☆無我なのか真我なのか☆ [無断転載禁止]©2ch.net
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自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう 宝珠のコテで、最近読んだ本で行き当った。
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稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)
宝珠は伏見稲荷の密教の伝統を受け継いでいるのであった・・・・・。
宝珠は大きい狐。 やっと、宝珠とやり取りできるネタを手にいれた、伏見稲荷。
しかし、野狐の霊が憑いて騙しに来るとか。
伏見稲荷に行ったことはねえが。
伏見稲荷のお山に登る根性が出ねえ笑。
宝珠と、やり取りする付き合い程度だな。 >>459
>そういう知識的なことはある程度知っています。
了解。
>もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが
私は自分なりの見解というものも持っていますが(そして、それをとても大切にしている)、
けれども、大部分においては神智学の特にベイリー著とクレーム著、
そして、クレーム氏の師である覚者から提供された情報をとても信頼しています。
なので特に異なった個人的な見解でない場合には、そのまま学んでいる教えと情報に対して私も同意しているということです。
クレーム氏の師である覚者から提供されたイニシエートたちの進化段階の公表についていえば、
これまで私自身の評価する殆ど想定通りそのままのものばかりが発表されてきたので、これについてはとても信頼しています。
尚、ただし当初において少しだけ面食らったのは空海の進化段階2.0についてでした。
真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。
それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。
>ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、
クレーム氏もごく一部についてですが、あまり評価しない部分を持っていたような気がします。
ただし、アヴァターというのは意図的に不可解なところや未成熟な印象を態と演じている場合などもあるので難しいところです。
そもそも人間の人生における霊的歩みの模範を演じているのがアヴァターですから。
そのために敢えて受肉し公衆の中で生きているということ。
また、仮にもしヨガナンダが五段階のレベルだったとするならば、
仏教の開祖、ゴータマ王子の肉体を通して働かれたシャンパラのブッダの八段階と比較するならば、
そのレベルの違いは歴然です。 >>454
>非二元の教師あたり
これは近年〜現代だとどういう教師たちがいるのでしょう?
さすがに新しめの情報にはちょっと疎いかもしれません。
私がとても強く認めているのはラマナ・マハルシです。
神智学協会が見出した元世界教師の器だったクリシュナムルティは4.0段階でしたね。
私もまだ覚者には至ってないものと見てましたから、これはまさに想定通りの進化段階でした。 >>466-467
ハテ?私のこと?
それとも、狐が加える玉(摩尼宝珠)のことかな?
確かに私のハンドルネームは「マニ宝珠」「チンター・マニ」からきてるが...。
まっ、稲荷には関心ない。
というよりは、むしろ意識的に全く関わらないようにしてる。
参拝もしないし、無視です。 あと...時間とれたら、
本題の栄進さん宛てを投稿します。
栄進さん、宜しくお願いします。 「この人の悟りのレベルは〜の段階」、「あの人の悟りのレベルは〜の段階」 などと言って
いる間は、まだ宗教の本質がわかっていない状態だと言ってよい。
殺人教のオウム真理教では、麻原も弟子達も修行によってステージが上がるなどと馬鹿げたこと
を信じていたことで有名だ。
「無我」 なのであるから悟る主体などは存在しない。
ステージの上下などは存在しようがないのだ。
このスレの宝珠真範とか言う者は
「それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。」
などと子供のようなことを書いている。
時空を超えた世界では神通力など何の価値もないのだ。
神通力うんぬんを言う者は時空を超えた世界を知らないオカルトおたくに過ぎないのである。 >>472
イエス・キリストは第4段階、臨済宗の栄西で2.2段階だったとされています。 マニ宝珠は「世界」そのもの、お釈迦様の「見明星」もこれを指しているんでしょう
それなら、神通力といった超能力どころか
「能力」 それ自体が認められないことは自明なのでは? >>462
アートマンは主体でもない、とも言うとった。
ワシのアートマン探究はここどまりや(´;ω;`)
>>471
ゴクリ(´・ω・`)こちらこそ宜しくです。待ってます。 余談ですが、鶴太郎は最近ヨガにはまってるらしいが、シヴァ(不動明王)は絶対唱えてはいけない。
こいつは実は何万年も人類をだましてきてます。嫉妬とひがみの因縁が切れておらずわかりやすく
いえばオーム心理教と同じです。記憶や思いも都合いいように変えられてしまいます。実際には
そうゆう不徳じゃない人が不正に障害者にされたり借金地獄にされたりしています。
たけしもいつかテレビで見たが密教の寺を興味もってたずねていたが不動は絶対
お参りしてはいけません。また、密教の寺のほうももう不動は悪にいってしまったので曼荼羅から
はずすべきです。APPLEのジョブズは何も知らずに禅宗にいったのでそのとき不動にまきこまれ
癌になって死亡したのではないかとも思われる。 >>472
禅がさとりに段階をつけてるのと同じようなもんですよ >>477
全く違う。禅は超能力などには何の価値も置いていない。 >真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。
そう書く宝珠は、やはり江戸期伏見稲荷密教。確定。 >>480
そこが違うということは根本が違うということ。次元が違うということです。 >>481
>「この人の悟りのレベルは〜の段階」、「あの人の悟りのレベルは〜の段階」 などと言って
>いる間は、まだ宗教の本質がわかっていない状態だと言ってよい。
>「無我」 なのであるから悟る主体などは存在しない。
>ステージの上下などは存在しようがないのだ。
見性と印可の段階の違いは? >>482
見性・印可は臨済宗だけにあるもので、曹洞宗には存在しない。
見性・印可は此岸における方便であって、彼岸にはそんなものはない。
悟る主体などは存在しないのであるから段階などは本来あり得ないのじゃ。 栄進さん今、執筆中です。
有る程度の量になってから、随時、分割して何回かに分けて連投したいと思います。
やはり数日の時間を要するので、どうか気長に待ってもらえれば助かります。
雑音は今はなるべく無視放置の方向ですが、
その他の気になったことについては時折りレスを附けます。
>>472
>イエス・キリストは第4段階、
これについては少し補足をさせてもらいます。
イニシエート、イエスのイエス個人としての最終的な進化段階は確かに4.0でした。
しかし、イエスのバプテスマ以降〜十字架死までの3年間は、
キリストであるMaitreya(カタカナ表記は規制対象にて)からのオーバーシャドゥ
(高次の意識がより低位の存在の手足を自分のものとして使用する)でした。
なので、オーバーシャドゥにあったイエス・キリストとしての教えはMaitreyaからのものです。
ハイアラキー(人類の進化に関わる覚者方で形成されるグループ)の頂点に立つMaitreyaの進化段階は「第七段階」とされています。
つまり、福音書のイエスの教えは7段階イニトエートからのものです。 >>484
未来仏の弥勒菩薩(まいたれーや)とはキリスト教のキリストと同じなのですか? <時空と個人性を超えた世界> を知れば、「悟りの段階(ステージ)」 などは妄想で
あることがわかるようになります。
段階(ステージ)があると思うのは <時空と個人性を超えた世界> を知らない者だけ
なのです。
お釈迦様も達磨大師も悟りの段階などは方便としてしか語っていません。未熟な弟子達が
その方便を真実だと思い込んで一部の経典に書いていますが、それらは 「此岸」 から見た
妄想に過ぎないもので、「彼岸」 ではそのような妄想は消えてしまいます。
人の本体に個別性があると思う 「無明」 の状態にある者だけが悟りに段階があるという
妄想を抱いてしまうのです。
それは、「着ている衣装の生地やデザインが立派だから、その人のステージは高い」 と思う
のと同じように愚かなことなのです。
宝珠真範という男は、まだ 「無明」 の中で夢を見ている人間なのです。 神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。
ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。
だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。
ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。
神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。
無性のブラフマンを知るためには自我を完全に滅却する必要があり、普通の人間には難しい。
一方、有形で人格を持つ神の方は親しみやすい。
人の個性は様々であるから、人と神との繋がりもまた様々である。
神と繋がるための具体的な手段としては宗教儀式や偶像崇拝がある。
迷信として非難される偶像崇拝もラーマクリシュナは「真珠を育成するために必要な母貝」として称揚する。
それによって神を愛せるならば偶像大いに結構とするのである。」 >>488
彼岸からみた妄想という表現すごくよくわかります。
体験すると、本当にハッとしますね。 >>490
間違えました。彼岸からみると妄想だったとわかる、でした。 >>484
はい。
秘教徒には知られている事実です。
これまで長い間、キリスト教と仏教における類似性についての指摘や、
イエスの“謎の空白期間”(12歳のときにエルサレムでの議論をした後、
30歳で洗礼を受けるまでの謎の空白期間)にイエスは仏教を学んだとか、
イエスがインド〜カシミール地方に出現していた記録が現地に残されている・・・等々として、
噂され続けてきたことも頷けるものがあるということです。
そして、最新神智学のもたらす情報は、
未来仏Maitreyaは、1977年以降〜すでに肉体にて現代社会の中に入られているというもの。
彼は世界を動かすためには世界最大宗教であるキリスト教徒の影響を考慮し、
御自身を宗教的にはキリストとしてのイメージを重視されます(聖書三大宗教への影響)。
しかしもちろん、仏教徒に影響を及ぼされる際には弥勒仏として御自身を顕されます。
スレ違いにて、ここでは詳細は省きます。
神智学の説く、“Maitreyaと世界五大宗教の関係”
http://houjugusya.web.fc2.com/world5.htm
キリストの再来と奇跡の水(94年頃放映/日本テレビ『スーパーテレビ』)
http://www.youtube.com/watch?v=ajp5p0b0-6E
シリア騒乱の中で“白い天使”の出現としてメディアに現地報道された傷ついた人を助け出すMaitreyaの姿
https://www.youtube.com/watch?v=sSGVtJOeXAo 施設に収容されている宗教性妄想患者が作成した文章の例。
>俺は、最近裏工作的に牧師の霊的指導を笑、
>当然そういう風に魅せずにな笑。
>世話になっている坊主に俺は、自分の修行が
>進まんのにクリスチャンの世話ばかりしてい
>ると笑。
>今日は、さっき書いたが、修行マニアの書い
>た本(どちらかというと仏教、神道系など、
>神秘主義修行の内容が多いのに笑)に、世話
>になっている坊主の公案修行、鈴なのど本を
>書いてあるのを読んだ。
>彼は本物だと知っていたが、きちんとした出
>版社に載るようになったとは笑。 >ゴーダマ・シッダルタによると「我は無なり」
>と言うことから「色即是空」おける「空」と
>考えられている。
>ブラフマンを仏教では「色即是空」おける
>「色」と考えられている。
ブログ主は、アートマン=空、ブラフマン=色と捉えている。
捉え様がないものを言語で仮設したものが空であり、また、仏陀は無(非)我を説いた。 > 悟りを得た人のみが見ることのできる
> ニルバーナは実際には場所だと勘違い
> している人が多いが正確には「異界」
> のことでこの世に有りながら垣間見る
> 事の出来るもの、と考える事ができる。
オカルトだね。 【聖母マリア出現】ファティマ第三の予言が明らかになった!!【SPEC】
http://fate.2ch.net/test/read.cgi/spiritual/1503930220/
151 THISMAN ◆rfvLewovkA
でも、考えてみてよ。死後の世界に帰って来る人達が
いつまでも居ないことには、説教も始められないのよ。
あの世で待っている人達がいつまでも宗教を終わらせないよう、
あの世で待っている人達がいつまでも説教を終わらせないよう、
この世には記憶がない状態で人が生まれてくるんだよ。
毎年、生まれる赤ん坊がもし、日本で二人位しか居なかったら、
あの世の宗教家も、どうやって喧嘩をさせたらよいか解らない位だよ。
傍にいて、「早く喧嘩をしろ、あとで喧嘩をしない平和な気持ちを教えてやるから」と
云っても、なかなか喧嘩をしてくれないというか、二人を出逢わせる為に大変だろうね。 中国で生まれた禅宗には、先に触れた老荘思想の影響か、梵我一如化の傾向を感じます。
仏性(ぶっしょう)という考えは、「一切有情悉有仏性」という表現で示されるように「仏となるべき本性」であり、
「わたしの中にある肯定すべき本来の私」、すなわちアートマンとほとんど同意ですが、大乗仏教では広く見られ、禅宗も例外ではありません。
もっと分かりやすい事例を挙げると、唐の時代の有名な禅僧、臨済義玄は、『臨済録』に「赤肉団(心臓)の上に一無位の真人がいる」「随処に主となれば、立処皆な真なり」という言葉を残しています。
一無為の真人とは、アートマンそのものですし、「随処に主となる」というのも、第一原因たる主体であろうとすることでしょうし、自由不羈のアートマンであろうとすることだと思います。
釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
http://mujou-muga-engi.com/honron/shitai/dou/jou/ >>500
まだこんな変な論文引き合いに出してくるとはw
松本さんは正師に参じて見性を許された方じゃ無いでしょw
体験無しに字面だけ追って憶測で梵我一如云々と決めつけるならなんでもありだわwww >>501(続き)
>>500
> 一無為の真人とは、アートマンそのものですし、
いや、違うってw、一無「位」だよwww
しいて言うなら、アートマンは否定によってしか表せない「有」位の真人、臨済のそれは「無」位なw
龍樹の言う四句否定と変わらんよ。
公案貰う時「有に非ず、無に非ず」と言われるからw >>502(続き)
>>500
> 「随処に主となる」というのも、第一原因たる
> 主体であろうとすることでしょうし、自由不羈
> のアートマンであろうとすることだと思います。
いや、これも違うわw
真空妙有(用)、無位の真人が自由な働きをなすが、肘外に曲がらずで、不自由ままに自由なんですわ。 禅に対する体験や知識が無いのに、語録の字面だけ追ってたら、例えば、「殺仏、殺祖」とかどーなるの?
「富士山をここに呼んでこい」とかなw
アホ過ぎる。 >>500
>・・・・・。釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
何の宗教体験もなく、単に言葉の上だけで仏教を学んでいる愚か者だけがそのような
ことを考えてしまうのです。
宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。
それがわかるから、原始仏教が大乗仏教に発展していった理由も理解できるのです。
体験のない者は言葉で表わされた世界が真実だと勘違いしてしまう為に、表現の違い
に惑わされて 「原始仏教と大乗仏教は違う」、「この教えとあの教えは違う」などと
考えてしまうのです。
宗教体験のない者が書いた仏教書ほど無意味で有害な書物はないと言ってよいでしょう。 最晩年の釈尊は、悪魔から「もう死ぬべき時だ」と誘われた時にこのように答えます。
「わが修行僧であるわが弟子たちが、・・・みずから知ったことおよび師からおしえられたことをたもって解説し、
説明し、知らしめ、確立し、開明し、分析し、闡明し、
異論が起こったときには、道理によってそれをよく説き伏せて、教えを反駁し得ないものとして説くようにならないならば、その間は、わたしは亡くなりはしないであろう。」
(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳 岩波文庫)
この言葉も、無念無想の無分別知とは正反対の、言葉によって分析し合理的論理的に説明し伝えるという姿勢をはっきりと示しています。
禅宗の不立文字の伝統とは正反対です。 >>506
こりゃ又禅に対する体験や知識が無いのに不立文字を騙ってるねぇw
真理そのものは言葉で表現出来ない旨のスタンスは禅だけでなく仏教全般(一部除く)でしょうがw
求道者のあり方や著作物については、むしろ禅宗が圧倒的に多いと思うけど?
また、公案を通して理や事を明らかにしたり、漢詩や俳句、著作物にて合理的、論理的に説明しているのも、禅宗に多いと思うけど?
あんた、実参もせんで想像で禅宗を語るんだったらなんでもありだわwwww
話にならんわw タイのブッダダーサ比丘(Buddhadasa Bhikkhu、タイ語ではプッタタートとも)は、
『Handbook for Mankind』という冊子で定についてこんなことを言っています。(英文からの曽我による訳)
「言葉を替えれば、それ(正しい定のあり方)は、働くのに適したものであり、(知るべきものを)まさに知らんとするものである。
これが目指すべき定の程度であって、気づき(念)のない、石のように固まって座る深い定ではない。
このような深い定で座るなら、なにものをも詳しく観察することはできない。
これは(念のない)不注意の状態であり、慧の役には立たない。
(それどころか)深い定は、慧の修行に対する主要な障害のひとつである。内省の修行のためには、まずもっと浅い定のレベルにもどらねばならない。
そうすれば心が得た力を使うことができる。
高度に開発された定も、(完成の境地や目的ではなく)(慧の修行のための)道具に過ぎない。」
「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、
釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」 >>508
はいはいw
禅宗でも同じですからw
>「深い定によってもたらされる幸福感や安らぎあるいは無分別を、完全な苦の滅尽であるとする間違った理解は、釈尊の時代にも多くみられたし、現代においても依然として喧伝されている。」
禅宗でもそれは魔境とされてますからw あー、禅宗の祖師方の言葉は劇薬みたいなもんもありますから、禅に対する体験や知識無しに解釈すると、野狐って言葉もあるように、変な方向に行くかもねw お釈迦様は
真実は言葉では表現できない
なんてこと言ったの? >>511
吹いたwww
「真実と真理は全く違う」などと、余りにも当たり前過ぎた事は、お釈迦様もいちいち言わんかったろうねw 真理そのものは言葉で表現出来ない
↓
真実は言葉では表現できない
この二つの文章は同じか、違うか?
仏教云々以前に、そこから考察してみようね^_^ >>505
>宗教体験があれば、真実の世界は決して言葉では表わせないもので、全ての表現は
>それを読む者を真実の世界に引き入れる為の方便に過ぎないことがわかるのです。 宗教体験をして分かったこと。
うんこは口からは出てこない。 偉大なジャンキー様に皆の衆、ひざまずくのじゃーーー笑。
68 : ジャンキー大山2017/01/06(金) 05:51:16.64 ID:wfppEgVn
一度でも良いから自殺する位苦しんで座り抜いて来いや?
解って大歓喜を味わってみろや?
涙が止まらなかったぞ?
笑いが止まらなかったぞ?
悟りを舐めてるわ、マジで。
華厳経の世界をリアルで体験して来いや?
一念三千の世界をリアルで体感して来いや?
何の苦労もなしに何が悟っただ、ただの異常心理か嘘だろ? >>519
それはポッたんという覚者を騙る紛い物に対して書いた文章を、でおーという、これまた覚者を騙る紛い物が、悪意を持って一部抜粋して何百回もコピペしているもんです。 真理って言葉を語る人間でまともな奴を見たことがない 知る主体は孤独
きちがいなら人間で、まともなら…
笑うのは心
誰もいない
自分が笑ったと思うとかね
人の気持ちが解るとかね
きちがい病
でもぶっ国土は始めからここにある
見いだせ
好きと嫌いは同じものだ
そこにある愛?が
見えない訳がない
だってそれってわたしじゃん
見いだせ 偉大なジャンキー様に皆の衆、ひざまずくのじゃーーー笑。 自我(エゴ)の中にある(であろうと期待される)本質としての真我のことを言っているのか、
自我(エゴ)を脱ぎ捨てた状態のことを言っているのか、による。
後者であれば、言葉のうえで無我と言っても、真我と言っても、たぶん同じではないかと思っている。 ただし、涅槃については四諦八正道、つまり仏道を通して到達する他ないだろうと思っている。 その問いは、自我を起点とした発想から出てくるものだから、実は問い自体が不適切なんじゃないかな。
その発想の延長線上には答えがないから、瞑想するわけでしょう。 >>528
君が道を歩いている時に、誰かが後ろから君の名前を呼んだら君は振り返るでしょう?
お釈迦さまも同じで、振り返ります。
その振り返る主体が無我を知ったり知らなかったりするのですよ。
無我だから名前を呼ばれてもわからないということはありません。
何もわからなくなるのは単なる忘我であって、無我と忘我は全く異なるものです。 >>528
「観測者」は「観測者」でしかないでしょ?
むしろ、なぜ、
「観測者」=「我」
という等式が、
《無批判に》 《無謬の》 《前提とされる》 理由
の方が不思議な事ではありませんか? >>530さんの見解も、>>531さんの見解も
梵我一如が前提になっているかどうか?で受け取り方が違ってくる様に感じますが、如何でしょうか >>532
「梵我一如」も、梵(ブラーフマン)と我(アートマン)を如何に定義するかによって、その内容は
どのようにでも変わります。
「梵我一如」を中心思想とするヴェーダーンタ学派の覚者であったタゴール父子は、「無我」を説いた
お釈迦様を崇拝していたことで有名です。
真理は言葉を超えているので、「悟りの意識」を実体視するかしないかは本質的な問題ではありません。
それらは人々を導くための説明に過ぎないからです。
仏教の唯識学派でも有形象唯識(有相唯識)派と無形象唯識(無相唯識)派があり、前者は
「悟りの意識」を実体視しています。それは、そのように説明する方が人々が悟りを得やすいと考える
からであって、どちらか一方だけが正しいということではありません。
そもそもが、「無我」という概念は「有我」(凡夫の考え方)を否定する言葉であって、「迷い」から
「悟り」に入る境界点での認識です。悟りの世界に入ってしまえば、もう「無我」も意味はなくなります。
(「有我」という対立概念なしに「無我」を考えることは出来ないからです。)悟りに入った後は、
「無我」も迷いの中にある人を教え導くための概念でしかないことになります。
(四聖諦なども同じで、あくまで悟りに至るまでの話に過ぎません。)
「悟り」の世界そのものは言葉を超えた世界なので、もはや無我うんぬんも、縁起うんぬんもないと
言わなければならないでしょう。 西洋では存在論者が認識論者に弓矢を構え「目を瞑れ、さすれば矢も存在しまい」と言ったとか言わなかったとか 無、という名前の自分がいる。
真理、と言う名前の自分がいる。
バカという名前の自分がいる。
眠っていると、忘我、という名前の自分となる。
簡単である。 ブッダ>サーンキャ哲学
∴無我が正しい
しかし輪廻転生が在ると仮定すると、「輪廻する主体」在り、という話になるので、
真我を認めざるを得なくなる。 >>541
自我自体は生きてるあいだも、(その性質として)ずっと無我でしょ。
自我を生みだす業があるだけで、自我は、生きていようが、死んでいようが、常に(その性質は)無我。
輪廻の主体というのは、頭で考えているから(自我の内部に生じる、自我の思いつきだから)、坐禅で
思考の外側に飛び出さないと、実感としては分からないと思うよ。 思考というのは、自我の内部に生じる現象だから、
自我の外側から自我を見た時に、自我が無我だなということは分からない。
構造的に無理なのね。 例えば、ほとんどの人は、「テレビに出てみたい」という気持ちを持っていたとしても、実際に交差点あたりでテレビカメラが撮影していて、テレビ局の人が三人ぐらいウロウロしていたりすると、カメラを避けたくなるものです。実際、私自身でもそうなります。
「ここでテレビに出れば、一つのパブリシティとなって、無料で広告になるかな」と思ったりするものの、交差点で大川隆法がインタビュアーに捕まって、ろくでもない話をしたらどうですか。
「これから、どちらに行かれるのですか」という質問に対し、「ええ、ちょっとそこまで、お腹がすいたので、ラーメンを食べに行きます」などと答えているところをテレビ番組に流されたら、全国の信者はがっかりしてしまうでしょう。
もう少し高等な質問で迫ってもらえればよいのかもしれませんが、なかなかそうはいきません。
このように、テレビ局の人が「テレビに映したい」と思っていても、やはり、たいていは断られるものなのです。
go
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1414259356/643 仏教者の多くというのは「縁起」と永遠性の、
要するに、「恒久」「不死」「永遠」「永久」「永劫」「不滅」...
といったものとの関係についての理解を失敗してるのです。
だから、「仏性」を説いて如来蔵思想を展開するに至ったヒンドゥー化の大乗と
南方仏教の説く縁起とは矛盾するものとして混乱してるのです。
これは数百、いや無我の間違いと同じく二千年来、こうしてずーと混乱を続けてるのです。
ハテ、理解に悩む平均的仏教徒らは、果たして「縁起と仏性」のどちらの方を最終的に選択するでしょうかね????? 中道だから、結論に至る道は人それぞれ。
タイミングもひとそれぞれ。 >>544
あなた自我が大好きですね。
大好きな自我を前提に無我を考えているから間違う。
妄想を止めて五蘊を眺めてみれば、自我は存在しえないことに気づく。
無我以外ありえない。自我は前提になりえない。 言葉での表現が正確でないだけで、言わんとしていることは別に矛盾してないと思う。
我なんてない。
ただ、どうやって言語でそれを伝えるか(表現するか)というところには、センスが出る。 言語表現と伝達というのは、我が前提だからね。
その伝達形式の上に、どうやって無我を乗せるか、伝えるかっていうこと。 どこまで行っても無我を説明してる主体は自我ではないの? >>554
眠っている時の自我はどこに居るか、と。 裏っかわの世界に登る真夜中の太陽の下に魂とともに居るw >>554
それじゃあお釈迦様は常に自我を張って説法してたってことになるじゃない。
無我ですよと言われて、そうですねでおしまい。
無我と言うあなたの自我はどうなんだっていちいち問題にすると、無我が分からなくなる。 >>158
よくわかります。私も同じ境地を経験しました。 神、ブラフマン、アートマン、真我=戯論。
論ずるだけ時間の無駄。
まず存在を証明してから議論しようか。無理だけど。 ブッダは、五蘊、六処などの誰にでも理解できる、観察できる対象を基準に議論し、瞑想し、
最終的に無我という答えを導きだした。そしてそれは誰にでも再現可能な真理。
ブッダの勝利、無我の勝利だな。うん。 無我を完全に悟る涅槃の境地の前に、四つの禅定と四つの無色界等至がある。
涅槃が最高の境地だが、涅槃以外の境地がないというわけではないと思っている。 例えば、仏陀は次第説法において在家の信徒に対しては生天の教えを説いた。
涅槃、無我が最高の真実ではあるが、欲六界の天界がないわけではない。
仏陀のご生母は、第二天界に生まれたとされている。
パーリ経典にも仏説としてそのように記録されている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています