大乗非仏説知っているのに大乗仏教信仰する人って [無断転載禁止]©2ch.net
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>>147
私は大乗仏教運動勃興時の話をしているんです。 >>144
臨済宗の興禅護国論や日蓮宗の立正安国論がが有名だが日蓮系の場合不和をもたらす有害な布教の仕方や有害な教学が先の戦争の亡国を招き学会のような国際的カルトを生んだりした
だから日蓮が活躍して何百年たっても日蓮系はカルトの異端扱い
これが現証だ >>146
すみません。
いわゆる原始仏典(阿含、雑阿含等)から大乗経典や仏教書の類は毎日の様に拝読させて頂いておりますが、上座部経典とは初耳ですね。
パーリ語仏典の勘違いでは? >>150
超大雑把に書き込ませてもらいます。
概ねあの当時の在家信者から見ると大乗経典と小乗経典となりあの当時の出家信者から見ると大衆部経典と上座部経典と認識しています。
超大雑把に分類すると…
パーリ語で表記されたのが上座部経典でサンクスリット語で表記されているのが大衆部経典で良いのでは?
寄って原始仏典と上座部経典はほぼ同じ意味と捉えています。
私の中では原始仏典の中に増一阿含経典は含まれませんが、どうでもいいです。
以上。
因みに、パーリ語仏典という表現はあまり好きでは無いです。
他人の知識を借りると…
パーリ語とは パーリ( あるいは )というのは国や地域や民族の名前ではなく、 「聖典」 という意味です。 もっとも、「パーリ」の本来の意味は「聖典」ではなく、 「外耳、線、列」 などの意味であり、 後に仏教聖典のことをそういうようになったということのようです。
だとか…
パーリ語は、古代インドの標準的文章語であるサンスクリット語にたいして、俗語ないし方言をプラークリット語といい、マガダ語やパーリ語がある。
北インド東部のマガダ語(ブッダはこの言語を用いた)に対し、パーリ語は中部以西の俗語と考えられ、言語学上はピシャーチャ語の一種で、パーリとは聖典を意味する。
他の俗語に比べ比較的サンスクリットに近く、崩れは少ない。ブッダおよび弟子たちはマガダ語を使っていたが、仏滅後、弟子たちの西方への布教によってパーリ語が用いられるようになり、パーリ語仏典が作られるようになった。
また別にマガダ語からサンスクリット語の仏典も作られたようである。パーリ語仏典はアショーカ王時代にスリランカに伝えられ、後に東南アジア全域に広がり、上座部仏教(いわゆる小乗仏教)では現在に至るまでパーリ語が使われている。
そのため南伝仏教のことをパーリ仏教とも言う。
だとか…
言語学者では無いので『パーリ語仏典』とかややこしいので私はあまり使用しません。
その辺はマジでどうでもいい。 >>140
ならば問う。
>小乗仏教は、釈迦本来の教えの実践を怠り、穴倉に籠もった暇人が暇つぶしに分析ごっこをしていた屑の集団。
この場合の『釈迦本来の教えの実践』とは何ぞや? >>143
>自己のみの救済の為に穴倉に篭り瞑想と分析をせよとは仰ってない。
そうですよ。
その文言はお前が表現したんだけどな。 >>151
なら一般に流通している表記を使えばいいでしょ。 >>152
少なくとも穴倉に篭り瞑想と分析に耽る行道ではないのは間違いない事実でしょ? >>153
いいえ、某紫綬褒章受章者の著述からの引用ですが? 初期大乗仏典には当時の小乗仏教の修行の有り様が記載されている。
穴倉に篭り瞑想と分析をしている、とね。 ちなみに、現在の南伝仏教各派を小乗仏教とは呼んでませんので。
あくまで大乗仏教運動勃興時の問題としての批判です。 >>158
けど南伝仏教が大乗から見た小乗仏教であるのは間違いない >>153
小乗はベースが虚栄心でそこから出ようとすれば大乗にならざるを得ない 団扇太鼓叩きながらお題目唱えるのって、元気が出ていいよ。
ストレス発散になるし。 桐山及び阿含宗は悪い方向へ行ってしまったとの情報を得てるのでダメだが原始仏教である阿含経の7科37道品は
具体的にたとえばここで足に縄をつけてファンジージャンプ見たく飛び降りるとか、ここでは心による行そくを具体的にはどう覚智
するのかなどを早く解明したほうがいい。阿含宗も完全には解明できてないんではないかと思う。
そしてネットなどでも載せ、コースももうけることが大事。密教では金剛界の曼荼羅に37に分けた絵をのせてそれを観想するだけ
になってしまっており具体的な修行をやっておらず本当の力や悟りがひらけない。やれるようになると密教の苦行してきた坊さんよりも
何倍もの、いやもっと?力がつくし本当の悟りがえられるだろう。その阿含教をやったところからは密教の方法をとると本当に力
を発揮する。ただし不動はやはり悪いほうへいってしまい上神仏界では抹消対象となってるので唱えないほうがいい。
そこは降三世明王などに変える必要がある。また阿含教をやって悟ると、悟りはえられるかもしれないが、後でこんなことをやりたい
と俗世間的なものごとをやろうとしたときまったくやれなくなってしまう。これ自体には当の釈迦さえも悩んでいる。
だから、引き出しを分けるなどしてそこに煩悩はやすとか、新たな改良が必要。両立できるようになんとかしたい。
たとえば、西洋は文明、東洋は無文明(どちらかといえば)にわかれてしまってるがこれも両立したい。 非仏説でも
信じれば救われると思って信じるしかないよな。
一生懸命念仏唱えて、
死んで極楽がなかったらショックだろうが、
まあいいじゃないか。 ラーマクリシュナがいくら神を信心(バクティ)しても悟れない老女に
「誰を一番愛してるか?」
と聞いた。
「私は孫をとても愛してます。」
と老女は答えた。
ラ―マクリシュナは
「なら孫を神として信心しなさい」
と言った。
老女はラ―マクリシュナの言うとおりにしてやがて悟りを開いた。
この逸話に信仰の本質が見える。
龍樹は十住毘婆沙論で
「信仰という方便で不退転に至る者がある。それは通常の修行の道が陸上を一歩一歩歩くように難行であるのに対し舟で水上を乗り行くように易しい道である」
と述べている。
信仰に重きを置き他の信仰に寛容な日本仏教の原点でもある。
ラーマクリシュナと何か共通点もある。 その程度で悟れるなんてたいした宗教じゃないってことだよな。 >>167
一口に信心と言っても真宗の妙好人までの境地に行く人はそんなにいない。 みんな頭で仏法やってるな。w
行はどうした行は。
っていうかテーマは唯識じゃないじゃろ。ってなんじゃろ。 >>169
行と言っても大概の自称行してるって人は傍目に見て下らない事してるようにしか見えない。
そんなに人格高いとも思えない人も多い。
そういう人は軽蔑してる。
特に社会運動が行だみたいなのはウザイだけ。 >社会運動が行だみたいなのはウザイだけ。
なんじゃそれ。 托鉢は社会運動で行なんだがなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 小乗への乗っ取って間違った教えを広めたx乗仏教の広まりは、全て中国人の五時八教説に基づいていますが、
これは現代ではデタラメ偽説だったとされています。
小乗仏教が仏教だったのです。 >>174
法華経を最上とする五時八教説は天台が唱えた。
他に空海の十住心論は密教経典の大日経や金剛頂経を最上とする。そこでは法華経は密教経典、華厳経に次ぐ第三位の経典になる。
日本では天台宗から鎌倉新仏教が生まれた事もあり天台の五時八教が流行した。
中国で主流だったのは華厳経を第一とする五教十宗の教判。
実証的仏教学が発展した今では古い説だが。 どこの馬の骨か分からないインド人が創作した経典だ。
釈尊一代の説法と考えて優劣付けるのがそもそも間違ってるんだよ。 一体いつから───────釈尊の説法が最上のものだと錯覚していた? (AA省略)
普通に考えて、2500年前の古代のオッサンの個人的見解と、それから数百年以上思索を繰り返した集団の思想を比較した時、どっちが優れてると思う?
宗教として教祖無謬説を信仰しているならそれでもいいが、それならそれで、他人の宗教的信仰を揶揄するのはどうかと思うが? 密教はバイオホロニクスと比較されるし華厳経はロンドン大学でPh.D取った教授が現代数学の列理論と比肩すると言ってた。
実在の釈迦の説法は至極シンプルな物だがそこから発展した大乗経典の方が思想的には深いと思う。 https://i.imgur.com/8Bn6fkb.jpg
天台大師が五時八教を説かなかったって説
いまどうなんでしょう 五時八教偽説が本当のブッダの教えを壊してしまった原因だが、同時に、(原始)仏教が現在現存できているのは、
大乗仏教というブッダの教えでは無い新興仏教が広まってくれたおかげでもある。
それ故、一概に五時八教偽説の広まりという事故を単に批判しなくても十分である。 179 ブッダの勝利は敗れることがない。 この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。
659
賭博で財を失う人は、
たとい自身を含めて一切を失うとも、
その不運はわずかなものである。
しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、
まことに重いのである。
660
悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、
十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]
また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]
地獄に赴く。
(-_-)南無・・ 釈迦ももうダメです。不動と同じです。悪い部分があったらKSAの薬師如来に事前になおしてもらうと言っているのに
いつまでも善人の邪魔をしてきたり、もはや悪いほうへ行ってしまい上の神々仏々に抹消されることになりました。
おまいりしてると、中道ではなく中途半端になるところからやる気をなくしダメになるよううながされます。
「おまえを助けると悪いほうへ言ってしまい怖い」といいわけしていたが、単に自分をこえられるのがこわいだけという
個人的な理由だったりします。どうか仏教徒はこれからは、これからはしゃかをおまいりしないように。
KSA(月読神、アポロン神、ガブリエル神、降三世明王神、アルテミス神、如意輪観音神、他元仏教からKSAに移動してきた
ブッダ、他もと違うところからKSAにきた西洋の神々などでこうせいされている神仏のグループ)を拝むようにしてください。 神や仏に「お参り」などと口走っているうちは阿羅漢果は見えんだろうなwwwwwwwwwwwwwwwwww もし心があるものを善いとすれば、ほかの一切は善くないとする
もし一つの法を尊重すれば、心は必ずその他を卑しむ
もし心がどこかに留まることがあれば、鎖に繋がれたということだ 意識の筆をもって分別して仏・法・凡夫・外道・原始・大乗・世俗・涅槃を描きだして、
また自分でこれを見て貪欲・瞋恚・愚痴を起こし、見解をたて、これに執着し、取ったり捨てたり、議論したり、
さらに心意識をはたらかせて分別して種種の悪業を生起させてしまうばかりだ 原始仏教をマウンティングの道具として使っているんだね
そして悪因縁を積みつづけているんだね 口で悪を作り、意識で悪を作り、心は驕りとあなどりでいっぱいになって
慈悲もなく、戒律もなく、人も救えず、悟らせず、そんな力もなく、悟ったつもりになって
釈尊の教えから俗人よりも離れていっているんだね >>185
師や、創始者への感謝と敬意の無い阿羅漢果こそ笑止だろ?
寧ろ、阿羅漢果を得た後こそ、「お参り」に気持ちが入るだろうよw 179 ブッダの勝利は敗れることがない。 この世においては何人も、かれの勝利には達しえない。
659
賭博で財を失う人は、
たとい自身を含めて一切を失うとも、
その不運はわずかなものである。
しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、
まことに重いのである。
660
悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、
十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]
また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]
地獄に赴く。
コーカーリヤはサーリプッタとモッガラーナという聖者に対して
敵意をいだいていただけで、死んでから紅蓮地獄に生まれました。
されば最大聖者のブッダを低く貶める者はいったいどんな恐ろしい処に赴くのでしょう。
考えただけでも恐ろしい。史上の聖者ブッダをオッサンと呼び、
ブッダ死後の後世の人が捏造した仏教を優れたものとする憐れな者よ。
その時になって自分の語ったことを後悔することだろう。
(-_-)南無・・ >>191
頑張れやwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>12
原始仏教は未熟な仏教とも言われてる
小乗だけだとやっぱり出家しないと悟らないし人も救えない
大乗は在家にも悟りや救いがあるって考え
今の社会ならむしろ在家仏教が主流になって当然じゃないの
昔みたいにお経を海外まで取りに行くほどありがたがってたけど
今は翻訳が本屋に売られている
知識としては十分得られるし在家の方が救済出来る立場に近いのでは
山に篭って何年も滝に打たれて火を拝んでなんの意味があるんだろう
あれだって釈迦は否定してるんだぜ >>194
小乗と呼ばれる南方上座部仏教のヴィパッサナーやそれを元に作ったマインドフルネスなんかは良い。
ただし本格的にやるとなると在家じゃ無理だろう。
体験者が慣れると一日13時間位瞑想に費やすとか道を歩く途中瞑想状態に入ったら車の通る道の真ん中でずっと立ったままだったとか言ってた。
知識はともかく本格的瞑想は出家じゃないと無理だろう。 でも現代で言えば出家って新興宗教の職員になるとかだぞ
本物もいるけど大半はなんの疑問もなく本会の教えをおうむ返しに言うしか能が無い連中ばかり
在家で通用しないから隔離されてるんじゃないかと >>196
南方仏教は男なら一生に一度は出家する。それが成人への通過儀礼になってる。
在家で通用しないからじゃない。
新興宗教の類と2500年の風雪に耐えてきた仏教とは天地の差がある。 それは小乗で韓国の徴兵制みたいなものだろ
それが最高のシステムなら仏陀が山のように生まれてなきゃおかしい
キリスト教も世俗否定から長い年月をかけて世俗内禁欲へ舵を切った
だから延命出来たんだよ
時代の要請を見誤っても未来は無いよ >>197
そういう風習だってことでしょ
ならその国から悟りを開いた人間が山ほど出て
世界をリードしてるわな
実際に世界をリードしてるのはそんな国じゃ無いわな
結果をもたらさない仮説なんて否定されて当たり前
もし違うというなら彼らが世界に対していかなる救済を与えてるか教えてくれよ
一生座禅を組んでも悟れない奴は悟れない
そんな単純な真実から目をそらして無駄なことをしてるだけだよ
悟る奴はソクラテスのように学問をしながら悟りの境地に達する
馬鹿は外見を真似して満足するんだよな >>201
>馬鹿は外見を真似して満足するんだよな
お前の事かw >>203
じゃあどういうもんなんだよ
仏教自体大昔に語られた真実も含む巨大な方便にしか過ぎないんだぞ
方便は所詮方便でしかなく、科学が発達して大衆の認識が高まれば、
さらに本来に近い方便が語られなきゃおかしいだろ
小乗の連中は過去の方便にしがみついてるだけだよ
悟るというなら仏教を超えた真理に到達しなきゃ修行したとは言えないだろ
過去にテキストが提示された上に現代の知識が加わるのだから当然その先に進める行為が悟りなわけ
結局権威から逸脱する勇気もない連中がやってるのが小乗
世間に触れて通用しないのを恐れてるんでしょ >>204
四法印位は踏まえてね。
諸行無常=全てのモノやコトは移ろいゆくものである事
諸法無我=それ故に全てのモノやコトには究極的には実体が無い事
一切皆苦=全てのモノやコトに究極的実体は無いのに在ると執える煩悩があるため究極的には全てが苦しみとなる。
涅槃寂静=煩悩の灯火が吹き消され全てがクリアになった状態が救済である。
これは大乗、小乗問わない仏教の普遍的原理
釈迦が宮殿での天国のような暮らしをしてても救われなかったように仏教では天国にあっても個人の内面の問題が解決しない限り救いは無いとする。
悟りという実存的自由を得て初めて救われる。 個人の内面の問題を解決、か。
それは心理学の問題となる。
宗教は心理学の問題ではないよ。 >>206
心理学自体がとてもじゃないが完成された学問とは言えないし仏教には唯識という仏教心理学がある。
哲学者でアメリカ心理学の父であるウィリアムジェームスはいずれ仏教が心理学者に必須の学問になるだろうと言ってる。
分析心理学を作ったユングも仏教に注目し自ら曼陀羅を書いてる。 >>206
心理学と仏教についての入門なら京大名誉教授で文化庁長官も務めた河合隼夫の「ユング心理学と仏教」などの著作が良い。 204.
涅槃寂静、か。
それは心理学である。
それは宗教とは関係がないよ。
涅槃寂静、で終わり、か。
心理学であれば、終わりでも良い。
宗教では、そこで終わりでは、何の問題の解決にもならないことになる。
自己満足で終わるのか、否か、そこが問題である。 >>201
ソクラテスはシャーマン的な所あってダイモーンの魂に導かれて哲学してると言ったり戦争中一晩中立ったまま(恐らく瞑想してた)だったとかいうヨガ行者みたいな逸話も残してる。 >>209
仏教は最終的に仏国土を目指すが涅槃に達し一隅を照らせる人を一人でも半人でも生み続けることでそれに近付こうとする。 まあ、56億年ほど待てwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 大乗非仏説もあるんだが小乗非仏説もあるのだよ、現在まで伝わっている資料のどれにシッダルタの教えが正確に書いてあるかなんて誰にも分からんよ
また、ある命題や命令がシッダルタの教えだからといってそれが真であるとも現代の我々にとって合理的であるとも限らんだろう
ラッセルのように、そして現代の普通の教養ある読者が行うように数学を真偽判断、合理性判断の指針として仏教の諸経典を読解し真なる命題、合理的な命令だけを抽出して実際の生活に活かしたらどうだね
もちろん判断に伴うバイアスには気をつけねばならんがね
君たちが教養ある読者なら、あるいは何か特殊な目的を持った人々ならば余計なお世話だったかもしれないが >>211
だから哲学からでも悟れるんだよ
結局世界の真実への探求だからな
神は世界のどの方向からでも真理に到達できるように作った
仏教もあくまで人類の進化への過程の教えであって方便
人生が苦に満ちてるって発見も方便じゃないか
本来の世界から見たらかりそめの世界がこの世界だから
この世界の喜びですら苦であるとして執着を絶たせようとしただけでしょ?
その真意がわかったらこの世界で生きることは必ずしも否定的なことではない
この世界にも喜びはあるわけですよ
人間は教えられたことしか理解しようとずその教義に縛られてしまう
仏教という教義に縛られることすら執着
さらに先の教えが語られる時代環境になったのなら捨て去って新たな教えを模索するのが
人類の次の使命ですよ >>216
古代ギリシャの哲学は単なる知識ではなくエルゴンという行を伴うものだった。
それ故にキリスト教から異教と判断されてアカデメイアは閉鎖された。
キリスト教と被らないよう知識としての哲学が発達する。
釈迦は仏教という筏で川を渡ったら筏は捨てなければならないと既に言ってる。
禅者とかでそれ実行した人も結構いた。ただ四法印は時代が進んでも変わらない普遍的真理。 大乗の涅槃経には常楽我浄が説かれる。
涅槃の境涯では無常が止揚された常住
苦が止揚された楽
無我が止揚された如来我
煩悩という不浄が止揚された清浄
があるとする。 如来常住 これは釈迦と同時代に生まれてこれなかった弟子の願望を叶える教え
理屈から言えば六道輪廻から解脱しなければ二度と釈迦に会えないからだ
だから如来を普遍的な存在とする事で後の人も臨在出来る
一切衆生悉有仏性 これも拡大解釈
涅槃経って大乗を理論として成立させるための苦肉の策ではあるんだよな
どんなに性根が腐った人でも仏性を有してるから仏になれるとか理屈として変じゃん
なら六道輪廻自体ないことになっちゃうだろ
仏性があるから長い輪廻の中で仏になれる可能性が有るってだけなんだもの >>219
性根が腐った人でも仏になれるのは変って徳一の五姓各別説じゃん。
最澄に論破されたヤツ >>220
両者平行線のまま最澄が打ち切ったと思うけど。 日本仏教では衆生は本来覚っているという本覚思想が基盤になる。
覚ってるのに何故修行しなければならないのかで本覚と始覚を統合した道元が出てくる。
おそらく本来覚ってるはずが何故罪悪と煩悩にまみれてるかという問いから法然や親鸞が出てきた。 >>223
人に頼らず自分で確かめろや?
一度首を吊ってみなw >>223
一時流行した松本史朗とか袴谷とかだろ。食傷してうんざりする。 殺生を唆すとは斬新だなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 大乗非仏説
阿含経に既にブッダが語っていた小乗>大乗の論が記述されている
(大乗仏教徒はこの経文すら読んでいないことがバレバレ)
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70618.html
<要約>
サンガーラヴァが「あんたたちの修行は自分の解脱(幸い)のみを求める小さい道だ(小乗)。
我等は衆生の幸いのために活動する大きな道なのだ(大乗)」
ブッダ「違うな。あんたがたが、その場限りの小さな衆生のための活動をしても(大乗)我らの道には遠く及ばない」
さらに詳しくは 阿含経典 3 増谷文雄 訳 p89
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/71W1lftw6UL._AC_UL320_SR228,320_.jpg
んで、ここでブッダや原始仏教を平気で否定する人ってだれかと言えば、
まず「創価学会」の人です(笑) 創価学会の人は「法華経以外読んではならない」という北朝鮮のような決まりがあるので、ブッダが直接語ったことに近い、
後世の人の創作でない原始仏教を読めないんです。後世の人が捏造・創作した似非仏教を後生大事に抱いて死ぬ、というわけです。
かれらは「南無妙法蓮華経」と唱えれば、祈祷すれば、現世利益、死後利益が得られると大きな勘違いをしていますが、
これも又、ブッダによって「完全否定」されています。
https://ameblo.jp/nibbaana/entry-10590041811.html
さらに詳しくは 阿含経典 2 増谷文雄 訳 p138「西方の人」にのっています。
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51HX5yDwL7L._SX353_BO1,204,203,200_.jpg んで、何故原始仏教が長きに渡り、とりあげられなかったかといえば、
中国人の愚者が提唱した「五時八教」の偽説によるのですが、
現代ではこの説は完全に誤りであったとされています。
恐らくは派閥・学閥争いでもあったのではないのでしょうか。
この「五時八教」の偽説が今日の捻じ曲げられた北伝仏教=仏教という諸悪の根源になっています。 >>227
増谷訳のどこにブッダがサンガーラヴァの修行を小さい道だとしている
表現があるのかな? 俺はこのように要約した。
サンガーラヴァ
「バラモンがみずから供犠をいとなみ、また他のひとびとをして供犠をいと
なましめることは、それはすなわち多くの人々のための福いを修すること。
それに対して出家の道は一人のための福いの道じゃないのか?」
ブッダ
「師(如来、ブッダ)が法を説き、そして、他の人々もおなじように修行し、
それらが数百、数千、数万にいたるならば、それは多くの人々のための
福いの道である」
サンガーラヴァ
「あなたのおっしゃるとおりですね。」 >>230
この箇所は後の大乗仏教における授記や仏国土というテーマに繋がって
いくと思う。
また釈迦はバラモンについて『スッタニパータ』や『ダンマパダ』で語っている。
例えば、『スッタニパータ』 第二 小なる章 七、バラモンにふさわしいこと、
第三 大なる章 九、ヴァーセッタ等がある。
650 生まれによって〈バラモン〉となるのではない。生まれによって〈バラモン
ならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為に
よって〈バラモンならざる者〉なのである。
『ブッダのことば スッタニパータ』 中村 元(訳) 岩波文庫 >>230
わかりやすく多少、サンガーラヴァコースを陥れ気味に書いた。
実際は君の解釈が正確だ。
言いたいことは、「小乗<大乗のような考えは、違うよ」そういう「小(自分だけ助かる)」「大(みんなを救済)」
という小乗仏教を陥れるような風潮に異を唱える意味で書いた。 >>229
「五時八教」以外の教判があることが>>175のレスで示されているのだけれども・・・
少なくとも日本における真言や浄土系の各宗派では「五時八教」を重要視しない。
そして現代人ならば高校の世界史で仏教の誕生から部派仏教、大乗仏教の成立を
学ぶはず。
創価学会批判をしたければ他にいくらでも適当なスレがあるだろう。 >>233
増谷文雄氏によると、ブッダの直の説示に近い阿含経等がないがしろにされてきた原因は「五時八教」による影響が大きい、とある。
阿含の系の宗派が、新興の教団以外に日本に無いのはそのためだと論じておられる。 >>235
現代に伝わる上座部仏教は大乗を排斥した大寺派の流れに基づくものである
のに対し、中国には小乗(アビダルマ仏教)と大乗諸経論が分けられることなく
伝わり、両者を共に仏説であると捉えられた。
そこでそれら多くの経典の中でどれが最高の教えであるか、一つの判定方法
として、各宗派によってさまざまな教相判釈が行われた。
「五時八教」もそのうちの一つ。 仏教学も日々研究が続いていて、
セイロンにも大乗仏教経典が伝わり、無畏山寺派、祇多林寺派などは大乗経典や
密教を受容していたのに対し、大寺派は大乗を非仏説として斥けた。?12世に入り、
国王パラッカマバーフ1世によって大寺派のみが認められ、残りの2派が弾圧され
大寺派に統一された。この時、セイロンにおける大乗仏教は消滅したとされる。
また大乗仏教の起源にしても、仏塔を中心に独自の宗教活動を行っていた在家
者のグループであるとする平川彰氏の「在家・仏塔起源説」が一般的に指示され
ていたが、近年では、大乗仏教の初期には、その主な担い手は出家者であり、
彼らは部派仏教教団から独立した存在ではなかったという見解が有力になり
つつある。 なるほどそういうことか。しかし自分は小乗派なんだけどアビダルマはどうも苦手でチンプンカンプン...(苦笑)
三蔵経典でも律蔵と経蔵は好きなんだけど論蔵はサッパリ(笑) 中国において大乗仏教が受容されていったが、実のところインドでは四世紀まで
大乗経典は制作されても大乗教団は存在しなかったとするのが
グレゴリー・ショペンの学説。
『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』 グレゴリー・ショペン(著) 小谷信千代(訳)
春秋社 (2000/07)
もはやamazonでも古本しか買えないのか。 ざっと俯瞰するのならばこちらのサイトが役に立つかと。
青少年のための仏教入門 仏教へのいざない 東京大学仏教青年会
http://todaibussei.or.jp/izanai/izanai_index.html 法華経をめぐって 大乗仏教教団はインドに存在しなかった?
https://togetter.com/li/14299 <法華非仏説>
法華経は、釈迦死後在家の仏教徒が作った作者不祥の仏教小説
https://ameblo.jp/banana-8t1e/entry-12253624316.html
仏教偽典なので信用しては人生を台無しにします 偽経による大乗仏教でも、
立派な坊さんは立派だが、
日本の坊主はそろいもそろって生臭クソ坊主。
坊主らしいのはスキンヘッドだけ。
しかし、ただのハゲとそう変わらんし。 シャカを信仰しないもの、それが、大乗仏教徒。
シャカの教えは、阿含経にしたためられておる。かの、少欲第一位のカッサパ様が、結集をしてくれたおかげで、現在に伝わった。サポートしたのは、記憶力第一位のアーナンダ様である。
その頃マガダ国で喋られた言葉につながるパーリー語によって伝えられて、現在諸国の言葉に翻訳されておる。
そういう努力の結果をないがしろにする輩は、地獄に落ちる。
いいか、宣言しておく!
大乗仏教徒が盛んに御託を並べる空の概念を、完成させたナーガール ジュナは、
阿含経を修行していた為に、解脱しておった。
だが、空の概念だけをありがたく懐に抱いた大乗仏教徒は、解脱をしていないただの凡夫じゃあああああああああ! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています