大乗非仏説が正しいと確定したのに大乗仏教信じてる奴ってキチガイだよな☆3 [無断転載禁止]©2ch.net
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27歳の時、たまたま「沙石集」を読んでいて、ある言葉に出会って大いに恐怖して、それまでの慢心をすっかり砕かれたのであった。
春日の大神、解脱上人に告げたまわく、
「およそ拘留孫仏(くるそんぶつ)よりこのかた、一切の智者および高僧、菩提心無き者はことごとく魔道に堕す」
と。この言葉を見て、思わず身の毛がよだったのだ。
それ以来、菩提心とはいったい何かと、久しく考えて来た。
そして、42歳になった時にようやく菩提心とは四弘誓願(しぐせいがん)の実践に他ならないのだと確信したのだった。
もし春日神君のご神慮がなかったならば、私のごときは必ず魔道に堕ちていたことであろう。ありがたや春日大神君。
●四弘誓願
一、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願
二、煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願
三、法門無尽誓願智(ほうもんむじんせいがんち)
法門は無尽だが、すべて知るという誓願
四、仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願 >ついに大乗が価値のない偽物だとわかってくれたか
いや違うだろうね!小乗の教えが、いかに現実味が無く、無意味な修行法であるかを理解したまでの事です。
<仏とは>
「仏とは何か」を説明すること自体、非常に難解なので簡単に分かりやすく説明すると「成仏」とは「絶対的幸福境涯の確立」と云えるでしょう。
「成仏」とは「仏を開く」と読んで、私たちの生命に本来存在しているところの仏界の生命を湧現することです。
この仏界の生命を湧現させる唯一の方法を今から750年前に日蓮大聖人が御本尊として現してくれました。
この御本尊に向かって「南無妙法蓮華経」と唱えるとき、我が生命の仏界を開くことが出来るのです。
仏の生命の本質は「菩薩の生命」です。「菩薩の生命」とは「抜苦与楽」と言って、苦を除き楽を与えると言うことで、一切衆生を苦から救い幸福を与えるという生命境涯を言います。
仏の住所はこの娑婆世界です。従って「死んでから仏になる」訳ではないのです。また仏は人間を超越した存在でもなければ、特別な存在でもありません。
凡夫を離れて仏は存在しません。末法の仏とは凡夫相なのです。
有りのままの姿で仏になるのです。 この事について創価学会池田名誉会長は次のように講義されています。
「「完成された仏」と言っても、ユートピアのように近づけば、近づくほど、その分、遠ざかる理想像だということです。
「完全なる仏」というのは想定できるが、現実には「目標」に過ぎない。
つまり、凡夫という九界を離れた「仏」は実在しない。三十二相の"仏様らしい"仏は、実在しないのです。
仏とは現実には「菩薩」の姿以外にない。「菩薩仏」以外の仏は無いのです。
(中略)立派そうな格好をしている仏は「夢の中」の存在だというのです。実在しないのです。
本当はありのままの凡夫が瞬間瞬間、久遠元初の生命を身に湧き立たせていくのが、唯一、実在の「仏」なのです。
「人間」以外に「仏」はないのです。「人間以上」の「仏」は、偽物なのです。方便なのです。
だから、人間らしく、どこまでも人間として「無上の道」を生きていくのが正しい。その人が「仏」です。」と。
そして、それを教えているのが「人間主義の仏法」たる日蓮大聖人の仏法なのです。
御書「御義口伝」には「如来とは一切衆生なり寿量品の如し」とあります。
内なる仏界の生命を原点として、九界の現実の中へ飛び込んでいく――
これが仏の生命のあり方というわけです。 十界互具といって
地獄界
餓鬼界
畜生界
修羅界
人間界
天界
声聞界
縁覚界
菩薩界
仏界
それぞれの世界に生きる人には、互いに九つの世界に赴く可能性が宿されてるのさ。
地獄界に堕ちてるものも餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天界に転生する可能性があるのみならず、
修行次第で声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界(この四つの世界を四聖界という)にも至ることができる因性がそなわっている。
では正覚を得てすでに輪廻の世界を離れている仏は六道に堕ちることは絶対にないのに何故六道に赴くのか。
それは仏は仏界にとどまることはなく、一切衆生を仏界に導き入れるために世に出現するからであり、
仏が自ら六道に赴く力は六道に生きる因性をそなえているからであって、だから菩薩として六道に敢えて生まれてくる。
そうでなければ衆生の心を理解し、衆生を救うことはできない。
というようなことを天台大師は仰いました。
http://www.shugyoumondou.com/practice/truth/ten-realms-mutually-contains.html 大乗とか小乗とかの観念がいろいろと変化しているように思えるのは、みだりに見解をつけるからである。
真実を求めようとするのではなく、判断分別の見解を止めなければいけない。
善い悪いとか、非仏、本仏とかの二元的な見方にとどまらず、決して追求しないことだ。
一つの観念もなくなれば、すべての行いや状況には問題がなく、すべての存在があるがままになる。
本来の一体性に還れば真理そのままである。
分別にとらわれると根本的なことを失ってしまう。 日蓮は天台宗が法華経が最後の仏説だと結論してたから重視してたわけだけど
結局仏説じゃなかったんだから 仏説なのは何経?
法華経が仏説じゃないのは確実なの? >>12
釈迦の直説に近い本当の仏説はスッタ二パータの4章から15章。
法華経は釈迦が説いたという意味では100%仏説ではない。
法華経は古層の経典が使うパーリ語でなく釈迦に仮託して新たに作られた経典が使うサンスリットで書かれてる。
釈迦直説に近い古層経典は短詩形式を取るが法華経は新しい散文形式を取る (問) 修行者が誤った迷信を信じていた場合、死後そのことで何か咎めを受けますか。
(答) 私にはその「迷信」とか「修行者」とかの意味がわかりません。
要はその人が生きてきた人生の中身、つまり「どれだけ人のために尽くしたか。どれだけ内部の神性を発揮したか」にかかっています。
大切なのはそれだけです。
知識はないよりはあった方がましですが、その人の真の価値は「毎日をどう生きたか」に尽きます。 >>13
古層の経典が使うパーリ語→×
古層の経典、アーガマの中で現存しているのは分別説部が保有しているパーリ語写本と、
様々な部派の保持していたアーガマの漢訳(全てがサンスクリット語から訳されたかどうかははっきりしない)、サンスクリット写本のチベット語訳である。 >>13
>釈迦の直説に近い本当の仏説はスッタ二パータの4章から15章。
「本当の仏説」という動かしがたい明確な根拠はあるのかな?
また、「釈迦直説に近い経典」とはどう言う根拠から?
直説を聞いたことも無い人間がなぜ自説に近いと判断できるの?
パーリ語が正しいと言う理由は?
サンスクリット語で書かれているから仏説ではないという根拠は?
経典の記述形式で「短詩形式」が仏説で「散文形式」は仏説では無いという根拠は?
いずれも全く根拠の裏付けが無い。
ただ、経文が古いか新しいかという単純な理由で独善的な判断をしていいものかな?
もちろん、訳経僧や中国に伝来する過程で多少創作された部分もあるかもしれないが、だからと言って極めて単純な理由で大乗仏教を非仏説と断じるのは如何なものかなと思う。
経典の内容が、「仏の出世の本懐(万人成仏と衆生救済)」と言う仏の誓願に照らし考察した場合、仏道修行の実践としての現実味、論理的な整合性から
よほど、仏教からかけ離れた無い限り、一切経を仏教と認めて、その高低浅深を検証すべきだと思う。 >>17
又羅什、天台、日蓮かあ!食傷というかうんざりというか 釈迦在世時の古代インドでは聖なる言葉を記録するのはタブーで短詩形式で口伝で伝えた。それがやがて記録されるようになり更に散文の経典が釈迦に仮託して作成されるようになる パーリ語は釈迦が使ったマガダ語と極めて近い言語とされ文語であったサンスクリットよりより釈迦が普段使った言葉に近い。 説一切有部の文献は北西インドの方言で書かれていたし、
法華経を代表とする初期大乗仏教も何語で書かれていたのか或いは口伝されていたのかは不明。
4世紀にグプタ朝がサンスクリット語を公用語としてから仏典はサンスクリット語に書き換えられ継承されるようになった。
当時隆盛を迎えていた大乗仏教の仏典もこの時からサンスクリット語に統一される。
パーリ語仏典の方はグプタ朝の支配が及ばないセイロン島で継承されたのでサンスクリット語に変換はされなかった。
http://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E7%B5%8C%E5%85%B8 言語が地域や時代の変遷で変わるであろう事は何の不思議でも無い。
「釈迦が普段使った言葉に近い。」から正しく、そうで無いのであれば、非仏説というのは
かなり強引な結論の持って行き方ではないだろうか? >>22法華経が釈迦が説いた仏説そのものとするより相当確度が高い。 >>21
現代仏教学の成果を相対化する事で自分の信仰を正当化するのは進化論を否定してcd説を唱えるキリスト教原理主義者と同じ手法だよ。 >>25
>>21は歴史的史実としての最有力説を書いてるだけだよ
その説が間違いというならどう間違ってるかそして真の歴史はどうだったのか貴方が書かないとね 余談ですが、法蓮のいちかは他より高い金とって依頼した結果はほとんどださない。しかもだいぶ前から病気で結果を出してもいないのに出したと言うきちがい妄想にやられ
勝手に言ってるだけ。要するに、タクシーで新宿にいってくれというやつを勝手に渋谷にいき正当化してごまかしてくるようなモン。
こんな所へ行ってはいけない。お金を病気の患者に恵んでるというよりはドブにすてるようなもん。苦情、弁償取る以外行くべきではない。
会社ぐるみでやってるサギはただのひとりよがりのキチガイなので、少なくとも完全ににそれらが直り用を成せるまでは関わらない方が無難 >>25
言ってる意味がよく分からないのですが、結果が全てでしょ。
宗教やって不幸になったら意味ないし。本末転倒だよ。
宗教は人々の幸福の為にある、。不幸になる為じゃない。
不幸なのに「俺は幸せだ!」と言ったところで何になると言うのか?空しいだけだ。
病気の悩み、経済的な悩み、家庭の悩み、会社での悩み、人間は生きている以上様々な悩みをもって生きている。
そうした悩みに負けること無く、すべて乗り越えていける自分を作り上げることが、仏道修行の根本です。
仏ですら悩みはある。悩みが無い仏なんてインチキです。
悩みが無くなるのでは無く、堂々とそれを乗り越えられる自分を作る!これが仏法なんです。 万象差別の相対世界に泥(なず)んで
生死流転の難を求むれば
真理を離るることはなはだ遠く
たとえば大空と大地の如し
空華、水泡の観察戯論を捨てて
一切衆生に慈悲と救済を与えんとすべし >>28
何だかなあ。姻族に学会幹部で公明党の国会議員した人いたが。表裏激しくて親族総スカン!所詮はなあ >>24
>相当確度が高い。
仏法は確率の問題では無い!
>歴史的史実としての最有力説を書いてるだけだよ。
所詮、どんな学者力説しようとも、所詮、推測の域をでない!
>その説が間違いというならどう間違ってる
間違いとは言わない、但し、正しいとも言えない!そういう事だよ。
何度も言うようだが、理証、現証がどうかがすべてだよ。
人間は、死んだ後のことなど分からない。その経典が正しいかどうかは、
経文通り実践して、実際に経文通りの結果が出るかどうかで判断すれば良い!
もし経文通りの結果が出れば、それは、もはや推測云々の問題では無くなる。
これほど、ハッキリした証明は無い。 >>31
学会は嫌な思いして辞めた人結構いるぞ。本家のおばさんも何もいい事なかったと言ってたし。学会幹部の義兄の叔父なんか嫌いで軽蔑してたし飲み屋のおばさんにも姑が学会で自分も入らされて嫌な思い出しかないと言ってた。 >>31
後あの折伏とか辞めろよ。仏教しててついでに日蓮も結構読んでると言うと鬱陶しく食い下がって来るやつ。家の宗派系列の大学でもトラブル起こしたし。厄介者なんだよ 醜い世界も、素晴らしい世界も人間が創造したものだ
神が用意してくれたといってもいい
時間がかかっても自由に「素晴らしいと思うもの」を元に生きるほうがいいと思うぞ
特定の宗教や宗教団体に拘るのも執着であろう
自由の輝きを頼りに生きるほうがいいだろう
自分は、犯罪おかしそうなんですってレベルだって人はこの限りではない >>1
悪い実を結ぶよい木はないし、よい実を結ぶ悪い木もない。
木のよしあしは、その実を見ればわかる。
人のよしあしは、その言葉を見ればわかる。
つまり、人の語る言葉は、その人の心からあふれ出たものだ。
(新約聖書) >>35
ひどいよな
異民族死ね死ね言ってるヤハウェさんとかどんな育てられかたしたのやら >>35
もしキリストが生きていたら「異民族死ね死ね」なんて言わないでしょ。w
それは、弟子が教えを間違って解釈しているだけだ。
仏も神も、人々を差別しない。皆わが子と見るからです。
特定の優れた人間だけの幸福なんて考えるわけが無い。
人間の親にしても、優秀な子より、そうでない子のほうを心配するし、より慈悲心が深くなる事が当然であるように
少なくとも仏法では不良で愚かであっても見捨てるような事はしないのです。
その意味で、現実の苦悩から目を背け、他者を省みない独善的増上慢の二乗の成仏を釈迦が断じて認めなかったことは、一般論としてまさに納得のいくことです。
ゆえに、大乗仏教の菩薩行こそ仏の誓願に叶った仏道修行だと言えます。 >>37
旧約聖書くらい読めよ❗異民族死ね死ねだから どうしてお互いの欠点探して、傷つけ合ってばかりいるんだよ
百の罵声を浴びせるよりも、
好きなモンひとつ胸張って言ったほうがずっとカッコイイだろ!
なにが嫌いかより、
なにが好きかで自分を語れよ!!! >>39
それは創価学会の折伏なんかで自分の子供自分から愛着してた信仰を悪し様に言われた事の無い人間の言い分。 >>39
宗教は好きか嫌いか、カッコイイか否かで選ぶものではないと思う。
現代人のように、ほとんど信仰心は無く慣習で冠婚葬祭に利用するだけなら、それも良いが
まじめに信仰心があり宗教をするのであれば、それは生活に大きく影響を及ぼすことになる。
だから、経典の高低浅深を明確にする必要があるのです。
勘違いしてもらっては困りますが、仏法の基本は、宗教や思想の違いにかかわらず一切衆生は皆仏の生命を持っている!とした考えであり
理論上の尊き仏子であります。ゆえに人間主義、生命尊厳主義に立脚しております。
教えの誤りを正すのであって、宗教をされている方々を差別云々するものではありません。
「宗教はどれでも良いじゃないか」的な理屈は確かに当たり障りがなく、耳障りの良い話ではありますが
少なくとも仏教に於いては正しい教えを明確にする必要があります。
そうでなければ、逆に無慈悲だからです。
間違った宗教をして不幸になるのを黙って見ていたら、それこそ、仏の教えに反します。
当然反発はあるでしょうね。しかし、それは百も承知の上です。 >>41
だから信者以外ほとんどの日本人は学会は間違った宗教だと思ってるから。 >>41
後学会やってかえって不幸になった人も結構いるし。それが学会の結果だろ 日蓮系は中途半端だし。デリダやウィトゲンシュタインやハイデガーといった現代思想と比肩される深い思想を持った禅の深みもない。
真宗の妙好人のように字も読めなくても念仏信心で絶対的幸福な境涯に至る事も事実上ない
密教の宇宙生命的人生肯定主義をパクる
そもそも緒宗を平和的に融合させる法華経の本来の趣旨も日蓮系の学会はねじ曲げて誤った教えを強弁する。訳のわからない事の一念三千とか
大体日蓮の迫害と島流しの不幸連続の人生どこが良い? 日蓮の人生が酷いって?
それを言うならウィトゲンシュタインの人生もそうとう酷いし、ハイデガーに至ってはナチスに協力して、大戦後に総スカンになった奴だぞ?
カントもサルトルも晩年はボケちゃったし、ニーチェは狂ったし、イエスは磔にされ、坂本竜馬は暗殺された
マルクスは一生不遇、ソクラテスは毒で自殺させられ、大作はキチガイ半島人だ >>45
そんなこと知ってる❗又学会は小理屈つけてくるから敢えて書いた。 高低なんてどうでもいいよ誰が言ってるかじゃなくて何を言ってるかが重要
何の宗教の経典だろうと自分で考えていいと思ったなら自分の中に取り入れるべき
本当の仏説かどうかなんて本当はどうでもいいこと
ただ明らかな偽者なのに本物だと言い張るのはこっけいだよ >>47
それは、宗教を「心の修養、気休め」程度に考えている人が言うことであって、宗教を真剣に学んでいる人の言うことでは無いと思う。 仏家においては教の殊劣を論ぜず。法の浅深を選ばず。ただその人の修行の真偽を知るべし。
道元 道元
日本における曹洞宗(禅宗)の開祖
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
日蓮大聖人 禅宗を破折して曰く
禅宗の法門は、あるいは「教外別伝・不立文字」といい、あるいは「仏祖不伝」といい、「修多羅の教は月をさす指のようなものである」ともいい、
あるいは「即身即仏」ともいって、文字を立てず、仏祖にもよらず、教法を修学せず、画像木像をも信用せずということを言っている。
反詰していう。仏祖不伝というならば、どうしてインドの二十八祖・中国の六祖といって相伝したのか。
そのうえ、迦葉尊者はどうして一枝の花房を釈尊から授けられて、微笑して心の一法を霊山で伝えたと自称するのか。
また、祖師は無用というならばどうして達磨大師を本尊とするのか。
また、修多羅の法が無用であるなら、どうして朝夕の所作に真言陀羅尼を読むのか。
どうして首楞厳経・金剛経・円覚経等をあるいはは談じ、あるいは読誦するのか。
また、仏・菩薩を信用しないというならば、どうして南無三宝と行住坐臥に唱えるのか。このようにいって責めるべきである。
>仏家においては教の殊劣を論ぜず。
突っ込みどころ満載なので、そう言う以外に無いのであろう。
そもそも、そんな事を説いた釈迦の教えは無い。 >>52
あのなあ。現代言語学で問題になってる言葉の限界を指摘したのが禅なの。全くずれた文字面の視点からしか物言わない! >>40
そんな過去のことにネチネチ執着しているのは、原始仏教の教えに反しているのでは? ただひたすら掃除し続けただけで阿羅漢になった周利槃特という
弟子も実際にいたのだから
悟りにはお経すらいらんわな >>54
原始仏教ではない。執着してしまう弱さを持った人の為の教え >>55
それならば、近所の公園を生涯掃除する毎日を送れば仏に成るであろう。
頑張り給え!
「レレレのおじさん」の振る舞いこそ成仏得道の鍵となるのだろうな。w
釈迦在世に於いては、当然経文など無いわけだが、釈尊という師匠がおられた。
師匠亡き後は経文によって仏道修行する以外ないだろう。
末法荒凡夫の愚かな衆生が、学ぶべき経文も、教わるべき師匠網無くて、何万年瞑想に更けようとも仏の悟りは得られんよ。 >>1
そんな言葉遣いをするのは、小乗仏教の教えに反しているのでは?
八正道とか キリスト教徒ってキチガイだよなって書いたやつは100%ユダヤ教徒だとでも言うのか >>57
「釈尊の因行果徳の二法は妙法連華経の五字に具足す、我らこの五字を受持すれば彼の因果の功徳を譲り与え給う」
と日蓮が観心本尊抄で言ってたから
妙法蓮華経の五字を受持さえすれば経典は読まなくていいんだよ >>61
おーー!よく勉強したね 80点!
ここで言う法華経とは御本仏日蓮大聖人の顕された末法の法華経たる「南無妙法蓮華経」を指します。
釈尊の説いた一切の教典の真髄なんだよ。具体的には法華経如来寿量品の文底に秘された「事の一念三千」をいう。
「彼の因果の功徳を譲り与え給う」とは釈迦仏法に於ける歴劫修行をしなくとも、
南無妙法蓮華経という究極の妙法を受持し唱えることによって、直ちに同じ功徳を得ることが出来るという意味なんだよ。
日蓮大聖人 曰く
「此の経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければ仏に成り候ぞ、
仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、
如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」と仰せだ。
また大聖人の仏法は「折伏」が根本の修行となる、その為に釈迦仏法は必要となり、
また、南無妙法蓮華経を深く理解するためにも必要となる。
よって、「南無妙法蓮華経」を根本にすることによって、他の経典も活きて来るんだよ。 日蓮宗という教えがあるわけではないのです。
仏の教えを、日蓮という人間が生きた時代に、その肉体を通して、その一端を語り、行じた、ということに過ぎないのです。
その私を、二手、三手に分かれて、信じて言ってくださるのは、結構だけれども、日蓮宗と日蓮とは、何の関係もないと言っておきます。 日蓮の思想、行動は、世尊、仏の弟子としての行動であります。
日蓮の教えというものがあって、それが、何派にも分かれて、議論されるようなことでは困るのです。そのようなものではありません。
日蓮は、ただの行者であります。仏の教えの一部を行じたに過ぎないのです。その人間の一生を捕まえて、或いは自分が、何とか宗だ、何とか宗だ、何とか山系だと言って、争ってくれるのは結構だけれども、私自身が創ったものなどないのです。 しかし、一つだけ言っておかねばならないことは、今、日蓮宗を唱えている人たちが、みんな駄目だという訳ではありません。立派な人たちもおります。
ただ、時代を変えるような、立派な人たちは、恐らく少ないでしょう。 日蓮は、他宗の排撃をやりました。
それは、自らの理想を実現せんと、一刻も早く実現せんという焦りの思いから発しているのであって、決して悪意はなかったつもりではありますけれども、結果として多数の敵を持ちました。
そして本来ならば、もっと多くの人たちに、説くことができた教えを説けなかったことが多かった。 それはそうでしょう。島流しに遭い、或いは、いろいろな法難を受けて、なかなかすべての人に法は説けないのです。
いたずらに日蓮は敵を造った。あなたは、ご存知でしょう、「良観」という人であります。その者に対し、戦いを挑んだりしました。その心の中には、私の名誉欲があったことは、否めません。これも反省すべきことであります。 本当に良い教えであるならば、他のものの批判をせずとも、良いものは人から人へと、伝わっていくものです。
批判しなければ良いものであるということが分からないような教えならば、その教えもまた、不完全なものであるということです。 >>62
事の一念三千が経文のどこにある?結局また捏造だろ 真空妙有が大乗仏教の精髄。往相においては空。還相においては妙有。表層意識は普通の分説。天台の言葉で言えば仮。
往相は天台の言葉で言えば空を観ずる無意識への旅路
無意識の源底に自他無分節の純粋経験領域がある。そこでは全ての物を分節する執着の対象たる本質が脱落する
還相はそこから表層意識に帰還し本質なきままに一切を肯定する天台の言葉で言えば中が実現する。 >>65
嫌「立派な人たち」はいるよ。日本ファシズムの父で死刑になった北一輝とか満州事変起こして日本を戦争に巻き込んだ石原かんじとか血盟団事件でテロ図った井上日召とか。
皆日蓮と法華経の熱心な信者で南無妙法蓮華経と唱えるのを欠かさなかった「立派な人たち」だよ なんで頭完全にいかれたキチガイって小賢しい専門用語並べて何か語った気になってるの? 日蓮が勝手に主張している日蓮教にすぎないんだよなあ >>63-68
全然ダメ!ハイ20点。 根本から、ぜんぜん分かっていない。
大聖人の仏法は、宗派拡大のための教えでは無い。(そんな小さな目的の為では無い。)
間違った教えを正し、一切衆生が地獄に堕ちるのを救わんが為に立宗宣言をされたのです。
>批判しなければ良い
間違った教えを信じ不幸になる人を見て、その間違いを正し、正しい道を教えてあげる事がいけないと言うのなら
溺れる子どもをみて、「私には関係ない」といって通りすぎるようなものである。
君らはISISやオーム教、はたまた、詐欺のようなものを見ても無関心で批判しないのだろうか?
このような格言がある。
『敵を恐れるな、奴等は君を殺すのが関の山だ。友を恐れるな、奴等は君を裏切るのが関の山だ。
無関心な人々を恐れよ、奴らは殺しも裏切りもしない。
だが、奴らの沈黙という承認があればこそ、この世には虐殺と裏切りが横行するのだ。』
<ヤセンスキイ>
他者に無関心なのはある意味、小乗教的、自利的独善思想だ。
>>72
ハイ!正解! 95点
但し、キチガイとは言わない。
大抵、自分で言っていることが理解出来てない。
単なる自己満足の世界に陶酔しているだけだ。 >>75
で正しいのは学会のみで日蓮正宗や日蓮宗すら間違えてるんだよな。 その通り!
創価学会は、日蓮正宗や日蓮宗とは今や無縁の宗教団体だよ。
日蓮大聖人の仏法を根本とした平和運動団体と言っても良い。 言葉・持説に酔っているだけ。
日蓮さんも今の世に生まれたら、法華経などに
目もくれなかっただろうね。
仏説も何も、畢竟、煩悩を滅しなさい。
これが、仏教と言われた目的で般涅槃です。
平和運動も個人の生活向上も、何も説いてない。
これらすべて煩悩であり漏尽解脱に役立たぬから。 桃太郎も
大乗はウンコ=桃太郎ザムライ
とキャラが変わらないな ただひたすら無心に掃除をするべき
「塵を払うて垢を除かん」
ここにお釈迦さまの教えの全てが入っている
それだけで悟りに到達できる
周利槃特という阿羅漢が手本
学校で児童・生徒が自分の教室の掃除を自らするのは
アジアだけだそうだ
欧米では掃除夫が行う
掃除のたいせつさを理解することはお釈迦さまの教えを理解すること 釈迦仏教が説いたのは個人がいかに普通名詞としての「悟った人」である仏陀になるかであって社会や平和云々とかは言わなかったはず。
サンガというコミューン単位を越えて仏教が広がるとは多分生前思いもしなかったろうね。 平和運動なら墨子の「兼愛非攻」の方がはっきりしてるし社会での人倫の道なら孔子の方がはっきりしてる。
仏教の本領は人の心の救いだろうな 自分の祖国の釈迦族のシャーキャ国がコーサラ国に攻め滅ぼされても
「諸行無常」と何もされなかったお釈迦さまが
世界平和を願うとかありえんわな
日蓮は田舎生まれの純粋まっすぐ君 393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人は善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。
純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。
世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて──。
http://nehan.net/buddha-dharma/zaike-saavaka.htm >お釈迦さまが世界平和を願うとかありえんわな
呆れ果てて、言葉が出ない!
君たちの中には、これに反論できる智者はいないのかね?
どんだけ、仏法を歪んで理解しているんだろうかと思う。
これが五濁悪世の末法なんだろうな。釈迦の予言した通りである。 「非難、暴言をしない。」「怒り悩まさない」「高ぶらない」が仏陀の教えなんですね。理解しました。 釈迦牟尼は、害心を捨てよと説く。
己が嫌なこと苦しいことを他人に行わない。
その行い(業)は、必ず自分に返って来る
と言うシンプルな真実です。
願って平和など得られないのは、水に沈んだ
石を浮かべと祈ると同じ愚行ですからね。
出来ぬことは仏の思想に非ず説かれていない。
教えは、いたってシンプルなれど行いは難し。 >>85
お釈迦さまは、涅槃のためには全て「捨てよ」と言われたわけで
信仰も捨てる
地位も名誉も家族も財産も全て捨てる
この世への執着も、来世・極楽往生への願い、地獄を恐れる心も
全て捨てるわけやのに
この世の平和なんぞ、どーでもええことやん お釈迦さまは
釈迦族の王子という地位も、王国の王子の責務も
妻のヤショーダラー妃も息子のラーフラも全て捨てた
レリゴーを歌いながら閉じこもった
アナと雪の女王のエルザみたいなもん
「少しも寒くないわ」 お釈迦さまが「平和」とか「国家」とかに価値があると思てたのなら
祖国のシャーキヤ国の皇太子として
父君・浄飯王から譲位を受けて、小国である祖国をどうにかこうにか
周囲の大国のマガダ国やコーサラ国に滅ぼされないように
理不尽な大手・元請けに苦しめられる中小企業の社長よろしく、
頭が禿げるほど苦しみながら外交・内政に苦労し続けたやろうに 釈迦牟尼は、祈願や予言などを排している。
予言や儀式の類いで生活することは、
邪しまなることと強く批判した。
同様に個人崇拝も結果は道を外す元になると。
見よ奇跡を売る邪しまなる商売宗教の愚なるを。
確かに五濁悪世の表現もおかしくは無いが、
それすべて煩悩のなせるわざ。
ゆえに漏尽解脱を奨励したに過ぎない。
それは一重に己が身口意の不浄を自己観察して、
更に正し続ける行為を聖道という修業になるのです。
地涌菩薩を頼り依処し、これ等架空仏を信じるなら、
ウルトラマンが空を飛んで来るのを待つに等しい。 釈迦を過大評価して贔屓の引き倒しになるのもいけない。単に普通名詞としての「悟った人」でしかなかった仏陀が何やら難解でモンスターじみた物に解釈されたのも問題かもね 日本は自然に対する崇敬は神道というあり方で信仰し人倫の道は儒教に求めた。
仏教は心のより所として機能してきた。
こうして信仰形態を分散してきた事が大きな宗教戦争がなかった要因だろうし先祖たちの智恵だろうね。
唯一絶対を掲げると「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」を掲げながら宗教戦争に陥ったキリスト教圏みたいになったろうね。
既に平和はキリスト教で説かれたけどどの解釈や教義が正しいかで戦争になった。
人間はそういう生き物 >>93
日本も何回も大きい宗教戦争あったやん
5万人以上死んだバテレンの島原の乱をおいといても
天文法華の乱とか京の都が丸焼けでんがな
信長を最も苦しみ続けたのは石山本願寺で
全国で何万人も「根切り」にしたし 法華の乱の日蓮宗も真宗も不思議な事に島原の乱のキリスト教と同じく排他的一神教形態の宗教。
だがそれでも十字軍とかドイツの三分の一の人口が失われた三十年戦争みたいな殲滅戦争には至らなかった 平和というなら反戦平和を一番唱えたのは昔の社会主義者たち。だがその唯一絶対主義故に解釈を巡る争いが起こり分裂粛清を経て現実の社会主義国は軍事大国にもなった。 >>95
天文法華の乱は
京の都が文字通り丸焼けで応仁の乱を上回る災禍
町衆の死者数千
本願寺の門徒衆と信長の戦いは、大名同士のなあなあの戦いやなくて
ガチの殺し合いやったから
めちゃくちゃでんがな >>95
法華の乱で、京の町を焼き払って町衆を殺しまくったのは
比叡山延暦寺の僧兵でっせ >>98
それは宗教の教義の問題じゃなく利権が付き物の組織の問題でしょ。にしても数千とは少ない犠牲 >>99
そんなん言うたら、ヨーロッパの宗教戦争も
全部、教会の利権・カネがらみやん 法華の乱の数千の死者数が小さい言うけど
当時の京の都の人口は上京・下京あわせて10万ほど
およそ1/10のひとが死んでるねんで ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています