2011年(主日A年) 10月30日 年間第31主日
マラ 1:14b〜2:2b,8-10  Iテサ 2:7〜13  マタ 23:1〜12

使徒たちと使徒後の教父たちとは、今も聖伝と聖書を通して私たち教会に “神の福音” を語り続けています。
歴史の教会において、事実各地の司祭たちがこの “神の福音” を語ることがどれほど稀であったとしても、確かにカトリック教会はそれを今日に至るまで(畑に隠された宝のように/マタ 13:44)保持し、受け継いで来ました。
そして第二バチカン公会議以降、感謝すべきかな !  今や 「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる」(マタ 7:8)時代がやって来ました。
教会で司祭に司牧されている信者は、望むなら自らも自由に “使徒的伝承” を学ぶことが出来るようになったのです。

私が学生時代に、左近教授からヘブライ語の手ほどきを受けたとき、用いられた彼の著書 “ヒブル語初歩” の序言には次のように書かれていました。
“およそ外国語の習得には絶えず復習することが必要で、これが十分に行われているならば、発音の外は教師を必要としない。”

カトリック教会で司祭が不要になることはあり得ませんが、およそ信者が自ら “使徒的伝承” を学ぶ熱意を持つことが必要で、“これが十分に行われているならば ・・・・・ ” という当たり前のことに目覚めることが切に期待されます。
「事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(Iテサ v.13)

・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より