タイのブッダダーサ比丘(Buddhadasa Bhikkhu、タイ語ではプッタタートとも)は、
『Handbook for Mankind』という冊子で定についてこんなことを言っています。(英文からの曽我による訳)

「言葉を替えれば、それ(正しい定のあり方)は、働くのに適したものであり、(知るべきものを)まさに知らんとするものである。
これが目指すべき定の程度であって、気づき(念)のない、石のように固まって座る深い定ではない。
このような深い定で座るなら、なにものをも詳しく観察することはできない。
これは(念のない)不注意の状態であり、慧の役には立たない。
(それどころか)深い定は、慧の修行に対する主要な障害のひとつである。内省の修行のためには、まずもっと浅い定のレベルにもどらねばならない。
そうすれば心が得た力を使うことができる。
高度に開発された定も、(完成の境地や目的ではなく)(慧の修行のための)道具に過ぎない。」

​「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、
釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」