大乗非仏説知っているのに大乗仏教信仰する人って [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>330
いや日蓮がわしゃ本仏じゃと言ったのかという話 >>331
日蓮は法華経に出てくる上行菩薩は自称したが自分が仏とまでは言ってない。 あくまで自称であって、その実体は頭の少し足りない凡夫。 瀬戸内寂聴こそが、日本の僧侶のあるべきすがた。
95歳になっても酒池肉林で毒を吐く。 335.
寂聴は、悟っていないから、できるのだよ。 悟ったら戒律から解放され全ての行為が悟りの行いとなるのが仏教。
一休禅師は色町に通って酒池肉林の毎日を送った。勿論茶道の祖の村田珠光あたりに禅を指導したり貧民救済とかもしてたが。一休は悟り開くまでは自殺未遂するまでに自己をストイックに突き詰めていった。
まあ寂聴にそれは全く無いし悟りから程遠いが。 338.
悟りの行い、か。
そんなものはない。
その区別ができない、ことが問題となる。
なんでか。 >>338
一休は色ボケしたにすぎない。
あれを悟った姿と思うとはwwwwww ポッタンは精神鑑定を受けたほうがよい。
なんでか。 大乗仏教よりシャンカラの方が正しい。
大乗仏教では現象は実体がなく究極的実在も無い。
シャンカラは現象は実体がなく究極的実在は有る。
無というには世界には手応えがありすぎる。 >>343
そうそうアドヴァイタは仏教を叩いてくれないと
変にすり寄ってくるのは危ない 日本の大乗仏教は結構実在論的でインド大乗よりシャンカラに近いのではないか? シャンカラには利他がないし
大乗は仏性だけが存在するみたいな実在論は説かないから 宇宙全てが大日如来の顕現だという密教などはシャンカラに近いんじゃない? その大日如来も空・無我だから密教もシャンカラとは違う
大我という言葉も別にプルシャ、スヴァバーヴァ、タットヴァ、パラマートマンでもない そういう訳のわからないごまかしするから大乗仏教は信用できない。
松長有慶とか無常、無我、苦、不浄が止揚されて常住、大我、楽、清浄になるとか密教の詭弁書いてたが。 伝統教団の近代教学はどこも明治以来、西洋哲学の影響でおかしくなってるから信用すべきじゃないな
八不絶諸戯というように弘法大師は中観を踏まえてるから 十住心論昔読んだけど第四住心までは不正確で滅茶苦茶書いてるなという印象だった。
後半はそれなりだった記憶がある。 >>346
利他とか菩薩行とか言う人の9割は単なる布教がらみだったり大きなお世話だったりするのが現実。 日本の場合、禅以外、利他のクォリティーは低いだろうな。 シャンカラの不二一元論は不可触賎民解放を訴えたシュリナーラーヤナグルや万教帰一を訴えたラーマクリシュナの思想の基礎になった。
決してシャンカラ思想に利他が無い訳ではない。 それは一元論という存在論の副産物であって
誰か他の苦しみを除いて楽を与えてあげようという思想がシャンカラの根幹にあるわけではない ついでに言えばラーマクリシュナの万教帰一は自己の宗教を広めるための政治的リップサービスであって
利他ではない >>356
ラーマクリシュナがそういう計算するような人格には見えない。ラーマクリシュナに関する物を余り読んでないだろ。 >>355
仏教やヒンドゥーのようなインド思想で最大の善は輪廻からの解脱。
その方法論を説いたのは釈迦もシャンカラも見解の相違あっても変わらない。
シャンカラは利他をした。
輪廻からの解脱の方法論を説く。
仏教の利他も本来は他人の解脱を促すという意味で俗的奉仕などは枝葉末節でしかない。 根元的な苦が輪廻の生にありそこからの解脱が救済である点は仏教もヒンドゥーも変わらない。 日本の仏教は真言宗も天台宗も密教であり、ほとんど、「カーストのないヒンズー教」に近い。
仏様という神様を信仰する神教の一種である。
という説を信じているのですが。 359.358.
解脱したらば、どうなるのか。
それは、無、となる。
因果の法則である。
その、無、は、どうなるのか。 >>358
シャンカラに利他はないってことぜんぶ自分で説明してくれたね >>362
シャンカラに利他が無いなら釈迦にも利他は無いということを説明した。 >>360
密教のアマラ識とかほとんどアートマン的実在だし本覚も実在論的でシャンカラの方がインド仏教に近い位だと思う。少なくともシャンカラは現象界に実体は無いとしてた。 >>363
シャンカラの教えに慈悲喜捨の四無量心はないからね
だからヴィヴェーカーナンダは「シャンカラの智慧にブッダのハート、愛と慈悲を持とう」と言ったんだよね >>365
四無量心もひっきょう人々を解脱に誘う事が目的だからシャンカラも目的は同じ。
苦の原因は輪廻の生であり苦を抜き楽を与えるのは輪廻からの解脱に誘う事だからだ。
インド仏教のこの基本公理を現代日本仏教は無視するか誤魔化すかしてるケースがあまりに多い。 押さえておくべきはインド哲学においてシャンカラは正統だが仏教はあくまで異端的見解に過ぎないということ。 仏教の無我や空は時代によっても識者によっても見解が別れ過ぎ挙げ句の果ては体験すれば解る(言ってる本人が体験してるとはとても思えない)とか訳のわからない体験オカルト主義に持っていったりする。
カントの物自体ではないが実在自体は在るとするシャンカラの方が余程スッキリする。 >>366
「〇〇もひっきょう人々を解脱に誘う事が目的だからシャンカラも目的は同じ。」
なおこの〇〇にはどんな言葉も入る
>>367
押さえておくべきはインド哲学においてシャンカラは
先行する仏教の影響をいちじるしく受けており「仮面の仏教徒」と呼ばれるほどだということ。 >>369
だから本覚的な日本仏教よりはよほどシャンカラの方がインド仏教に近い。
現象に本質なり実体が無いのは理解できるが実在まで無だとする大乗仏教には無理があると自分は感じるし多分当時の多くのインドの哲学者達も感じただろう。
空を説明する知識人も解釈が別れ過ぎだし。 >>370
本覚もなにも「汝はそれ(=ブラフマン)である」なんだから一体アドヴァイタ・ヴェーダーンタに本覚よりも〜とかいう根拠はあるのか
そしてインド正統派が異端派を思いっきりパクってることに疑問を覚えないのか
実在がないことに無理があると感じるって具体的にどう無理があると思うのか?
そこらへんをはっきりさせてほしいです >>371
大乗仏教の影響があっても実在を認めている。
別に真理の探求の過程において異端からも影響受ける例は経済学の新古典派総合始め多々ある。
それでもシャンカラが正統で仏教は異端ということに変わりない。
我々の認識で世界が分節されてて実はそんな分節線など無いと仮定しても宇宙は決して空ではなく在るという手応えは残るだろうから。
草木国土に仏性という本質を認める本覚はどう理屈つけても少なくとも現象世界に本質は無いとするシャンカラに比較してより実体論的だ。 天台中古本覚でいう草木国土悉皆成仏は器世間を清浄に観る実践であって現象世界に本質、実体を認める教えではないよ
仏性(ブッダダートゥ)、如来蔵(タターガタガルバ)も空だから実体はない 文字通り読めば衆生の本質は仏と読めてしまう。そこらを解釈で胡散臭いこと言うから信用出来ない。 自分の解釈で「衆生の本質は仏」だと「文字通り読」んだり、「実在まで無だとする大乗仏教には無理があると感じ」たりしてるんだから
まあ、そうなんですねとしか 仏という言葉も「仏とは実体、実在で永遠不滅」と読んでるからおかしなことになってるんだろうなとは思う
阿羅漢蔵とか独覚性だとそう感じないのか、それも実在だと思うのだろうか >>374
いやいやw
衆生の本質は仏だろ? 寧ろ、
成道の可能性に制限をかけた → 成仏には偏差値があるとした
のが大乗じゃね?
お釈迦さんの教えは、
正しく学び正しく行ずれば、誰もが涅槃を見ることができる、というものではなかったか?
だから、「来たれ、比丘よ」なのではないかい?「来て、見よ」なのではないかい?
これを、本質は仏だという言い方に換えることは、さほど難しいことじゃない。 >>375
じゃあ正しい空の解釈とやら披露してみて。
簡潔に変な用語使って誤魔化さないように! >>379
じゃあ仏とは何だ?
大乗経典を読む限りの仏は明らかに六神通を得た(笑)神話的実在だが。 >>380
「じゃあ」?
なぜ、そこで 「じゃあ」 という接続詞が用いられ、
且つ、私に対して問いが投げかけられるのか
まったく理路が通っていないわけだが? 衆生の本質は空だからこそ仏にもなれる。
本質が仏なら衆生である必要はない最初から仏であればよい。 シャンカラは唯識もあるが根本的には龍樹の空論に影響を受け現象世界は幻影(マーヤ)であるとした
これは現象世界は空であるというのと大して変わりない
ただシャンカラの一切皆空の龍樹と異なるのはヴェーダ聖典のブラフマン(アートマン)という実在を認めていたことだろう
議論になっている仏性や如来蔵だが如来は空性であるかどうかで実在か否かが決まるかな
如来が実在なら特に如来蔵も実在であろう
そして一切の有情は如来蔵を有するのだから実在を持つということになる
仏教は縁起がベースになっているので神などの超越者といった絶対的な存在は一応認めないことにはなってはいる
>シャンカラ…唯識
↓知りませんでした
ttp://d.hatena.ne.jp/moikai/touch/searchdiary?word=%2A%5B%C9%D4%C6%F3%B0%EC%B8%B5%CF%C0%5D
シャンカラ、その他
<私という意識(ahamkara)>を成立させている
何らかの虚偽の質料因
ajnana
難しくて
意味がわからないけど
とりあえず
ご教示ありがとうございます m(_ _)m
>超越者といった絶対的な存在は一応認めないことにはなってはいる
導く為の
対機説法としては
だるま文庫 八宗綱要 真言宗
地水火風空識の
第六の識大は(大日如来の)智である
仮設としての
すべて一切の諸法にも
大日如来は満ちている
法界体性智 - 大日如来の智
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる
仏の世界からの真如縁起をもって
仏の世界へ戻り帰る
仮設としての
縁起している世界を手放し超える為にも
(絶対的な?)涅槃
という導きの方がわかりやすい
場合もあるかもしれない
>用語使って誤魔化さないように
これはたぶん無理だと思う
たとえば
もっとも古い経典だった(かもしれない)
スッタニパータにも
それなりの?専門用語のようなもの?があるので
たぶん無理でしょう
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
たとえば
無明とは何か?
明知とは何か?
無我であるとするのなら
どこの誰の?
信仰と念いと精神統一と意欲と努力なのか?
智慧と慈悲とは何か?
般若の智慧と慈悲とは何か?
般若の智慧をもって → 何を観照するのか?
遍計所執性・依他起性・円成実性とは何か?
有余涅槃とは何か? >>378
1.(原義)何かを欠いていること。
例;この体育館は男子生徒について空である。(この体育館には男子生徒がいない。男子生徒を欠いている。)
2.(応用)自性[svabhaava](=実体、本体)について空である(欠いている)ことを。単に「空である」と表現する。
例;この銅像は空である。(この銅像は自性について空である。実体がない。) >>380
無仏の時代に自分の力で解脱の道を見つけ出し、解脱し、その方法を他人に説法する能力を持つ者。
(説法する能力を持たない者を独覚 [プラティエーカ・ブッダ] と呼ぶ)
ちなみに神通力は悟っていなくても使える(例:デーヴァダッタ)
輪廻の生存が尽きたことを知る智慧(漏尽通)を除く
>>388の続き
仮設としての
無明の暗闇にに覆われて
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である第八識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
我癡・我見・我慢・我愛が
仏の世界に戻り帰るための障害となる
たとえば
「仮設としての」とは何か?
「無明の暗闇」とは何か?
「無明薫習」とは何か?
「我癡・我見・我慢・我愛」とは何か?
「深層において働き続け」とは何か?
「第八識」とは何か?
「仏の世界に戻り帰るための障害」とは何か?
無我の前提だとしても
(唯識とかの場合は)
(仮設としての)我癡・我見・我慢・我愛があるのか?
(仮の現れとして、あるのか?)
こういう質問攻めに遭うでしょ?ということでつ 唯識の識とアートマンとどう違う?
スッタ二パータにも自己は出てくる。
大乗仏教の縁起と空みたいな手応えのない非本質論、非実体論より究極的には実体はあるとするシャンカラの方がインドの哲学者達には説得力があった。
カントですら物自体という実体を仮定したが発想はある意味共通してる。
勿論ヴェータ伝統もあるだろうが。 無我と空は詭弁
唯識とかどう整合性つける?
密教のアマラ識なんかアートマンを別表現しただけ。 >>392
アラヤ識がアートマンではないことは「成唯識論」に説かれてあるよ
「謂此識性無始時來刹那刹那果生因滅。
果生故非斷。因滅故非常。非斷非常是縁起理。
故説此識恒轉如流。」(成唯識論)
(試訳)
「この[アラヤ]識の性質は、始まりの無い[無限の]過去以来、瞬間、瞬間に結果(次の識)を生じて
(前の)原因(である古い識)は滅するのである。結果が(即座に)生じるので断滅(=流れが途絶えて亡失すること)ではない。
原因(である古い識)は滅するので常住[不滅]でもない。断滅でもなく、常住でもない縁起という理(ことわり)によって、
この[アラヤ]識は「常に転変すること[河の]流れのごとし」と説かれている。」 >>393
無我と空は詭弁で説得力がないと感じるなら、君はそれでいいんだろう
アラヤ識がアートマンでないことはもう示した。
密教のことはよく知らないが、
アマラ識(無垢識)というのは玄奘三蔵以前の唯識派のパラマールタ三蔵法師の説で、
アラヤ識から煩悩を取り去って清まった状態(=浄分)のことをそう呼ぶのが通説じゃないかね
しかし君、なんでも「〇〇はアートマンのこと」、「空と無我は説得力ない、実在論の方が合理的」みたいなことしか言わんね >>388
>無明とは何か?
比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。
比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。
比丘たちよ、これを無明というのである。
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7050602.html 396.
無智、か。
無智、でないと、どうなるのか。
そこが問題である。
その答えをもっていない、のが仏教である。
阿摩羅識(あまらしき)
間違ってるかもしれないけど↓
法界体性智の世界から観照する → 阿摩羅識を見る
大円鏡智 の世界から観照する → 阿頼耶識を見る
平等性智 の世界から観照する → 末那識 を見る
妙観察智 の世界から観照する → 第六意識を見る
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)と現代
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
仮設としての
「すべて一切の諸法は夢・幻の如く空性である」と観照せよ
道の本体は阿頼耶の自性に置く
(大円鏡智の世界から観照する → 阿頼耶識を見る)
(円成実性の世界から観照する → 依他起性している世界を見る)
↑間違ってたら スマソ m(_ _)m >>397
比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。
この無智が智に変われば行が滅し、行が滅すれば識が滅し、識が滅すれば行が滅し…と続いて最終的には生が滅して老死が滅し、
甘露(不死)の門は開かれ輪廻から解脱し二度と再生しなくなります。
解脱者(如来)の死後は無記です。 >>399自己レス
>甘露(不死)の門は開かれ輪廻から解脱し二度と再生しなくなります。
↓
甘露(不死の門)は開かれ輪廻から解脱し二度と再生しなくなります。 二刹那以上実在する事の矛盾は、龍樹の「中論」を紐解けば理解できますよ。 >>393
唯識三十頌や成唯識論を紐解きましょう。 >>403
957日本鬼子 ◆3yNEHqeJlglY 2018/05/06(日) 20:43:15.93ID:UjFC3Rn6
ワンワンは元気に病気だなw 神も仏も名無しさん2017/09/27(水) 08:06:11.37ID:Y+TJ/pXD>>375
言葉を改変して挑んでくるんだな。
ジャンキーはひねくれてるね。まず正直にならないといけない。
まず相手が何を言いたいのかよく話を聞かないと
500神も仏も名無しさん2017/09/27(水) 13:57:43.52ID:DC0ljzwi
ジャンキーの職業なんて書いてないよ。
屁理屈を繰り返して相手を洗脳する研究してたのか?って書いたの。
ジャンキーは対象を屈折させてインプットするんだね。
496神も仏も名無しさん2017/09/27(水) 13:50:37.81ID:DC0ljzwi
ジャンキー屁理屈も繰り返して書けば洗脳できるという理論を研究したの?
224神も仏も名無しさん2017/10/11(水) 15:28:54.62ID:JROttPDg
ジャンキーの勘違い。
分別しなけりゃ無分別(無我!無分別智!ドヤ!)
ちーがーうー、全然違うんだよ。
分別智→平等智→無分別智なんだよ。
ジャンキーは分別しなけりゃ即無分別だと勘違いしてる。
誰々は精神病、俺は見性者という分別三昧の坊っちゃんのまま。 > 高野山金堂で魔法陣ぶちまわしたので、
> 俺脳、今、仏教化濃厚やわ・・・・
でおーくん、それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものなw
で、仏教なのに魔法陣?
それはね、曼荼羅っていうんだよ?
(wikiから引用)
日本で「魔法陣」という名称や、円陣から悪魔が出現するという演出が一般化したのは、
水木しげるの『悪魔くん』によると考えられる。
>用語使って誤魔化さないように
>唯識三十頌や成唯識論
ttp://junsoyo.on.coocan.jp/yuisiki/sannjuuju.htm
唯識三十頌
…
勝義なり
亦は即ち是れ真如なり
常如にして其の性たるが故に、即ち唯識の実性なり
ttp://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.7_2009/JHS_07_05_Tamaki.pdf
現象学と唯識論 時間について
『成唯識論』の(なんちゃらかんちゃら)
…
「それ自体で最初の存在は超越論的な間主観性」であると云ふ観点から考慮すれば
「住異」とは「原初的なものと異なるもの」を含む識体の構造であると解釈できる
ttps://kotobank.jp/word/%E9%96%93%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E6%80%A7-48882
間主観性(かんしゅかんせい)
〈我在り〉が私の原初的世界にとっての根源的な志向的根拠である
たとえば
勝義とは何か?
真如とは何か?という質問攻めにあう感じがする 妄有(偏計所執性)であり実体はなく(相無性)、
仮有(依他起性)であり一時的な姿であり(生無性)、
真有(円成)でありありのまま(勝義無性)。
まさに勝義であり真如ですね。
>偏計所執性 − 円成実性
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
…
(仮設としての。遍計所執性によって)
これまで私たちはこの世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです
しかし
− これに対して −
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは
(遍計所執性を手放して、そして − 円成実性の智慧と慈悲をもって)
無常という理に
(仮設としての)自らの心を馴らしていかなければなりません
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性
このように説明しても
>変な用語使って誤魔化さないように
と、こう来るわけでつ 俱舎宗というのは大元が説一切有部だから小乗仏教なのかな?
>倶舎宗というのは大元が説一切有部だから小乗仏教なのか
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8
阿毘達磨(アビダンマ)
説一切有部とか・上座部とか
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%98%E9%81%94%E7%A3%A8%E5%80%B6%E8%88%8E%E8%AB%96
阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)
(大乗の瑜伽行派の)ヴァスバンドゥ(世親)を作者とするインドの仏教論書
_ _ _
だるま文庫 八宗綱要 倶舎宗
第二節 倶舎論の製作
第一項 婆裟論の編集
問い。『阿毘達摩倶舎論』は、誰が書いたのか?
答え。
(大乗の瑜伽行派の)世親菩薩(ヴァスヴァンドゥ)が書いたものである
小乗二十部のうち、薩婆多部(サルヴァースティヴァーディン・説一切有部)に属する
『大毘婆裟論』がもとになっているが、それ以外の(大乗とかの?)説もふくんでいる
_ _ _
ヒンドゥー
→ 釈迦
→ 根本仏典
→ 中観派
→ 瑜伽行派
部分的には受け継いでいる(かもしれない?)
(大乗特有の?)真如縁起とか?頼耶縁起とか? 如来常住だの大我だのの常楽我浄が涅槃経にある。
論書より重要な経典。
やはり大乗仏教は実体論。
どうせ又小理屈つけて無理矢理空無我と言い抜けるだろうが。
>どうせ又小理屈つけて無理矢理空無我と言い抜けるだろう
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84
常楽我浄
仏や涅槃の境涯は、人間本位の自我を離れ、如来我(仏性)がある
大乗だけではなくて
根本仏典の系統?の場合も
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
仮設としての
縁起している世界においては
縁起に依存して
この身に
地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある
色蘊だけではなく
色受想行識の仮和合も
(縁起している)一切の諸法すべても
地水火風の微細な粒子に分解して
最終的には?
微細な粒子も手放して、そして滅していくので
それゆえに
我所ではない
我でもない
という観察法
仮設としての
縁起に依存して
>刹那生滅
と説明しても
>無理矢理空無我と言い抜けるだろう
と、こう来るわけでつ
ttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DB/0039/DB00390L001.pdf
『阿毘達磨大毘婆沙論』における種子の考察
…
唯識における種子の六義
@刹那滅(刹那に生滅する)A(その他諸々なんちゃらかんちゃら)
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
上座部 パオ・セヤドー
仮設としての
仮和合の
五蘊は生起するや否や、即刻壊滅します。故にそれらは無常です。これは刹那生滅です
因縁生滅智
刹那生滅智 365栄進2018/04/15(日) 18:24:31.88ID:0y7cgHPW>>366>>371
>>363
それが楽しいみたいです。
でもジャンキー殿は楽しめず一人でマジギレ
それが燃料になってループしてる^^ 有名になりたい ■■■■■
┏┓ ┏┓ ■ ■ 偉くなりたい ┏┓ ┏┓
┏━━┛┗━━┓┃┃ ii \,, ,,/ ii 歴史に名を残す2だ ┃┃ ┃┃
┗━━━━┓ ┃┃┃ | _\ ./_ | ┏━┛┗━━━┓ ┏┛┃
┃ ┃┃┗━┓ 〈 ___ || ___〉 カタカタ カタカタ ┗━━┓┏━━┛ ┃ ┃
┏━┛┏┛┃┏┓┗┓ | ● ● | _____. ┃┃ ┃┏┛
┏━┛┏━┛ ┃┃┗┓┗┓ \ Д. / | | ̄ ̄\ \. ┏━━┛┗━━┓┏┛┃
┏┛┏┓┗━┓ ┃┃ ┗━┛___/ \ | | | ̄ ̄| ┗━━━┓┏━┛┃ ┃ ┏┓
┃┏┛┃┏┓┗┓┃┃ |:::::::/ \___ | \| | |__|. ┃┃ ┃┏┛┏━┛┃
┗┛ ┃┃┗━┛┃┃ |:::::::| \____|つ⊂|__|__/ /. ┃┃ ┏┛┗━┛┏┓┗┓ ちゃん
┗┛ ┗┛ |:::::/ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕 ┗┛ ┗━━━━┛┗━┛
信者の前で がなってる あ〜ァホの金ちゃん、信者の女に手を出して893を使って口封じ♪
元893自慢をするけれど本当は枝の葉っぱでした、殆んどインチキ学位の見栄張り自慢が痛過ぎ♪
被害妄想で信者を追い込み脅して騙して金を取る、ナマポを騙して取得させ信者をタ〜ダで こき使う♪
893の関係チラつかせ周囲の牧師を見下して悪口し喧嘩する、裏で信者の陰口なんて茶飯事♪教会を離れると糞味噌に言われます♪
注卒なのに、それを隠し偽物学位(薬物注卒?)じゃないでしょか♪○○○担がせ歩かせる 金ちゃんの見栄の為だけじゃないでしょか♪
なにか刺激のあるイベントを開いては、金ちゃんが偉大であることを強調し、裏事情に詳しいことをアピール、信徒が減るのが怖くて実際は臆病なだけじゃ無いでしょうか♪ なぜ無理矢理なのか聞いたんですか?
無理矢理という事は論理的に飛躍があると思うんですが、何処に論理的な飛躍があるのかを反証してもらわないと議論の進めようがないかと。
>>419 junkie- ooyama師匠へ
たとえば
仮に
日本語で
現代語訳で
初心者向けに、わかりやすく説明しても
最低限以上の
仏教とかの専門用語のようなものが出て来るので
ID:yUOGtDId殿の主張
>変な用語使って誤魔化さないように
ID:LN6I9a4o殿の主張
>理屈つけて無理矢理空無我と言い抜けるだろう
と、こう言うふうになるでしょ?ということでつ
それゆえに
(涅槃に導くための)対機説法も難しい。ということでつ
(真如縁起と頼耶縁起の瑜伽行派も難しい?)
>論理的な飛躍があるのか
たとえば
最終的には?
仮設としての
縁起している世界を
手放して
超えて - 涅槃に逝く。という対機説法なので
『(仮設としての)論理的な飛躍がある』と言えるかもしれない
スッタニパータ 21
…
激流を克服して
(縁起している世界を手放して超えて)
(論理的な飛躍があるので)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
彼岸(涅槃)
縁起している世界を超えているので
論理的な飛躍がある。という意味でつ
この涅槃を
好意的に受け取るのか?
批判的に受け取るのか?ということでつ >>420
そうなんですかぁ。
かなり懇切に説明されてるのに、何故相手の方が理解されないのか不思議に思っておりましたが。
>何故相手の方が理解されないのか不思議に思っておりました
たとえば
宗教に対して批判的な場合
仏教に対して批判的な場合
そして
このスレの場合は
大乗に対して批判的な場合
色々な場合があるかもしれないけど
ある程度
根本仏典とか
上座部とかの
仮設としての
縁起に依存しているので
『無常である』の意味がわかるのなら
大乗の空性に対しても
否定することもないと思うけど…
という感じもするのでつ 刹那滅自体怪しい概念。
刹那に物や事が生滅するなら滅してる間それはどこに行ってる?
単に認識論として空を言うならまだ納得が行くが存在論として空はあり得ない。 一切空には実は無理があるから言い訳で二諦を置いた可能性は無いの?
不二一元論の方が自分には説得力ある。 縁起は漢字で言語に意味が付着してて
正しい理解を阻んでる気がする。
縁起→無自性→空となるんだが
自性の説明のほうが分かりやすいかな
あらゆるものは無自性である
これはそれ自身の拠って立つ
ものは一切ないという簡単な話である。
例えも簡単な例えから非常に難しい
縁起の根本に関わる話まであるんだが
初歩的なことなら小学生でも分かる話を
勉強したものが難しい話にしてしまう
悪い癖だ。
種は単独でお花や野菜になるんではありませんよって
言えば誰でも理解できるショウ。
お花は単独でお花になるんではありませんよって
話せば誰でも分かる話なのに。 本質抜きの分節世界の成立を正当化するためにこそ、仏教は縁起を説くのだ。だが縁起の理論は、理論的にはいかに精緻を極めたものであっても、実践的にはなんとなくもの足りないところがなくはない。
この現実の世界でわれわれが実際に交渉する事物には縁起の理論だけでは説明しきれない手応えがあるからだ。
井筒俊彦 まず縁起の説明がない。
更に人は既に悟ってるのに
それを悟ってないと誤解をしてるから
色々論をたてるわけである。
二乗作仏の始まり。
また将来悟るとわかった時点で
悟ってるわけである。
浄土教・ 単純に、連続か刹那生滅しかないんだし(その中間は有り得ない)、変化があるということは刹那生滅でしか説明がつかないからじゃないの? >>424
川に縦線が引いてあると想像してみよう
流れのどこに途切れた所があるかね? 補助線としての縦線が引いてあるとして
補助線の辺りを観察してみる
流れは途切れているか?ってこと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています