2005年(主日A年) 8月14日 年間第20主日
イザ 56:1〜7  ロマ 11:13〜32  マタ 15:21〜28

「主はこういわれる。 正義(ミシュパート)を守り、恵みの業(ツェダーカー)を行え。 わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業(ツェダーカー)が現れるのは間近い。」(イザ v.1)

ミシュパートは神の律法を人が守ることの意で用いられ、ツェダーカーは神による救済史の実現を指しています。
人が信仰によって神の御心を行うのは、自らがキリストの救いの中に入れられている(招かれている)からであり、先ず神の愛が先行しているからであって、それは人間の功績ではないのです。

「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」(ロマ 5:8)
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。 ここに愛があります。」(Iヨハ 4:10)

多くの人が誤解していますが、旧約聖書において律法は、イスラエルの民にとっての喜びでありました。
後のユダヤ教における律法主義と、旧約聖書における本来の律法理解とは別のものでした。
そのようにキリスト教会の道徳主義や教条主義と、聖書を通して語られるキリストの福音との間には、かなりの隔たりがあります。
信徒一人一人が聖書に親しむことは、現代のカトリック教会にとっての希望であり、差し迫った必要であります。
天上のキリストは聖書を通してあなたに、私に、生ける神のことばを語っておられるからです。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)

・・・・・ 以下、本文参照。
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