再度ね。
「あれれ、自分がない?」という体験は坐禅中に往々にしてある事だから。
でも、自分がないというのを観察する自分が残っているから、それは悟りでも見性体験でもない所謂妄想。

むしろ「あっ、自分がある!」というのが無我の体験に親しい。何らかの機縁に触れて自己の存在(があるの)を識るのだから。