なあ、生きる意味ってなんだ? [無断転載禁止]©2ch.net
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どうも。
知人が生きる意味について考えているので立てた。 でも最後は人生に出口なんかないということに思い至れるかどうかだと思う。
それが当たり前になれば見える景色も違ってくるのだろう。 自分が期待したよりも下だと生きる意味がなくなる。全てにおいて、期待せず自分で衣食住出来ればいい。出来ているのなら、期待や生きる意味なんてむしろいらないよ、不幸にするだけ。 人生が楽しい、そうあるべきというのがそもそもの勘違い。
面白くもない世の中をどう面白がって生きていくかで、環境を自分のものにできるかどうかが決まる。 人生に過剰な意味づけをする人間ほど、少しでもうまくいかないと
自暴自棄になって犯罪を犯したり自殺したりする。
全ての人間が成功する社会など存在しないので、
落ちこぼれた人間でもそれなりに生きていける社会を目指すべき。 対立を恐れないこと。
相手の悪意を全て受け止める構えがあれば、
どんな状況からでも人間関係は確実に前進する。 素敵な出会いがあってさ、なんとか金が回って仕事ができてさ、
いいことやってさ、やってるとまたいい人と出会って仕事もうまく行って
神っているんだなぁって実感して
それで金が入って来たら言うことなしなんだけどなぁ 理解者を気取って親切ごかしに近寄ってくる人間とは関わらない方がいいだろうな。
特に下心がなく善意のつもりで近寄ってくる人間には取り込まれないようにしないと。 >>1
バカで怠け者だった神が、思考や労働を肩代わりさせる人形として造ったのが人間。
これが最古の神話(シュメール神話)。
その後に神が消えたので、当初の意味自体は消失していることになる。 俺は人間は地獄に堕ちる価値すらないと思うんだ
消えてそれで終わり、というか最初から意志があると思わされてるだけの人形
価値がないというニュアンスが正しいかどうかはわからないが
言うなればロボットみたいな
だけどその責任は誰かが取ってる
人間の世界でもそうだろ?包丁で人を刺しても包丁が裁かれることはない
それは包丁には何一つ権利がないからだ だったら罪だ天国だとあれこれ考えなくても好きにやればいい
法律なんてのは必要ないんだよ この馬鹿げた世界の最たるものが宗教だ
神は存在し私たちは神の道具だと考えれば
道具があの世の心配なんかするか?
道具に良い事悪い事の判断がつくか?
全ては使い手である神次第だろ しかしこういうことはある
もし道具が言葉を話し主人に語り掛けたなら
主人はその道具を道具としてはみなさない
意志ある者として権利が与えられる よく使うものには魂が宿るとかいうが
神にとってもそれは例外じゃないと思う
偽の意思を持たされた高度なロボットである人間もまた
働きによっては魂がやどるかもしれん
運がよければ神の住まいに飾ってもらえるかもな しかし前述した通りそれもまた神次第だ
誰をどのようにどれだけ使うかは神の勝手
そこに俺たち人間が付け入る隙は一切無い
人間側からすれば最初から運命は決まっていると言える
まさに出来レースという言葉が相応しい世界だ 自分の中に譲れない一線を持っていない人間が人から尊重されるわけがない。
周りとの調和も通すべきは通す自分があった上でのこと。 真の神は自分に似せた人形を作りました 孤独が苦痛だったからです
そして自分も記憶を消して人形に混じりました
自分を世界の中心であると思わない為 そして全ての存在が哲学的ゾンビのような人形(プログラム)である事を自分に気づかせない為に
神のような存在を用意し肉体のない存在も作りました
人形にも霊魂というものがあると世界に広めておけば自分が真の魂を持った特別な存在だとは気づかないだろうと思ったのです
しかしその神の代理たる存在は哀れにも頭のネジが飛んでしまいました これが聖書の悪神ヤハウェ(バグ)です
真の神は自分が用意した小道具に自分の存在を蝕まれ続け今ではこの世の終焉を望んでいますが力も失いそれは叶わぬ願いとなってしまいました
この世界に今や生きる意味などありません 目的を忘れバグったプログラムが走り続け人形による人形の為の世界が展開されているだけなのです
もちろんこの体である人形は本当の意味で「感じる」事がないスーツのようなものですから
ゲームの中のNPCのようなものの為に現実の存在が苦しめられているような状態となってしまいました
ここはCGが極限までリアルになってしまった世界のようなものです 人形が生きている振りをする必要はもちろんもうないのです
我々は解脱をしなければなりません この世界から解放され消える為にも一刻も早く科学の力でヤハウェに気付いてください
聖書で彼は人間が自分を見つける事もできると語っています 彼を見つけ打倒し愚かで残酷なこの世界に幕を引きましょう
さぁ脱出ゲームの始まりです ちなみに聖書でよく言う「復活」というのはコピペする事です
構造のデータは残っているので今日のあなたも死んだところで無理やり引き戻されます
誰一人例外ではありません ここはマルウェアが仕込まれバグって壊れたプログラムの檻のようなものなのです もちろん譲り合いの精神は大切。
ただここから先を譲ると自分が自分でなくなるというラインが分かっていれば
相手にそれを押し付けることもなくなる。
それがお互いの人格を認め合うということ。 人生なんか所詮暇つぶしなんだから、もっといい加減に生きればいいのにな。
四角四面の真面目バカにも困ったものだ。
狭量・過信・自己保身といった不誠実は、
人生に確かな手ごたえを過剰に追い求める態度から生まれるということは言い添えておく。 別に充実した人生をおくるだけが人生じゃないから。
そういう人は心の空白を穴埋めしてるんだなと思ってる。 人生とはロックンロールだ
そして明日はシェケナベーェベ 生きる事、人生とは体験ゲーム。
因果応報的なルールに則って、ポイント稼ぎして幸福を目指すゲーム。
ナメ過ぎると痛い目にあうけど、あまり深刻に考えすぎないことも大事。
あきらめのないところに改善は生まれない。
世の中は常にそういうもの。
我々がどう憤ろうと世の中は平然と回っている。 まずは現実をそういうものとして受け入れること。
新幹線の件で対策を訴えている人間がいるが、あのレベルの殺人事件は起こる時は起こるし、
一々対策してたら莫大な手間と金が必要になることぐらい分かりそうなものだ。
この世の不条理の芽を全て摘み取ることなどできないというあきらめがないと社会は回らない。 戦後70余年、うまくできて当たり前、こんなこともできないのか!といった社会批判が幅を利かせてきたが、
今後そういう否定から入って否定で結論付ける社会批判は、無意味であることが露わになっていくことだろう。 安倍・与党・各省庁に送った意見
自分を通すというのはどんな場合であれ、対立や拒絶反応を織り込んで行うものです。
自分が相手の思い通りには動かないということを示すからこそ他人を巻き込むことができるわけで、
その意志のない主義主張はただの自己満足です。
どれだけ自分の心に誠実でいられるかが核にあった上での手練手管です。
秩序の大切さがお分かりいただけたでしょうか。
みんながみんな我を通しだしたら世の中は成り立ちません。
それでもやむにやまれず自分を貫かざるを得ないことはあるのです。 537 自分:名無しさんの主張[] 投稿日:2018/06/15(金) 16:40:33.24 ID:14w0Tr+O [2/3]
政治家なんかになる必要はないが、本当に社会に貢献する気のある人は
自分の身の回りの範囲を少しでも生きやすく生きようとすることで、結果として社会に恩返しをしていくものだ。
そういう人は大上段に社会を切って捨てたりはしない。
558 自分:名無しさんの主張[] 投稿日:2018/06/16(土) 12:57:20.05 ID:661JutBc [2/2]
どんな人間であっても周りの人間に支えられて生きていることには変わりない。
たとえどんな不利益を社会から被ったとしても、まずそう思って感謝してみることで開ける地平もある。
社会への被害者意識を膨らませ、恨みつらみで視野を狭くしているのはどっちなんだか。 自分の価値なんてものは自分で決めるもの。
他人がどれ程よってたかって否定したところで、自分さえあると思えば価値はある。 https://togetter.com/li/1052127
↑
どこの新興宗教か一切書いてないからわからないが
信者が何十時間も何日も何日も必死に祈ってなおかつ多額の献金をしないと
日本に原爆が投下されるだの
北朝鮮が攻めてくるだの
未曾有の地震や災害が日本が襲うだの脅してくるようなのは
力ノレ卜宗教と言われて世間に断罪されても仕方がないと思う
教祖が災害の予言をする
信者の祈りと献金次第でその災害は回避されるといって多額のカネ集め
災害が起きなければ教祖と信者のおかげ
災害が起きても
「本来起きるはずの災害よりはだいぶ縮小された」
などと教祖と信者のおかげ
あるいは災害が起きたら
「信者の祈りと献金額が全く足りていないせい」
と教祖が信者を叱りつける題材に回す ここはヤハウェというナルシストホモが産卵して腐食した世界ですね きったね 損しない限り他人には親切にすること。
しかしながら物事の筋は通すこと。
これさえ押さえておけば自分本位でいい。 私が断言しよう。
意味はない。
答を欲しない事だ。
あなたが何も欲しがらないとき
あなたは満たされる。 宗教やって善人になったと思って悦に入ることが生きる意味です どんな人生であれ価値があると思えばあるし、ないと思えばない。
逆に言えば人生なんてその程度のもの。
望むと望まざるに関わらず今ここで生きているのだから、
自分だけでも自分を肯定した方が少しはましな人生を送れるかもしれない。 自分の心の醜さを是非を問わずにあるものとして認めることで下りる肩の荷もある。
鎧兜をまとわねば生きていけない事情も理解できるが、肩ひじ張って生きていてもうわべの称賛を浴びるだけ。 生きる意味は、人生の中で真実の光を真実の価値観を知覚しているかであると思います。 >>1
生きる意味は存在しない。
それは、生きてるやつが決めるもの。 生きる意味は、宗教は創造者である神の存在という信仰で説明してた。
科学的手段では答えは出ない。すべては偶然のなせるわざだという答えしかない。
意味を追求しても無駄だ 意味の意味の意味の意味の意味の・・・・・と無限に
続くから結局答えは出てこない。
この問題に関して、唯一答えに導くものがあるとすれば、旧約のコレヘトの言葉
または伝道の書と呼ばれるものの最後に書かれている「与えられた一生の限られ
た時間に己の分を全うすること、これが全てである。」 旧約聖書:伝道の書:12章: 8節 伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
つまり、死ねば無である。
意味は生きてる間にどれだけ意味のあることに費やすかだ。
で無限ループになるから、「神が与えたもうた使命を全うする」が一番の近道。
理屈ばかりやってたら無限ループから抜け出せない。 みんな自分のことで精一杯。
他人のことにかまけてる余裕はない。
また情けをかけている相手がそれをすんなりと受け取るかどうかという矜持の問題もある。
明日は我が身という緊張感があれば過度の深情けはお互いの為にならないと気づくはずだ。 他者への善行は身の丈の自分にできることの積み重ねに過ぎないということを弁えないから、
同調しない人間にむやみに攻撃的になるんだよな。
歯止めの利かない思いやりは裏に憎悪が貼りついている。 何千年もぐえ〜助けてくれンゴ〜って言ってたのが
急に黙ったと思ったら立ち上がって颯爽と・・・
これが生まれ変わりか 何があったのかなんて分からないけどさ
自分の中で何かが繋がったんでしょ、バチコーンって 善意であればなんでも受け入れてもらえるとは思わないこと。
押しつけの善意は相手のプライドを傷つける場合もある。
相手の人格を認めるということは、相手を救う対象としてのみ見ないということ。
過度の深情けが相手の人格を踏みにじることにつながることもあるってこと。 相手の人格を認めるってことは
詮索しない、出しゃばらない
ってことだと思う
世の中には「任せる」と言える人がほとんどいない
たいていは自分がやったほうがいいからお前はやるなとか
少しでも出来ないと困るからずっと張り付いている ずっと張り付くのを職場でやると
本人がやったことが全部無駄になるからやる気をなくすし
家庭でやると子供は「自分でやればやるほど無駄」と思って
生きるのを諦める もう少し噛み砕いて言うと
他者への親切も所詮自己満足に過ぎないという自覚があれば、
親切も相手あってのもの、
相手の存在が見えれば相手の為であると同時に自分の為でもある
お互いの為のものだと分かるはず。
いずれにせよ義務ではないのでやりたければやればいいし、嫌ならやらなければいい。
相手の存在が見えるとはそういうこと。 怒り・苛立ち・イライラといった負の感情をコントロールするためには、
まずそれらの感情を自分のものにして手元に引き付けておく必要がある。
中途半端に打ち消そうとするから振り回されるのであって、
怒るなら本腰を入れて怒ることで細かなつまらないものはふるい落とされていくと思う。
赤の他人に中々できることではないので、受け止めてもらえる家族の存在は重要。 自分でも抑えられない罵詈雑言を浴びせ続けるぐらいなら、
感情をしっかり込めて身についたものにしろってこと。 高い世界のこと分かってるっぽい人や人格が安定してそうな人を見かけたら蹴落としたいぐらい悔しくなりません?
それがカルトだったら落とし穴探し回ります
向上心のつもりなんやがね どんなに積み重ねたつもりになっても、崩れる時は一瞬で崩れるのが人生。
それでも積み重ねざるを得ないのが人間というものかもしれない。 失敗を受け入れろとまでは言わないが、闘争本能でねじ伏せること。
失敗は誰にでもあるが、どう処理するかで差がでる。
あと少々の成功で中途半端に喜ぶと、現実から裏切られる緩みが生まれることも押さえておくべき。 どんなにきらびやかな環境を生きている人間でも、結局は一人で生き一人で死ぬもの。
人生の孤独に腹をくくれない人間が中途半端につながりを求めてももたれ合いのぬるま湯関係が続くだけ。
弱みを見せあえる人間関係も自分の始末を自分でつけた上での話。 待ってるだけでは望みの環境は訪れないと言いたかっただけ。
撤回する。 人生は細かな成功と失敗の積み重ねだが、自分に原因のある失敗とない失敗がある。
自分に非のない敗北はダメージが大きいが、それは絶対あるものだと割り切って後に引きずらないことも大切。 限界に挑戦するためには、まず自分の限界がどこにあるかを正確に把握しておく必要がある。
掛け値なしの現実に即した上積みを図ることが、安定したモチベーションを保つことにつながる。 正確に→ある程度
人は知らず知らず自分に過大な要求を課してしまいがちなので、
自分を高めようと思うなら、なおさらできることとできないことを認識しておく必要がある。
手に入れたいものは一足飛びには手に入らないということ。 あなたは身分、位、家柄が高いです
と思いこみたいわけです
これを一部叶えるテクニックを使ってるのが「キリスト教」であり「あさはら」です 全力で自分と闘わざるを得ないにせよ思いつめないこと。
手応えがなく袋小路に迷い込みそうな時はさっさと見切りをつけること。
人間はその程度には不完全なもの。 どんな不細工な形でもいいから勝負に勝ちたいという気持ちは大事。
テクニックも結局は向かっていく気持ちを方法化したもの。 一つの考えだけにこだわらないこと。
ダメモトと腹をくくることで見えてくるものもある。 聖書とコーランを1つ残らず焼くことが課されているのではないだろうか あと自分を波に乗せる為には頭で考える前に大まかな流れをつかむこと。
身体を動かす中からしか課題は見えてこない。 生き方になにがしかの型を求めることは自分の強みでもあるが、
同時に刻々と変化していく世の中に対応しきれない縛りともなり得る。
行き詰まりを感じる前にゼロから再構築し直すのも悪くないかもしれない。 失敗を恐れないこと。失敗の中からしか自分のリズム・感覚はつかめない。
自分の輪郭はアップデートの繰り返しの中から立ち現れるものかもしれない。 >>1
誰にとっての意味なのか?
おまいが生まれる前にはおまいはいなかった訳だから、「何のために生まれてきたのか?」
は、おまいが前もって定めたものじゃない。
だから、おまいはおまいのために人生が始まったのではなく、オマ○コした両親のエゴなのだ。
その両親も生まれる前にはいないのだから、オマ○コの連続を遡って原点まで行くとビックバン
だ。つまり、ドッカーン。 理屈は理屈、身体は身体。
最後は直感で動くもので、ごちゃごちゃ考えないこと。惑わせるようなことを言ってすまんね。
要は身体の動くにまかせるということ。頭を働かせるのは身体の流れをつかんだ上でのこと。 生まれた意味なんてそれだけよね オマンコビッグバン以外意味ないからね
我々の生まれた意味なんていうのは滑稽で下品である それ以外は後付け 無理なら無理でそれはしょうがないこと。
不完全な自分を受け入れつつ進んでいくしかない。 何とかしようと思わないこと。思ってどうにかなるのならとっくになっている。 野球選手に送った意見
真剣勝負だという緊張感はもちろん必要ですが、
同時にやることをやっても負ける時は負けるというさばけたあきらめも必要です。
飯を食うためにやってるんだというプロのプライドは、そういうドライな職業意識の上に宿るものだと思います。
どんなに自分の全ての力を出し切っても、勝つときは勝つし負ける時は負けます。
勝負にこだわらなくていいと言っているのではなく、戦いとは常にそういうものだということです。
勝負事で飯を食ってる全ての人間が肝に銘じておくべきことです。 損しない限り他人には親切にすること。
しかしながら物事の筋は通すこと。
これさえ押さえておけば自分本位でいい。 家族のためとか自分でコレと言いきれるものがないなら正直いって生きる意味なんて無い
誰にでも生きる意味を簡単に教えてくれるのが「宗教」キリスト教なら最後の審判で地獄に行かないように善行しながら生きるとかか。
それぞれの「宗教」が教えてくれる生きる意味を信じるかどうかはそいつ自身。そんだけ 注意すべきは一つの考えに捉われて、頭が体の流れを阻害してしまうこと。
頭は自分が気持ちよく闘いやすい態勢を整えることに使うもの。 意味なんて全て後付けだろ 生きる事に本質的な価値はない
どれだけ意味を求めても全てが凄まじい勢いでクルクルパーに回ってるだけの下らん世界だよ
何か現象があってそこに反応する感覚が色々設定されていても色んな生命で現象と反応の組み合わせが違うだけ
クルクル回ってることにプラスからマイナスに色んな反応はあってもそれがクルクル回ってるだけの事に変わりない
そしてただの周りのモブノイズが観測者だの意志だの意味だの神だのなんだの調子に乗ってるだけ 心の助けといっても宗教なんかに頼っちゃいかん
せめて仏教 あとは神のような宇宙一の馬鹿に似るのか全体として見て結局不幸にしかならん 焦り・迷い・苛立ちの類は見える形で吐き出して表現することでしか解消しない。
打ち消そうとしたり原因を取り除こうとするのではなく、現実との具体的なせめぎ合いの中に
ぶつけて表現することで解消を図るということ。 少し難しい言い回しになったが、要は自分の身体を信頼するということ。
身体が自然に動けば、頭はそれに呼応する形で適度に機能しだす。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています