.net
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1494496026/ 私はある。私はあるという者だ。
絶対無は絶対有。
この世界にはこの心しかない。
それが歓喜だ。 「何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」
禅はあなたにどんな探求も与えない。
それはあなたからすべての探求を取り去る。
探求者は敗北者だ!
なぜならまさにその探求のなかで、彼らは遠くにある国を見つづけているからだ。
彼らは星を見つづけ、自分自身の内側を見ない。 射精はオーガズムではない。
オーガズムとは、あなたが相手の存在を窓として使い、
知られざるもののなかに跳躍することを言う。
相手があなたの窓を使って知られざるもののなかに跳躍することを言う。
そのときオーガズムがある。
あなたが消えるとき、オーガズムは起こる。
広大無辺な広がりの状態だ。 何の観念も持たずに探求するがいい。
それが仏陀のメッセージだ。
見るがいい、あなたの目をきれいに掃除して、見るがいい。
特に何かを探すのではなく、ただ見るのだ。
事物に、事物のあるがままの姿に、純粋に見入りなさい。
目は清く、純粋でなければならない、さもなければそれは投映しかねない。 ただ純粋な意識
どんな名前も
どんな形も持たないただの純粋性
ただの無形性と無名性
ただ醒めてあるという、まさにその現象そのもの
ただそれだけが踏みとどまる 彼らは彼らのセックスを愛などと呼ぶ
愛はセックスじゃない
セックスが愛の中で起こることはある
それがその一部に
その大切な要素になることはあり得る
だがセックスそれ自体は愛じゃない
それはひとつの代用品だ
あなた方はセックスを通じて愛を避けようとしているのだ あなたが空であるとき
あなたに境界線などなくなってしまったとき
突然
あなたは<全体>になっている
あなたがいないとき
あなたは<全体>となり
あなたがいるとき
あなたは醜い自我となる
あなたがいなければ
存在のすべてのひろがりがあなたの実存の場となるのだ もっと愛しなさい
無条件に愛しなさい
ただ私を愛するだけでなく・・
それは駄目だ
もし愛するのなら
ただもっと愛するのだ
もし愛するのなら
ただもっと愛に満ちた在り方をするのだ
マスターに対してだけでなく
あなたのまわりに存在するあらゆるものに対して
木々に
空に
大地に あたり前の生活の中でさえ
あなたがたは言葉というもののむなしさを感ずるだろう
それどころか、そのむなしさを感じないとしたら
それはあなたがいままで
全く生きてなどいなかったことを表している
いままでとても浅薄にしか生きてこなかったということだ 心とは欲望することを指すのだ
心というのは実体のあるものじゃない
心というのは何かそこに存在するものじゃない
心というのは、欲望するというプロセスにすぎないのだ
あなたが欲望すれば
そこに心がある
欲望しなければ
そこに心はない
そして、そこに心がなければ
悟りがある 禅の人々は知識には関心がない。
彼らは力に関心がないからだ。
彼らの関心はあるがままの生に向けられる。
彼らは神でなく朝食に関心を持つ
天国でも、魂でも、過去世でも、来世でもない。
ただの朝食。
彼らは身近にあるものを全面的に支持する。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています