2014年(主日A年) 4月6日 四旬節第5主日
エゼ 37:12〜14  ロマ8:8〜11  ヨハ 11:1〜45

福音書というものを、いわゆる歴史小説のように、あるいはその原資料としての、ただの昔の出来事を物語る古文書のように考える人が多くいますが、それは間違っています。
それは宣教の書であって、復活されたキリストは聖書を通して、代々の教会に神のことば (御国の福音) を語っておられるのです。
私たちキリスト者が、それによって “現在の信仰”(わたしは信じます) を得るために、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(IIテモ 3:16) て、教会に与えられました。

「神の栄光のためである。」(ヨハ v.4)
「あなたがたが信じるようになるためである。」(ヨハ v.15)
「わたしは復活であり、命である。 ・・・ このことを信じるか。」(ヨハ vv.25-26)

これは、現在の私たちに向かって語られているのであって、私たちは昔の出来事の単なる観客であってはなりません。
さらに主イエスは、復活の日を待ち望んでいる私たちの信仰を励まして、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」(ヨハ v.40) と言ってくださるのです。

現代の教会の宣教の一般的傾向として、その関心事がこの世のことにばかり集中していて、
“罪の赦しをもたらす唯一の洗礼を認め、死者の復活と来世の命を待ち望みます”(信条) という信仰が、あまりにも軽視されているということを指摘しておきたいと思います。
この世の人々は、人間のこの世における命のことを重要と考えます。
しかし、キリストが私たちに与えてくださった命は “新しい命”(ロマ 6:4) であり、それは今は “キリストと共に神の内に隠されている”(コロ 3:3) のであって、復活の日に “栄光に包まれて現れる”(同) と約束されているものです。

神の国とは、すべての善良な人々が死後に入れるであろう極楽のような、空想の世界のことではないのです。

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より