2011年(主日A年) 10月23日 年間第30主日
出 22:20〜26  Iテサ 1:5〜10  マタ 22:34〜40

「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」(Iテサ v.6)ということが、教会という “神の国の相続者である共同体” の存立の根拠であると、原始教会は理解していました。
その教会の特性のもう一つの表現は、“信者の群れが偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、神が死者の中から復活させたイエス・キリストが再臨されるのを待ち望むようになった”(Iテサ vv.9-10)ということです。
この方こそが、「来るべき怒りからわたしたちを救ってくださる」(Iテサ v.10)救い主です。

そのような教会が、“行って、すべての民を弟子にする”(マタ 28:19)ために宣教したのと、私たちが知っている現代の教会が “世のため人のために奉仕する” いろいろな社会活動とは、その善悪は別としてかなり根本的な違いがあるように見えます。
聖書が伝えるところによれば、教会が外の人々に奉仕するのは “何とかして何人かでも救うため”、“彼らと福音に共にあずかるため”(Iコリ 9:23)でありました。
そのためには、先ず教会が “霊による一致” を保っていなければなりませんでした。
つまり教会自身が、“神を愛し隣人を愛する共同体” として一致団結している必要がありました。
だからこそ、“キリストの福音を土台として互いに愛し合う” ことが勧められたのです。

信者一人一人がキリストの福音に親しむことを抜きにしては、聖書が勧めている意味での “互いに愛し合うこと” は成り立ち得ません。
私たちの教会は使徒たちの教会と同じだろうか、私たちの考えている信仰と原始教会の人々の信仰との間には、かなり大きなズレがありはしないかと、真剣に考えてみましょう。

・・・・・ 以下、本文参照。
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