なぜ日蓮正宗は創価学会や顕正会の本尊を偽物呼ばわりするのか? [無断転載禁止]©2ch.net
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そもそも日蓮正宗の御形木御本尊(印刷された本尊)自体が、同じ日蓮正宗の常住御本尊(歴代上人直筆の本尊)のコピー、レプリカなのだが? ☆御本尊に法主の開眼供養は必要か?
結論から言いますと、必要ありません。それをこれから解説していきます。
「仏に三十二相有(いま)す、皆色法なり。最下の千輻輪より、終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし、作りつべし。
梵音声の一相は、不可見有対色なれば、書くべからず、作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。
故に仏に非ず。又心法かけたり。生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり」(木絵二像開眼之事 )
通解:
(仏には三十二相があり、すべて色法です。一番下の千輻輪相から最後の無見頂相までの三十一相は、目に見えるので書くこともできるし作ることもできます。
ただ、梵音声(仏の声)の一相だけは目に見えないものなので書くこともできないし作ることもできません。釈尊滅後には木画の二像(仏像)がありましたが、これらは三十一相だけで梵音声が欠けています。
故に仏ではない。また心法も欠けている。つまり、生身の仏と木画の二像を比較したならば、天地雲泥の差があるのです。)
読んで分かるとおり、仏像には、梵音声と心法が欠けているので仏になることができないということです。だから、開眼供養しなければ、仏像は魔仏になるという論理です。
上記を踏まえて日蓮正宗の主張を考えると、日寛上人の御形木御本尊にも梵音声と心法が欠けているということになりますが、果たしてそうでしょうか?
(つづく) 大聖人は、同じく『木絵二像開眼之事』で次のように仰せです。
「法華経の文字は、仏の梵音声の不可見無対色を、可見有対色のかたち
と・あらはしぬれば顕形の二色となれるなり。滅せる梵音声、かえつて形
をあらわして文字と成つて衆生を利益するなり。
人の声を出すに二あり、一には自身は存ぜざれども、人をたぶらかさむがために声をいだす。是は随他意の声。自身の思を声にあらはす事あり、
されば意(こころ)が声とあらはる。意は心法、声は、色法。心より色をあらはす。又声を聞て心を知る。色法が心法を顕すなり。
色心不二なるがゆえに而二(にに)とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり。文字変じて又仏の御意となる。
されば法華経をよませ給はむ人は、文字と思食(おぼしめす)事なかれ。すなわち仏の御意なり」
通解:
(法華経の文字は、目に見えない仏の梵音声を目に見えるかたちとして顕わしたので、顕色(色彩)と形色(形状)の二色となりました。滅した梵音声がかえって形をあらわして、文字となって衆生を利益するのです。
人が声を出すには二つの場合があります。一には、自分自身は思っていないけれども、他人をたぶらかそうとするために声を出すことがある。これは随他意の声である。二には、自分自身の思いをそのまま声にあらわすことがある。
ゆえに意が声とあらわれるのです。意は心法、声は色法である。心法より色法をあらわす。また声を聞いて心を知ります。色法が心法をあらわすのです。
色心不二であるがゆえに色法、心法の二つとあらわれて、仏の御意があらわれて法華経の文字となったのである。法華経の文字は変じて、また仏の御意となるのです。
ゆえに法華経を読まれる人はたんに文字と思ってはならない。それは仏の御意なのです。)
つまり梵音声は、木像や絵像という形のあるものでは顕わすことができませんが、文字によって顕わすことができます。
そして、仏の御意(心法)も文字となって顕わすことができるのです。
日寛上人の御形木御本尊を見れば分かるとおり、仏像などとは違い、文字で顕わされています。ここまで話せば、もうお分かりですね。
御本尊には、開眼供養などする前から、梵音声も心法も具わっているのです。
日蓮正宗では、すべてが満たされている御本尊に開眼供養をして何を入れようとしているのでしょうか? いや、それはその法華講員単独の人の考えなのでしょう
宗門の公式文書でそのような記述は見たことがありません
☆開眼供養は法主でなければダメ?
既に、文字曼荼羅である御本尊に、開眼供養が不要であることは述べました。
しかし、日蓮正宗の輩は、それでも次の御文を引用して、法主による開眼供養が必要だと言い張ります。
『法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し』(木絵二像開眼之事 )
この御文の中の「法華を心得たる人=法主」と解釈しているわけです。
本来、御本尊には開眼供養など必要ないのですから、こんな難癖は無視してもいいのですが、あえて「開眼供養が必要」という立場に立っても、「法主」による開眼供養でなければいけない、とする考え方は間違っています。
それは「真間釈迦仏御供養逐状」を読めば明らかです。
『仏の御開眼供養の御事はいそぎいそぎ伊よ(予)房をもてはたしまいらせ給い候へ』
つまり、日蓮大聖人が釈迦仏像の開眼を弟子の伊予房に行わせたことが、明確に記されているからです。
はたして日蓮正宗の人たちは、この釈迦仏像に、鬼神が入っているとでも言うのでしょうか?
大聖人が弟子に開眼供養させたのは、それが御本尊ではなく「仏像」だったからですよ。
開眼供養されていない仏像は、梵音声と心法が欠けているので、仏になることができないわけです。 >いや、それはその法華講員単独の人の考えなのでしょう
それなら、あなたの主張も単独の人の考えなのでは? >なぜ日蓮正宗は創価学会や顕正会の本尊を偽物呼ばわりするのか?
日蓮正宗から正式に下府された本尊以外を『偽本尊』と呼ぶのでは?
しかし創価学会や顕正会が『コピーした本尊』を本物と主張するなら、
それで結構なのではと思いますよ。
あとは、会員の判断に委ねる。
すでに日蓮正宗とは別団体なのだから・・・ >>7
本尊を偽物とまで言い切るからには宗門の公式文書にハッキリ出てこなければおかしいってことでしょう?違うの? >>10
>日蓮正宗から正式に下府された本尊以外を『偽本尊』と呼ぶのでは?
そんな道理はもともとない
それ言い出したら他の日蓮宗にある「日蓮大聖人直筆本尊」も偽本尊なのか?って話にもなる そもそも大石寺の大御本尊が贋作なんだから
その複製の本尊の正統性など最初から論じる価値もない 余談ですが、不動明王(オーム教のシヴァやイルミナティも同じ)弁償はとっても、おまいりすべきじゃありません。何万年と裏でだましやってきた
悪事がばれて上の神仏界で毒殺抹消対象になっています。ちゃんと過去生から精進,徳を積んできた人が不正に障害者に
されたり変な因縁をつけられたりしています。一見その場が助けられたように見えてももともとそうなる運命じゃなかった人が
あらかじめ不正に罪を背負わされ、苦境にたたされるようにされ、表からはそれを少しぬいて、大難を小難にしてもらったと
錯覚させれてるだけです。例えどんなに物事一所懸命やっても決して成就することはなく(または、病的怠惰をかけらえできないし)
要するにアフリカの難民みたくみんな引きずり落としあって永久にダメにされます。「バックトゥザフューチャー2」
のビフがもっと悪化したようなものです。テレビも何も知らず映してることがあるが大きな間違いです。
釈迦、空海、キリストなどもこれに便乗していたので今後おまいりしてはいけません。
不動はおまいりすべきじゃありません。その障害を持っていながらも何とか社会に貢献しようと、
新しい物を考え出しても、どんなにセキュリティーアップしても裏切られ取られるようにされ、なかったことにされます。 日蓮正宗大石寺顕正会という名前の団体なら、日蓮正宗大石寺がニセ本尊だという場合ニセ本尊だという事になる いくら詭弁を尽くしたところで、
公明党自体が政教分離に違反している
違憲政党であり犯罪者集団だよ。
つまりは泥棒が泥棒に意見しているのと同じこと。
自分自身をまず反省して解党しろよ。 >>18
日蓮正宗を指して創価学会を罵る
内輪揉めに他所を巻き込んだのが悪い 本尊がニセモノとかそんなことが世間で相手にされるとか思ってるの日蓮正宗ぐらいだよな。
世間一般からしたら何バカらしいことにこだわってるのって感じだ。 >>18
日蓮BigSexMan(にちれんだいせいじんw)の木彫り版画がニセ本尊だとバレたから
スレ立てた感じだけど、日蓮正宗と創価学会は信者にちゃんと説明しているのがポイントというか、信者も納得してるので詐欺では無いし、騙してもいない
一方の顕正会は、ダメだこりゃでございます 本尊こすった紙が霊験あらたかな御秘符とか、実に笑わせる。 >>23
だったらどうだってのさ。なむみょーほーれんげきょーって書いたイタ本尊こすった紙が
霊験あらたかなゴヒフなんておとぎ話じゃあるまいし。
その昔、ガンになったソーカのジーサンがショウシュウに来てどうかゴヒフを下さいと懇願したそうだが
ニチレン系はどこもこの低レベルぶり。どこが正統と称しても同じ穴のムジナ。
ケツのあなふいた紙の方がまし。 >>22
それは護秘符の方だろう
正宗の御秘符は和紙に塗り付けた食紅をこそぎ落として水に溶いて飲む
どっちもインチキなまじないに変わりはないが そのとおり、インチキなまじない。巣鴨の刺抜き地蔵さまも特許侵害だと怒っておられますよ。
ははははは。 >>1
創価学会や顕正会がオリジナルの本尊を作ればいい。 >>21
その創価だけど、そんな説明ちっとも受けてないぞ
それに納得してたらわざわざ宗門へくら替えするヤツもいないだろう レプリカだとかコピーだとかそんなことに拘ってるから二流なのだ
たとえば本尊が本物だとしてそれでお前に何の関係がある
本尊が本物か偽者かは自分の生きる道になんの関係もない
重要なのは自分自身だ
そもそも自分自身が本物ならばそんなつまらんことは気にもしないはずだ
自分が何ものかわからないが故に本物を求めたがるのは人の常
私も学会員の知り合いからこれは本物だからと勧められる機会がある
しかしそう言った彼の中身は空虚だったことが気がかりだ
彼らは空虚なまま幸せになれるという集団的な幻想に囚われている
しかし彼らに限ったことではなくこの世の多くがそうだと言える
更には幻想を信奉する集団同士が対立し競合するという末期の様相を呈している
イエスのようになるにはイエスのように生きる他なく
日蓮のようになるには日蓮のように生きる他にない
何故なら彼らは他の誰でもない彼らであるが故にその境地は唯我独尊
凡夫はそこから恩恵を受けられると思っているようだがそれこそが幻想なのだ 創価顕正二人で名前変えたら無問題
ふたりで〜なまえか〜えーて〜w >>31
顕正会=浅井心理教
創価学会=銭ゲバ迷惑教 >>29
ベーブ・ルースの伝記読んでその通りやろうとしても、ベーブ・ルースにはなれない >>6
>宗門の公式文書でそのような記述は見たことがありません
>但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず
http://www.sokanet.jp/kaiin/gosho_search/page.php?n=468&k=%E7%9C%BC&o=a&c=10&p=4 だからさ、「本物の本尊」の定義は?
そしてそれを裏づける道理は?文証は?現証は?
そこんとこハッキリさせて貰えない限り何を書いても誰も納得しないんだよ たとえば道理から言っても、他の日蓮宗にある「日蓮大聖人直筆本尊」の扱いはどうなるのか
文証で言えば「開眼供養しないと本尊ではない」と歴代上人は一言でも言ったのか
百歩譲って開眼供養は必要だとしたら、開眼供養する前の御本尊には何が欠けてるのか 紙切れや板切れがなんぼのもんじゃ。
開眼もへったくれもない。 正宗は題目終わったらはい即解散
てなんか侘しい
まあ創価みたいに無駄に過密な会合とかないんだけど
多分創価から戻った人は十中八九
あれ雰囲気がなんか違う、どこかさびしいと感じるだろう
まあ正宗の方が正しいてのは体感で分かったけど
この雰囲気的な問題はなんとかするべきだと思う そもそも本尊どうこうより
金庫捨て事件とか人口削減ローマクラブとか後藤組長に暗殺依頼とか
オウム事件関与、子宮頚ワクチン、自民と組んでムサシで投票操作および水増し不正
総体革命、金で表彰漁り、言論妨害、麻薬王ノリエガとの付き合い、ヤフーの個人情報流出……etc
これらデモでもなんでもなく全部マジやし
宗教以前の話ですわ >>42
要は戒壇の大御本尊を信じてて歴代上人の一人である日寛上人書写の御本尊拝んでれば何の問題ないわけでしょう
そのコピーたる御形木本尊でもそれは同じ >そのコピーたる御形木本尊でもそれは同じ
https://www.youtube.com/watch?v=5_3yN-FvDWU
「法華を心得た人」が開眼供養しなければ 「本尊」にはならない 創価学会の実態は、宗教の名を借りた集金団体・集票団体であり、
悪質な人権侵害団体でもあります。
現在の日本で、最も危険で有害なカルトといっても過言ではありません。
この悪質なカルトの実態を、一人でも多くの方に知ってもらいたいと思います。
「創価学会はカルトです」
http://konmanki.blogspot.jp/ そもそも文永元年、四十三歳御作といえば御本尊の書写を始める前の時の話
当然その本文にも「開眼供養しないと本尊にならない」とはどこにも書いてない 個人崇拝 偶像崇拝 他所で勝手にやって。他巻き込まないで。
顕正会の本尊は、日蓮BigSexManの木製品だそうだから
時代に合わせてプラスチック、シリコン製のも出回りそうだ 大聖人が弟子に開眼供養させたのは、それが御本尊ではなく「仏像」だったからですよ。
開眼供養されていない仏像は、梵音声と心法が欠けているので、仏になることができないわけです。 ↑
原文は↓だと思うのだが
『仏の御開眼供養の御事はいそぎいそぎ伊よ(予)房をもてはたしまいらせ給い候へ』
これは「仏像だから急がせた」と・・・ だからと言って「御本尊には開眼供養が必要」という理屈にはならない つまりそのトヨダとかいうオッさんが勝手に言い出したことで歴代上人はそんなことは言ってないってわけだ ↑それを破折出来ない顕正会員・創価会員って?
御書を解説してるだけだと・・ この場合は御書だけではダメなの
歴代上人の正師の文証がなければ破折した事にならない
相手は身延日蓮宗じゃなくて同じ日蓮正宗系の団体なのだから >この場合は御書だけではダメなの
なぜ?
>歴代上人の正師の文証がなければ
御書と矛盾する文証があるはずがない。
あるなら出してください。 そう言う事じゃなくてそのトヨダとかいうオッさんの「御書の解釈」が間違ってるってこと
それは>>3>>4>>6で説明済み
また道理から言っても他の日蓮宗にある「日蓮大聖人直筆本尊」は正宗の開眼供養供養がされてないが?
日蓮正宗の歴代上人はそれらの本尊には鬼神が入ってるなんて言ってましたかね? >>64
>>34
モグラたたき?
>歴代上人の正師の文証がなければ
御書と矛盾する文証があるはずがない。
あるなら出してください。 >>65
×
>>64
>>5
モグラたたき?
>歴代上人の正師の文証がなければ
御書と矛盾する文証があるはずがない。
あるなら出してください。 御書には「仏像には開眼供養が必要だ」とはあっても「御本尊には開眼供養が必要だ」とはどこにも書いてない
あるなら出してください。 日蓮BigSexManが
「俺様に背く日本は必ず滅ぶ」
唱えて大石寺に遺した根拠を提示してください 日蓮聖人は俺様に背く日本は滅ぶという風には言ってない
悪い思想や宗教が蔓延ってるから
人の心が乱れ国が悪くなりますよて言ってる
それらの根本は全て宗教にあると言っている
ブラックラグーンでいうロアナプラみたいなもんや悪人しかおらん
悪人しかおらんのならそりゃ国も無茶苦茶なるやろ
ユダヤ教のタムルードなんか無茶苦茶やで
ユダヤ人の物を盗んでもいいいが他の人間ならよし
全部こんなんや
あんま知らんけど、こういう思想が国の乱れの原因だと説いてる 逆だわ
ユダヤ人の物を取ってはいけないが他の人間(ゴイム)奴隷ならよし
姦淫をしてはいなけない、ただし他の人種ならよし >>71
浅井せんせーは、舞朝日蓮BigSexManの
木彫りペニスを “日蓮が・たましひ=南無妙法蓮華経”が、きちんとしたためられており、
「文字と思ってはならない。それは仏の御意(みこころ)なのです」(通解)とまで、御書に明確に書かれてあるのに、
日蓮正宗の人たちは、開眼供養によって、一体何を入れようとしているのでしょうかね?
私には全く理解も予測もできませんが。 だいたい詭弁教教祖樋田はしきりに梵音声が欠けた三十一相の仏像を日蓮大聖人御図顕曼荼羅にこじつけていますが、
そもそも日蓮大聖人御図顕曼荼羅に三十一相なんてありませんよね。 >>73
>>74
御書の都合の良いところ抜き出して難癖つけて、逆に破折されてる
スレタイ見れ そういうの破折って言わないよ
こじつけっていうの、屁理屈 それに開眼供養しないと本尊にはならないなんて、そのトヨダ以外宗門の誰が発言してるのか
あるなら教えてください。ないならそれはどこまでも一法華講員単独の考え、つまり「己義」でしかないのです。
よく御書さえあれば日蓮大聖人の仏法はすべて理解できると主張してる人がいますが、
他門の日蓮宗も大聖人の御書を拝読していながら、邪義異説(じゃぎいせつ)を唱えていますよね? ちなみに過去の御本尊授与の在り方を見ると「法主が開眼した」というのは真っ赤なウソ。
例えば昭和初期以降だけ見ても、御本尊授与の実態は以下の通りである。
昭和の初期
◇戦前・戦後を通して東京周辺の主要寺院で、例えば、妙光寺は55世日布、法道院は56世日応、常在寺は57世日正というように有縁の法主の御形木を開眼しないで授与していた。
◇遠隔地の信徒の場合、御本尊を印刷した和紙をそのまま授与し、信徒が自分で表具店に出して表装する場合もあった。
昭和30年代前半 (日淳法主の時代)
◇東京・豊島区池袋の法道院で日寛上人御書写の御本尊の授与書きを削って印刷。
◇付き合いのある表具店をもつ末寺は、表装前の和紙の状態の御本尊を、基本的には百枚一束で法道院から購入し、表装に出していた。
◇専属の表具店をもたない末寺は、法道院から表具店に出してもらい、表装済みの御本尊を発送してもらっていた。
昭和30年代後半 (日達法主の時代)
◇法道院で印刷した日寛上人書写の御本尊を法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊を法道院から各末寺へ開眼せずに発送していた。昭和40年代〜54年(日達法主の時代)
◇日達法主書写の御本尊を法道院で印刷。法道院が表具店に出し、表装済みの御本尊を法道院から各末寺へ発送していた。
昭和54年以降 (日顕の時代)
◇本山に御本尊を取り扱う内事部第三課を設置してからは、富士宮市内のK印刷でニセ法主の日顕が模写した偽造本尊を印刷していた。
◇印刷会社から第三課に届いた模造本尊は、第三課の坊主が印刷状態と枚数を点検し、状態の悪いものは破棄していた。
◇その後、群馬県のO表具店など幾つかの表具店に出して表装していた。
◇表装された御本尊は再び第三課に返送されて納品される。第三課では検査の後、別の段ボールに詰め換えて末寺の入金に応じて宅配便で配送していた。
以上の通り、法主もニセ法主も開眼はしていない。「(法主によって)御開眼され、総本山より下附されてきた」(平成5年9月7日「宗門文書」)は真っ赤なウソなのである。 法主開眼には思うとこはあるが創価の文字改竄は明らかにいかんだろ 開眼も何も板切れ紙切れ本尊でギャーギャー言い争ってるてメーラの低能 そもそも日蓮を神格化した時点でカルト。カルトの
分派どうしの内ゲバ 日蓮BigSexManに背き続ける日本は、別に滅びない
滅ぶとしたら、顕正会が国家戒壇とかやらを成し遂げた場合
これに尽きるw 法華経が日本の国教になったら、国際社会から孤立する 昭和31年7月 戸田会長
この御本尊様こそ、真の木絵二像開眼の御姿でなくてなんでありましょうか。
これは日蓮正宗以外の邪宗では絶対になしえないところであり、ただ日蓮正宗のみのもつ深秘の法門であります。
邪宗がいくら日蓮正宗の御本尊をマネて作ってみたところが、それこそ馬の骨なのであります。否、恐ろしい毒薬の働きをもつのであります。』 まず常住御本尊と御形木御本尊を混同してはいけない
そしてよしんば常住御本尊には開眼供養が必要だとしても、御形木御本尊は例外なくその常住御本尊の印刷なのだから
改めて開眼供養する必要などないのではないか
だから>>79みたいな実態でも宗門側は容認してたのだろう >>79
法道院って昭和23年〜32年まで浅井会長の親父さんが在籍していた。
不正があったなら親父さんから不正を聞いているじゃないの
宗門は『開眼供養していたと』否定してる。
泥仕合wwwww
現時点でどうなの?
しかし日蓮正宗から除名されて
邪宗となった創価・顕正は、コピー本尊しか作れない。 >>91
ステージ衣装 水着 ヘアヌード
一番人気は袈裟姿 山口組の武闘派 後藤組組長後藤氏が自伝「憚(はばか)りながら」で池田大作に雇われ、様々な悪事をしたことを告白暴露しているよ >>88
>常住御本尊には開眼供養が必要だとしても
なぜ? 人法一箇なのに人為的工作で拵えられるのか?本尊って。
禅定解脱三昧に至る道に本来道具なんて不要な所を
日蓮さんは文字曼荼羅って言う「向かうべき仮設」を作ってくれたんだろ。
訳分かってない奴が空中を仰いで禅定解脱三昧は難しかろうって事でな。
木絵二像開眼之事って身延曾存の遺文だな。
法華講も創価も身延の言い分を信用するって事なのかな?
つまり、大正八年の身延の大火までは真筆遺文が確かに存在したって言い分をさ。
嘘かも知れないとは思わないのかな?
自分たちに都合の良い部分だけは信じるって事なのかな?
日蓮正宗系と日蓮宗身延派とは真っ向対立する関係じゃないか。
その言い分を都合に合わせて採用するって仏教の風上にも置けないよな。
「あらおもしろや(中略)、モノに狂うをみよ」だろw 因みにな、日蓮さんが言ったかどうかの真偽は一旦置いとくとして
木絵二像開眼之事で言ってんのはな、木で出来た像や絵に書いた像を
仏陀として拝むにはどうすれば良いのかを説いてるんだよ。
それは日蓮さん由来の文字曼荼羅も含まれるって事なんだろうな。
遺文に曰く、
「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり」
だそうだ、ここ基本ね。
で、三十一相までは「可見有対色なれば書きつべし作りつべし」なんだとさ。
見る事ができるものだから書けばいいし作ればいいってさ。
しかし残る一相が梵音声(宇宙全部に轟く大音響)なので
「梵音声の一相は、不可見無対色なれば書くべからず作るべからず」
なんだとさ、書けないし作れないと。
で日蓮さんは言う訳、作った三十一相の前に経を置けば三十二相が揃うとね。
で、揃ったとしても「心」が無ければ
「但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず」なんだとさ。
中略して、じゃあどうすんのさ?って言うと、結論は
その三十一相の前に法華経を置けば良いんだとさ。
仏像でも仏画でも、これで生身の仏レベルに当たるんだとさ。
日蓮さんの曼荼羅ってのは法華経の題名それ自体を具足したアイデア商品みたいなものなんだろ。
だから画期的で、持ち運びも便利なんだろ。
仏像と経典(八巻二十八品だっけ?)を持って歩かなくても良いんだからさ、一巻一幅で済む。 でな、本尊がそれで揃ったとしてもだ。
心がなきゃ仏にならないって日蓮さんは言ってる訳だ。
心って、信心の事言ってんだろ。
心一つでそのモノが仏陀か否か決する位重要だと日蓮さんは言ってんだ。
モノより心のが重心重いだろ。
先にも言った通り、人法一箇だ。
それって身と心を指してんだぜ。
本当のご本尊ってのはさ、自分なんだよ。
自分を拝む事は出来ないだろ、だから一旦モノに仮託して拝むんだろ。
依正不二なんだろ?って事は生身の仏って目の前の掛け軸なんかじゃねえだろ。
それは日蓮さんが御慈悲で仮に作ってくれた目印なだけなんだよ。
掛け軸が仏なんじゃない、自分が仏を発動しなきゃ信心の意味がないんだよ。
二仏並坐とは自分の事、宝塔さながら阿仏房なんだろ。
なんつってな。 宇宙全部に轟く大音響としての梵音声とは何か?
不可見無対色=見る事が出来ず(不可見)実体も無い(無対色)なものとは一体何の事か?
日蓮さんは法華経を木像なんかの前に置けば良いって一応言ってる模様だが
何だかわからんよな。
これな、見方を変えると簡単だ。
無字の公案って言う禅宗の問題に出てくる「無」の事だよ。
それは虚無って意味じゃ無く、有無の無って意味でもない。
この無が宇宙全体にいつも轟いてるんだよ。
これがわかるまで俺は日蓮さんは間違った坊さんだと思ってたよ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています