因みに、834は正しくない、ハッキリ言えば間違ってる
先ず、

>叩いたら音がする話を、する、その人自身の判断が働いているのは明らかである

こんな事考えるのは、「底前柏樹子」と言われて、庭先の柏樹の良し悪し云々を妄想したり
禅師の応答に対して「境で答えないでくれ」と難癖言ってるのと同義
そして、

>しかし、なぜかは知らないが、この五感と自然との感応の中に悟りがあると主張する
>その感応ですら、それがあれば、それしかない変幻無限のものであり、そこには、流れ去る主体なき幻があるのである
>しかし、それを幻と断定すれば、それは刹那には確実に存在しうるのだから、それもまた間違えになるのだ

と、どうしても「五感と自然」という二項相対として考えてしまってそれから脱せられていない
自然を感じてる時には五感は無いでしょう、ただ聞こえただ見え、ただ感じてるだけで
意識を五感(見る聞く感じるそれ自体)に向けた途端、今度は自然が無いでんでしょう
「一方を見る時は一方は暗し」です
五蘊皆空故に諸法無我(一切法無我)ですから、見る聞く感じると言う五感も当然自己じゃありません
自己とは思いに展開された妄想です、だから自己の正体は妄想だと言うんです
自己と考えてたそれは、見る聞く嗅ぐ味わう感じるの五種を材料に組み立てられた妄想なんです
その妄想は意根に起こります、ただの思考ですから実体はありません、無我なんですから

>そのないのが自己であるからして

どうしても自己を設定してでなければ分からないのでしょうね
それをしてる限りは分からないと思われますけど