>>490

「ありとあらゆる「こだわり」から自由である」ということであれば、洗うだとか洗わないだとか、触れるだとか「水というものの本当のハタラキ」とかだって、別にどうだっていいということになるんじゃないですか?

「触れる」というのは、「対象物にくっつくと触って、それから離れれば触っていなくなる」、というようなことではないのです。

玄沙和尚は、かつて坂道で蹴つまずいて足の指をぶつけ、全身に激痛が走った時に悟りを得たのです。徳山和尚も、悟らせるために棒で殴りました。

バドラパーラが、叫んだ時、一緒に風呂に入っていた残りの15人も、その場で同時に悟りを得たそうです。

雪竇(せっちょう)和尚は、「妙ちくりんなアロマ風呂から出てきやがったなら、顔面にツバを吐きかけてやるからな!!」、と息巻いていたとか。

本物の修行者というのは、無用の議論が始まるやいなや、サッと席を蹴ってゆくものです。「風呂に入ったら悟りを得た!」というのはどういうことか、なんて、そういう人にとっては「夢のなかで夢の話をしてやがる」ようなものです。  』

⇒ 風呂に入ったら、さとった、と言う。
   蹴った石が竹に当たった音を聞いたとたんにさとったと言う。