>>947 おぬしが聞く耳を持つ者ならば傲慢と指摘されたら少しは自身の傲慢について考えるじゃろう。
 自分自身の傲慢を少しも考えずに他人の自我と書くことでおぬしは自らの傲慢を表現しているのじゃ。
 傲慢であることを他人の自我のせいにするほど傲慢な者がいるじゃろうか?
 そのようなおぬしが悟りについて何も知らないことは明白なのじゃ。
 と書くとおぬしはわしのほうが傲慢であるとか書くじゃろう。
 それもまた更なる傲慢の表現なのじゃ。
 
 他人のバンジーをみるのも勇気が居るじゃろう。
 何か激しい勘違いをしているようじゃのう。
 そのようなものは悟りとは何の関係もないのじゃ。
 
>>948 どうもしないのじゃ。
 ありのままにあるがよいのじゃ。
 
>>949 違うのじゃ。
 そのような観念は悟りではないのじゃ。
 
>>951 東への道に障害があればまず西にいけというじゃろう。
 ダイエットする者があまりにやせて体力が無ければまず太れというじゃろう。
 おぬしは傲慢の故にそのように簡単なこともわからないのじゃ。
 これによっておぬしの喩証は論破された故におぬしの観念は間違いと証明されたのじゃ。
 
 他人が名前や言動を守ろうとしているならば、もしかするとおぬしが名前や言動を守ろうとしているからかもしれん。
 そしてそれがおぬしには見えないのかもしれん。
 なぜかわかるじゃろうか?
 
>>954 わしには数学とかドイツ語とかはわからんのじゃ。
 それも欠点といえるかもしれん。
 欠点があっても悟れるのじゃ。
 悟れば欠点も欠点ではないと気づくのじゃ。
 克服しようとすればできるじゃろう。
 その必要も無いとしることもできるじゃろう。