おさらい

「自己の本性とは空性である」は誤り

何故なら、「自己」を定義してしまって結論するのは外道・ダルシャナの見解になるから
仏教の畢竟は「自己と呼べる根拠はどこにも無い」のであり、ほんの少しでも、たとえ仮にでも
自己を定義したがるのは煩悩障の現れなのであり、仏教の見解としては誤りとなる
それ故に禅問答では自己を語らない、本性を問われたとしても定義しない
祖禄などを読んだとして、その言わんとする答えを幾ら類推しようにも見当たらないのはこの為なのであり
行(坐禅)を経ねば分からないとされる所以もこの為なのであると言える

元々無いものは定義出来ないし、探したところでどこにも無いのである
そのどこにも無いものを探してしまう事こそが人無我に迷う無明なのである