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盤珪は、その僧侶に前に来るように頼むと、彼は誇らしげに人々を押し分けて来た。
それから盤珪は、自分の横に坐るように頼み、それから席を自分と替えるように頼んだ。
その僧侶は盤珪の場所へ上がった。
「ほら、ごらんなさい」と盤珪は観察して言った。
「あなたは私の言うことに従っています。
あなたは非常に心優しい人だと私は思いますよ。
では、すわって話を聞いてください」。

また、ある僧侶が盤珪に近づいたときの別の逸話も残っている。
その僧侶は、自分の師が奇跡を起こすパワーをもっていることを誇っていた。
彼の師は、筆をとって、空中で阿弥陀を描き、すると、遠くにある一枚の紙の上に言葉が現れるのだった。
これと同じことができるかとその僧侶に尋ねられた盤珪は、「私の奇跡は、空腹のときに私は食べ、喉が渇いたときに、飲み物を飲むことです」と答えた。
盤珪の教えは、禅の公案のシステムとはまったく異なるものだった。
公案に対する瞑想は、長期間にわたる蓄積された緊張をもたらし、あとで悟りにおける解放を生み出す。
真実は、得ることが困難で、それゆえ非常に価値あるものとされている。
盤珪はまったく自分自身の確信に頼り、自分の弟子たちにそのシンプルな真実を直接的に、自然に経験するように、そしてその価値に納得するように奨励した。
盤珪自身の長く困難な道は、彼が真実を発見し、それの価値を理解するために必要であったという議論もあるかもしれないが、盤珪自身はそういった過程が必要であることを否定し、真実は、簡単に手に入るものだと主張した。
不生から生きられた人生は、観察眼を深め、注意力を集中するための経験をもたらすのだった。
彼の弟子たちの中には、瞑想は注意を集中するために適切なものだと感じる人たちもいた。
盤珪は、床にすわって、生きた仏陀になるだけで、十分だと言った。
彼の最大の強調は、行動中の瞑想、日々の生活における瞑想であった。
彼の一般的指針は、見事なまでにシンプルだった。
「ただ、仏陀の心ですわり、ただ仏陀の心で存在し、ただ仏陀の心で眠って起き、ただ仏陀の心で生きなさい」