宗教大嫌い! [無断転載禁止]©2ch.net
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それから、「アメリカや韓国が私たちの国を侵略しようとしている。これを憎め」とも言っていました。そして、「彼らのせいで朝鮮戦争があったのだ」というようなことを教えていたのです。
しかし、実際にはW逆”です。「北朝鮮のほうから韓国に攻撃があり、北朝鮮軍は朝鮮半島の南端あたりまで押し寄せたものの、国連軍がそれを押し返した」というのが事実です。
そのあと、「三十八度線」を挟んで休戦状態になりましたが、今、また、戦争の匂いが立ち込めてきているところです。
北朝鮮では、そういうかたちで、「憎む」ということを、はっきりと教えています。
それから、大統領を罷免された韓国の朴槿恵さんは、在任中、大統領の身でありながら、「千年間、日本、日帝への恨みは忘れない」という趣旨のことを言いました。
これは、日本では想像しにくいことです。日本の総理大臣が、もし、どこかの外国に対して、「この無礼は、千年間許さない」と言ったら、おそらく、「人間ではない」というような報道をされ、
「こんな立場の人がそんなことを言ってよいのか」と言われると思いますが、韓国では、そういうことを普通に言えているわけです。しかし、その憎しみに、もうどこかでストップをかけないと、発展しません。
敵をつくることによって、自分たちのやっていることの正当性を出そうとするところが数多くありますが、それは、歴史的に見ても非常に、W幼稚な手段”だと思うのです。
ナチスが、ユダヤ人を敵視することによって自分たちの行動を正当化していこうとしたように、「何か敵をつくることで、自分たちを正当化し、合理化する」というのは幼稚だと、私は思っています。
やはり、「憎しみ」は、「愛」によって乗り超えなければいけないのです。 「愛」の反対にあるのは、「憎しみ」の下にある「嫉妬心」
「愛の反対は憎しみである」という考え方がありますが、私には、むしろ、愛の反対にあるのは、「憎しみのもとにある嫉妬心」ではないかという気持ちもあります。
嫉妬する気持ちが、どうしても、人を押しのけようとしたり、貶めようとしたりする気持ちになってくるのです。
これも、私の若いころの悟りの一つではあるのです。私も、競争心や優越感、劣等感を、いろいろと経験してきましたが、
「劣等感を持ち、嫉妬心を持って、特定の誰か、優れた人や脚光を浴びている人などを羨んだところで、自分はちっとも幸福になれない」ということは、若いころの悟りとしてありました。
そこで、自分にはできないようなことを、サッとやってのけるような方々を観たら、むしろ、「すごいですね。素晴らしいですね」という気持ちを持つように努力していったところ、人生観は変わってきました。 そういう人に対して嫉妬し、敵視すると、向こうもこちらを敵視してくるので、顔を合わせられないような状態になるのですが、逆に、相手を「いい人だ」と思っていると、それがどこかから人づてに伝わっていき、相手は友達になってくれます。
そうすると、優秀な人の仲間に入っていけて、自分にプラスになることが多く、相手のほうも、人柄がもう一段大きくなってくるところがあるのです。 5 世界に必要なものは「神の愛」
国民を幸福にしようとするのが「政治家の愛」であるべき
今、世界に必要なものは「愛」です。
「愛の反対は憎しみ」と思うこともあるけれども、憎しみだけではなくて、「嫉妬もある」のです。嫉妬によって競争が起き、「他を憎んでいる」という現象が起きているなら、やはり、それは正すべきだと思うのです。
例えば、北朝鮮の核開発やミサイル発射が問題になっています。アメリカと対等になろうとして、一生懸命やっているのは分かりますが、北朝鮮は、大勢の国民が、表情をつくることもできず、言われた通りのことしかできない、完全な全体主義の共産主義国家です。
デモクラシー(民主主義)の国家は、人間を「目的」とします。「人間自身が目的であり、手段ではない」のです。
一方、全体主義国家においては、人間は「手段」なのです。大勢の人間を使って何かをやろうとしているのが全体主義国家です。
デモクラシー、民主主義の国家においては、そうではありません。人間にとって、最終的には、「自分がどう幸福になるか。どういう自己実現ができるか。自由を得て、どう成長できるか」ということが大事であり、それを目指すものが本物なのです。
そういう観点で見ると、両社は対等に論じられるようなものではないのではないかと思います。
そういう意味では、どこの国も「防衛のため」などと称したりし、愛国心を煽ってはいますが、「それは国民が幸福になる体制なのかどうか」ということのチェックはいるだろうと思うのです。 中国の習近平国家主席は、香港に行って演説し、「一国二制度を維持する」と言いつつ、「ただし、権力に対する反抗は許さない」というようなことを言いました(2017年6月29日)。
しかし、私の2011年5月22日の香港での講演を聴いた人たちは、習主席の言うことを素直にはきかないだろうと思います。
やはり、国民には、「自分たちの幸福を追求する権利」があるはずです。
国民を幸福にしようとするのが「政治家の愛」なのではないでしょうか。
日本においてもそうですが、「政治家が、自己愛に夢中になっているか、自分の仲間への愛に夢中になりすぎているのではないか」という気持ちは私にもあります。
「本当に、多くの国民を隅々まで愛していますか。そうであるならば、もう少し違う観点から物事を考えたほうがよいのではまいでしょうか」と言いたいのです。 日々の言葉や行動のなかに「神の愛」を
最終的には、やはり、「神の愛がなかったら、何もないのだ。ナッシングなのだ」ということを知ってほしいと思います。
「人間の言葉や行動、行為であっても愛を表す言葉や行動のなかに、あるいは、その結果のなかに、神の愛がなかったら、値打ちはないのだ。ナッシングなのだ」ということを知っていただきたいのです。
どうか、「神の愛とは何か」ということを常に考えながら、日々の生活を正し、日々、自分の心境を深め、行為を積み重ねていけるようなみなさんになっていただきたいと思います。
そして、「イエスが『主よ』と呼んだ人と、ムハンマドが『神よ』と呼んだ人は、同じ人なのだ」ということを私は言いたいし、
それから、「(キリスト教徒やイスラム教徒の)的にもなっているユダヤ教徒が『エローヒム』と呼んだ存在も、それと同じ人なのだ」ということを言いたいのです。
そうした存在が、今、「エル・カンターレ」という名を冠して地上に生まれてきています。
私に残された時間はそう多くはないかもしれませんが、最後までこの方を完成させたいと願っています。
みなさんと共に、まだまだ精進を続けていきたいと思います。 🌟 明日を変える言葉 A
相手の心性の善なるを信じて
解き放つのが愛。
まず、「与える愛」から始めていきなさい。
日々の努力目標を、まず、与える愛に置きなさい。
あなたは人々に対して、社会に対して、
いったいいかなる愛を与えることができるのでしょうか。
愛とは恵みです。
それも、善き恵みであり、他人を生かしていこうとする力です。
縁あって人生の途上で出会った人々に、
生きていく勇気を与え、力を与え、希望を与えること、それが愛です。
こうしてみると、愛とは仏の心そのものであることに気づきます。
仏の心とは、万象万物を生かし、はぐくみ、調和させんとする心です。
すべてを成長させんとする念いです。
「与える愛から始めていこう」と決意したとき、
その心は、仏の心と同質の光を帯びているのです。
他を生かさんとする心の芽生えは、
すでに仏の子として慈悲心が生じてきたということなのです。
愛のなかにも、「奪う愛」という名の執着の愛もあれば、
「与える愛」という名の、利己心と自己保存欲を捨てた愛もあります。
相手を奪い取り、相手の心をがんじがらめにするための、
トリモチのような愛は、与える愛とは言わないのです。
金銭や物品をいくら湯水のごとく注ぎ込んだところで、
それが相手をとりこにし、
かごのなかの鳥にする目的をもってなされたものであるならば、
それは、与える愛ではなく奪う愛であり、執着の愛なのです。
ほんとうの愛は、
無私の愛であり、無償の愛であり、見返りを求めない愛であり、
相手を自由に伸び伸びと生かしめる愛です。
相手を縛るのが愛ではありません。
相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです。 🌟 大川隆法著 信仰の法
第2章 愛から始まる
「人生の問題集」を解き、「人生学のプロ」になる
>>34-64 神仏なんかいやしない。幻想と扇動と威嚇で生業にしている詐欺師だ。
もし神仏がいるなら、この世の卑劣な悲惨な事件は解説するはずだ。
正直者がバカをみて、犯罪者が好好爺として人生を全うする。
いまでも神隠しだとか、奇跡に頼る犯罪被害者の家族がたくさんいる。
神も仏も犯罪者を指ししめることはない。
自分たちの家族が幸せなら、それでいいのた。他人が惨殺されようと気にもかけない。
おためごなしに時が解決すると詭弁にもならぬことを言う。
被害者は時間が止まる、それも不幸のどん底で。 宗教心が掲示板での不正行為や罵詈雑言の根っこにあるとしたら
寂しいもんだねぇ・・・何の為の信仰やら??
宗教板で糞スレをウォッチしてると、つくづくそう思うんだ 71歳です。
妻帯者です。
仏教の僧侶です。
薬師寺の菅主でした。
31回、一線を越えました 。
銀座のホステスは奇麗でした。
不飲酒、不邪淫を説いております。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています