仏性 ・・・全世界は悉く主体性そのものであつて、対象物は一物もない。今日只今のところには、第二物は無い
のであつて、ただ第一人のみである。「根源はすでに断ち切れているのに、人は気ずいていない。茫漠として業力
にひかれていく我々の意識はいったいいつ休止するのであろうか」。しかし実はそのままが仏性なのである。
全世界は、虚実の縁起による存在ではない。なぜならば一物も隠すことなくむき出しのままであるからである。
むき出しのままというのは全世界がそのままの存在であるというのではない。外道の誤った見解では、全世界は
悉くわれの存在であるというが、もとより正しくはない。また全世界は本来的の意味の存在でもない。なぜなら、
古えにも充足し、今にも充足しているからである。あるとき初めて現われる存在でも無い。なぜなら一つの塵さえも
加わることはないから。別々に別れた存在でもない。なぜなら全体が一つであるから。無限の過去から存在でも無い。
なぜなら究極ギリギリの、即近のところであるから。あるとき初めて現われて存在している存在でもない。日常の心
がそのまま仏道であるから。まさに知るべきである。このような悉く有るのなかでは、我々衆生は良い便りに逢う事
は難ずかしい。それは悉有の抜け殻である。このように悉有を得ているのであるから、悉有それ自体は透徹し脱落し
ているのである。・・?悉く或るは我々の身心からー脱落してて小さな修生の目がついて意ていて今は春課此処で働
く用になっている。私も昔の思いの着物脱ぎ変えて衣類はコート要らずのサンマーディの春の午前は
銀の椀に雪を盛るのは無理?脳内には宇宙が広がっていその中に私が居てその中に宇宙の春もある野鴨