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自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう >>402
プルシャと呼ばれるものは、ブラフマンと同一化されているのですか? >>405
404です。
ブログ教えて頂きありがとうございました。
勉強になります。 無我説ではなく非我説をとる人についてスマナサーラさんは
「要するに彼らは『仏陀は我がないとは言っていない』と言いたいのですね。
子供の言いがかりのように感じます。
これは彼らが『無い』ということの難しさを理解していないからです」
と仰っています。 存在する全ては「意識」だ。
それは現象が生じてくる「源泉(Source)」だ。
個人の意志ゆえに起こることは何もない。
神の意志でなければ何事も起こりえない。
そして、私がここで「神」と言うのは「源泉」を意味している。
まず第一に、存在する全ては「源泉」だ。
「意識」と呼んでも、ラマナ・マハルシの言うように「真我」と呼んでも、あなたの好きなよう呼んで構わない。
それが意味しているのは、一つの源泉=二番目のない一なるものだ。
(ラメッシ・バルセカール) >>407
仏教の無我説は本来、「非我」であり、
元々は「アートマンは無い」などということではなかったことが仏教学的な事実として判明しています。
その意味を変色させたのは部派であったことも知られていることです。
残念ながら、ゴータマの教えに近いと評価されている現存する南方仏教とて部派の生き残り(継承)に過ぎません。
『仏教は無我説を立てることで有名であるが、その思想内容は歴史的にかなりな変遷がある。それにともない「諸法無我」の解釈
にも変化がみられる。
無我説の始まりは、最古層の経典の執着するな、わがものという観念をすてよという教えにある。初期の無我説は、「我は存在しな
い」ことを説くのではない。倫理主体としての真の我の確立は、むしろ積極的に求められていた。
「常に思念をたもち、自己に関する誤った見解を捨てて、世界を空なるものとして観よ。そうすれば、死を超越したものとなるであ
ろう。このように世界を考察するものは、死神には見えない。」(Sn.1119.)
無我説はこのように、我(自己)ではないものを我(自己)であると思いこだわることをやめよ、という教えから始まる。当初の
「諸法無我」は、無執着の立場から、「すべての事物は我(自己)ではない」と説かれたものである。したがって、無我(我がない)
説というよりは非我(我ではない)説であった。』
(インド思想史略説) 『anattan(無我、我ならざるもの)の語は、ブッダも使います。ブッダの教えの中で重要な用語です。 これは、「主語+述語」の
文の、述語に置かれます。「苦であるものは、我ならざるものである(=我 ではない)」ということで、「無我」は「我がない」という
意味ではありません。「我ではない」という意味 です。
ブッダの教説の中では、attanが主語におかれて「我がない」とか「我がある」とかいう文は作ることはできないのです。『ブッダ
論理学』の【難問5】にあります。彼の教説は、生じ滅するものだけを扱うからです。しかし、生じ滅する「色」が、我ならざるもの
であることは、述べることができます。述語には、規定はありません。だから、「無我(我ならざるもの)」という言葉も出てきます。
ただ、いつの頃からか「無我(anattan)」に「我がない」という意味が混入してきますね。(部派時代頃かな) これは、経典を作
りかえたとかそういうことではなくて、解釈として、このような解釈が入ってくるということです。』
(石飛道子ヴェブサイト『マニカナ掲示板過去ログ2739.』)
http://houjugusya.web.fc2.com/anatman.htm 五蘊無我。
五蘊はどこをとっても非我だから、五蘊は無我。
涅槃は五蘊じゃない。
おわり 学僧や学者さんの世界の話だよなぁ。
戒と定に支えられた、体験智としての慧がない。
立体データを言葉で表現しようとするから、文章が長いこと。 >>409-410
それらは言葉に捉われているからであって、結局は同じことなのですよ。
無我の「我」をどのように捉えるかということに過ぎないのですから。
アートマンを個人性のあるものとして捉えれば「否定」することになり、
個人性のないものとして捉えれば、真我として「肯定」することになります。
言葉の定義によって説明自体はどのようにも変えることが出来る訳です。
解脱の体験のない人が書いた宗教関係の書物を読んで勉強すると、初心者には
却って迷いのもとになることが多いですから注意が大切でしょう。 瞑想しない学者さんの言葉は概念智のみで、体験智の裏付けがまったくない。
全然ない。
びっくりすぐらいなんいもない。
すっからかん。
人間の思考の産物しかない。 >>413
いえ全然、同じじゃないですよ。
「アートマンは無い」などというゴータマが説きもしないことを頑なに信じ続けたインド仏教は、
バラモンたちにも、そして、大衆の庶民らにも相手されなくなって入信者が絶えて、遂に滅んだのです。
彼らは、これがブッダの教えだといって忠告の声に耳を傾けようとはしなかった。
>>411は正解ですが...。
>>414
確かにそうではあるけれども、
しかし、間違った信仰(迷信や洗脳)を打ち破るのは学問ということだと思います。
もちろん、自分自身がその境地まで体験すれば真実を確認できますけれど...。 >>415
同じなのですよ。
解脱の体験のない人だけが言葉の違いに捉われてしまうのです。
宗教は体験であって概念を整理して分かったつもりになることではありません。
日本仏教の中でも、体験がない人は禅宗も浄土真宗も日蓮宗も別々の宗教だと
思ってしまいますが、体験があれば同じ仏教であることがわかるのです。 シャンカラが説いたことは、仏教的です。
シャンカラは、「仮面の仏教徒」と言われていたくらいです。
歪んで伝承されていた仏教を、シャンカラは、ヒンドゥにおいて是正したとみなすこともできます。
仏教に、ヒンドゥ(アドヴァイタ)やヨーガを取り入れることは、真っ当であると思います。
真我を仮にでも認めないから、他の宗教と相入れなくなる。
「諸法無我」の文言を額面通りに受け止め過ぎ。
究極の答えにたどるための、方便としての真我は実際は有益。
後世の大乗仏教は、真我を取り入れているのですが、
テーラワーダも真我を認め、取り入れる必要があります。
そうすれば、「テーラワーダだけが正しい」みたいなドグマなことは言わなくなるでしょう。
これだけでも「健全」になります。
伝承されたパーリとかアビダンマだけ云々とするのは、
原理主義的過ぎるように思います。
http://blog.livedoor.jp/yururinn/archives/12402535.html >>417
そのサイトの人も解脱の体験がないので言葉に捉われているのですね。
>「諸法無我」の文言を額面通りに受け止め過ぎ。
というところも全くわかっていない証拠です。
なぜなら、「「諸法無我」と言った時点で、そう言った主体があることが
表れているるからです。「認識主体もない」などと言う場合も同じです。
「認識主体もない」と言っている者がいるのですから。 >>418
諸法無我の文言を額面通りに受け止め過ぎ
ているのは
テーラワーダの人というのがそのサイトの人の主張でしょ >>419
そのサイトの人自身が
「テーラワーダは、いきなりゴールのニルヴァーナを目指します。
途中経過としての真我は否定しています。しかし、実際問題として、
途中経過としての真我は必要だと思います。」と書いてあるでしょう。
「真我」という言葉にとらわれているのです。
「我」の定義によって「真我」の意味はどのようにでも変わります。
表現に捉われているのはテーラワーダの人々もそのサイトの人も同じです。 >>420
あなたは逆にもう少し言葉に対して慎重になった方が良い
サイトの人の
「実際問題として」
「真我を仮にでも認めないから、他の宗教と相入れなくなる」
「方便としての真我は実に有益」
をスルーして自分の価値観だけで我というものは言葉の定義だけでうんちゃら言っても仕方ない
サイトの人は一般論として言ってるわけだから
「結局、仏教は他の勢力によって滅ぼされたのではない。仏教はインドの風土に合うことなく自然死していったのだ」
「ジャイナ教は賢明にもこの点でヒンズー教に妥協した。インド哲学の主流である有の哲学の立場をとり、
インドの現状を認めカースト制度を認めた。賢明にもインドの伝統的、支配的な風潮と妥協した」
ジャワハルラール・ネルー(インド初代首相)「インドの発見」より
http://i.imgur.com/lWm9FIq.jpg
「ネルー氏は何も体験がないからそんなことが言えるのです」とか言うのならどうぞご勝手に >>421
そこに書かれているネルー氏の説明は別に間違っているとは思いませんが、宗教の本質には
関係のないコメントでしょう。仏教がインドに残ることが良かったとは限らないのですから。
より合った土壌に渡って深化・発展することの方が後世の人類のためには良いことだったと
言えるでしょう。 >>422
>より合った土壌に渡って深化・発展することの方が後世の人類のためには良いことだったと
>言えるでしょう。
その深化・発展はまず真我に変わるような土着の精霊を受け入れたり
儒教の先祖崇拝と結びつけて霊魂の存在を認めたりしたからあり得たこと
在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから
http://mmtdayon.blog.fc2.com/blog-entry-1244.html?sp
だから実際問題として方便として真我やそれに類するものを取り入れた方が深化・発展のためにも有益なんだよ >>423
>方便として真我やそれに類するものを取り入れた方が深化・発展のためにも有益なんだよ
あなたは「(方便としての?)真我」を取り入れて悟りを開いたのですか?
そうでないのなら、すべて想像(妄想)の話になってしまうでしょう。
藤山みどり ? そんな仏教の素人が頭で考えたものを読んでいても本当のことは何も
わかりませんよ。 >>424
論点が完全にずれている
もう一度>>423を読み返して下さいな
特に
>在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから
の意味を汲んで読み返してくださいな
それでも分からなかったら
「瑩山紹瑾が現れなかったら曹洞宗は廃れていた可能性が非常に高いと言われている」
と書けば分かるかな
道元の悟りとか教えの問題じゃないんだよ >>425
宗教の本質を考える場合は、論点がずれているのはあなたの方なのです。
あなたの関心は料理のメニューのようなもので、それでは何の栄養にもならないのです。
「在家信者の支持を失った宗教は廃れる一方だから」などと言っても、私は禅宗でも浄土真宗でも
見性したり救われたりした在家の人をたくさん知っています。その比率は昔とそれほど変わらない
と思っています。
世間的なデータなどに意味はありません。創価学会や幸福の科学の信者が増えたからと言って、
そこに何か宗教的な意味があると考える愚か者はいないでしょう。それらは社会現象の問題であって
宗教の本質とは何の関係もないのです。
曹洞宗についても、瑩山紹瑾禅師のおかげで悟りを得る弟子が増えた訳ではありません。信者や檀家が
増えただけのことです。宗教的本質だけを考えるなら日本曹洞宗(道元禅)は「正法眼蔵」だけで十分
なのです。 >>426
瑩山紹瑾がいなければその正法眼蔵も日の目を見ることがなく
今日君が正法眼蔵を目にしてたかどうかも怪しい
そういうことを言っている >>427
瑩山紹瑾禅師が出ようが出まいが「正法眼蔵」の宝石のような輝きには何の変わりもないのです。
心ある人々に読み継がれて、やがて八百五十年後に私の手元まで来て私に身心脱落の体験を与えて
くれたことに変わりはなかったでしょう。
宗教というものは本質だけを見なければいけません。周辺の非本質的なことがらに惑わされるなら、
単なる宗教文化のお勉強で終わってしまい、貴重な人生を無駄にしてしまうことになるでしょう。 ↑ >>427 の訂正
八百五十年後 (×)
八百年後 (○) ブラフマンがどんなものか口では言えないのだ。
塩人間が海の深さを測りに行った。どれほど水があるのか報告するつもりだった。
でも報告することができなかった。海に入ったとたんにとけてしまったから。
−いったい、誰が海の深さを知らせることができるかね?
(ラーマクリシュナ)
http://fuu-nirvaana.blogspot.jp/2010/01/blog-post_07.html?m=1
塩人間とはアートマンのことで
とけてしまったというのはブラフマンと合一した
という解釈でいいのかな? 頭で考えた概念は、ぜんぶ違う。
言葉で表現されたものは、ぜんぶ思考概念になってしまう。
「それ」じゃない。 >>433
>頭で考えた概念は、ぜんぶ違う。
これも頭で考えた概念で言葉で表現されたものだから真ではない おれ 「思考概念はすべて思考概念に過ぎない。」
お前 「同意。」
↑お前が言ってるのはコレ >>435
違う、>>433に書いてあることは頭で考え出され言葉で表現されたものだから
単に思考概念であって真理や真実ではないと言っている。 >>433
もう少し分別智である言葉を大切にした方が良いと思う
特に言葉によって成り立っている掲示板のようにコミュニティに参加している以上は
言霊はオカルトかもしれないが信じている人には効果はあると思うし
羽生結弦はアファメーションしてから本番に臨むことで有名
https://grong.jp/blog/about-affirmation >最初に苦を観察しない者は個我をアートマンじゃと間違ってみているのじゃ。
>だから苦があるのじゃ。
>苦を観察して個我はアートマンではないと気付けば苦はなくなるのじゃ。
>間違ったアートマンの使い方を否定しているのじゃ。
鬼和尚のこの理解は正しい。
ゴータマは(六師外道や唯物論についての)間違いはキッパリと否定されるが、
アートマンについては否定していない。
そう、これもその通りです。 これまで時折、拝見してきたところでは
鬼和尚の見解がこの私と特に異なることは今まで何もなかった。
だから、鬼和尚だけに聞くのもよし。
私にも聞くのもよし。
私からなら、またもう少し違う話もできるかもしれないし...。 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。
(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁)
wwwwwwwwwwwwww >>442
あのね...
この私は、パーピマンを相手するために投稿したわけじゃないから。
私は忙しいのwww
それ鬼の首を捕ったつもりの経文提示だけども、
まっ、それらの現代語訳は翻訳が下手なのだと思うね。
本来の非我の教えを訳が悪いとそのようにアートマン否定意として書くのです。
その証拠に今だにそういう訳語調を好んで提示する学者などは、もう殆どいないから。
それと増谷氏は阿含経の研究は素晴らしいけれども、ただし残念ながら典型的な唯物論者。
そして、ダライラマはもちろん素晴らしい方だが、この方も南方的な間違った無我の教えを洗脳されて誤解してる。
つまり、あの一代と同じムジナということ。
当時のバラモン聖者はジーヴァ(魂)を永遠なるアートマンと勘違いしたのです。
それがゴータマが否定的に指摘した梵納経の内容なのです。
まっ、パーピマンにはジーヴァ(魂)とアートマンの違いも理解できないし、
所詮、唯物論者にとってはどちらも無いものとしては同じ扱いでしょうから(笑)
「唯物論」についてはゴータマは明確に否定しており、それは最も低い見解だと説いたにも関わらずです。
パーピマンとの対話は、
以上にてお・わ・りです
たのむから、もう、邪魔しないでくれる?
悪いけれども、この後はスルーさせて頂くから。
もし、対話したくてウズウズしてるなら、他の相手を見つけてくれ!! >そして、ダライラマはもちろん素晴らしい方だが、この方も南方的な間違った無我>の教えを洗脳されて誤解してる。
wwwwwwwwwwwwww
宝珠の見解は、ダライラマを超えているそうだw
ありがたい、ありがたいw >しかし悟ればアートマンとブラフマンは一つで
>あったと知れるのじゃ。
>本来別の法であったものも悟った後には一つと
>知れるだけなのじゃ。
バカ鬼のレベルが分かるだろw バカ鬼は、「釈迦はブラフマンに至る道を説いた」と言っている。
そして、「ブラフマンは空と訳すべきかの」と言っている。
頭ピヨピヨのデパスマンだよwww >>444
くぅ〜〜〜
たくっ、もう一言だけ相手しておくわ。
この私がダライラマより上なんじゃなくてw
つまり、あのですね...
仏教者の多くというのは「縁起」と永遠性の、
要するに、「恒久」「不死」「永遠」「永久」「永劫」「不滅」...
といったものとの関係についての理解を失敗してるのです。
だから、「仏性」を説いて如来蔵思想を展開するに至ったヒンドゥー化の大乗と
南方仏教の説く縁起とは矛盾するものとして混乱してるのです。
これは数百、いや無我の間違いと同じく二千年来、こうしてずーと混乱を続けてるのです。
ハテ、理解に悩む平均的仏教徒らは、果たして「縁起と仏性」のどちらの方を最終的に選択するでしょうかね?????
しかし、混乱しない私のような者は、
この関係をまったく矛盾しないものと知るのです。
矛盾してるのは彼らの勝手です。ダライラマも然り。
はい、最後です。 >>445-446
むしろ、仏教者の中にこれだけ分かってる人がいることの方が驚きです。
わたしには...。
大抵はだんだん嫌気が差してきて、
仏教枠からは自ら出ていきますからね(笑)。
まっ、
内容が伴っていればすべて仏教扱いとする鬼和尚ですから、
それは当然といえば当然のことです。
私は、ゴールは仏教でなくても他の宗教からでも可能と言うことが多い....。
もちろん、和尚のようにいうこともある。
ゴータマは元々、「これから仏教を説く」などとは教えてなかったでしょうからね。 宝珠さん、パチパチパチパチ
そのとおりであります。
応援してまっせー(´・ω・`)
あとコピペして天空寺に貼るわ。よろぴこー 宝珠さんは悟った方なのですか?
どのような方なのですか?
煽りではありません
どのような方がそういう理解に至っているのかお聞きしたいのです >>450
仏教徒たちの話をみていると、
“悟った”という云い方についても間違った使われ方があまりにも多いのです。
よく上げられる事例として、「コンダンニャが悟った!」などという時というのは、
実際には、何か一つの事柄や事象の関する疑問を解消したことを示すものに過ぎません。
本来の意味での悟りというのは完全解脱のこと。
輪廻を脱してニルヴァーナ(涅槃)に到達し、修行を完成したことをいうのです。
智慧が生じて一切智者であるところの生ける如来となった時に、初めて人は“悟った”ということになる。
私は生まれついての霊的思考者であり、
小学低学年からすでに誰に教わることもなく自力で思索して、
人間の意識(命)は不死であり、そして、後に知ることとなる仏教の説く業報輪廻を真実だと見なしていました。
また、誰からも教わることなく瞑想の習慣を持ちました。
なので小学低学年の頃から私の基本的な理解は何ら変わっていません。
自然内的な自覚としてはそれだけです。私のレベルなど全然低いです。
私が仏教(原始経典と密教)と出逢ったのは、18歳頃のことですでに35年になり、
間もなくして、すぐにヒンドゥー・ヨーガを学び、その後は近代神智学へと傾倒。
現在は真言宗の不動尊信仰を日常としつつ、ババジ直系列でパラマハンサ・ヨガナンダ指導のクリヤ・ヨーガ、
そして、アリス・ベイリー派の神智学を学びつつ、ベンジャミン・クレームの運動を支持しています。 >>448
そうですか。
私から観たバカ鬼は余りににも酷くてね。
ありゃ精神を病んでますよ? >>446
>>452
こりてないなあ・・・ジャンキー君。 >>451
悟りの定義などお話にあることはわかるつもりです
ところで仏教以外もお詳しいようですが、
鬼和尚さんがマハラジの弟子のラメッシやダンテスダイジ、非二元の教師あたりを悟ってない(完全解脱してない)と言っていましたが、それに関してはどういうご意見ですか?
聞いてないですがヨガナンダやアリスベイリーなども悟ってないと言いそうな気がします。
ちなみに宝珠さんはババジをどういう存在だとみなされているのですか?
悟った存在ですか? よく話にあるように時空を超えて出現したりできる存在ですか? >>454
鬼和尚のリカちゃん人形かもな。
宝珠を乗せるネタがでてこん。 >>454
ババジは恐ろしく驚異的な存在です。神智学においては悟りを開いた者(覚者)の意識レベルを進化段階における第五段階イニシ
エートと評しますけれども、この方は他の天体から来られたアヴァターであり、その進化段階は第八段階以上です。ババジはこの
惑星を支えるロゴス的な役割をされていて、現在の青年の姿のままヒマラヤ山中において変わらず数千年の不老不死の肉体を保持
しており、更にこのまま数十万年この惑星に留まる決意をされています。もちろん自ら時空を超えて肉体の現出消滅や瞬間移動な
ど意のままです。ヨガナンダ著には、ババジがヒマラヤの断崖絶壁から飛び降りて死んだ男を瞬時に蘇らせた出来事などが紹介さ
れています。
ヨガナンダはババジの直弟子ラヒリマハサヤのそのまた直弟子スリ・ユクテスワの直弟子であり、彼らはすべてアヴァター(基本
的に五段階以上のイニシエート)存在です。ヨガナンダはババジ直伝のクリヤ・ヨーガを欧米に伝える使命を全うして、若くして自
ら肉体を脱ぎ捨てました。そのマハー・サーマディの脅威の奇跡は彼の死後の肉体も腐敗することのない不朽現象を示して、その偉
大なる死に対してインド政府より記念切手が発行されました。ヨガナンダのこの驚異の境涯は昨年、この日本でも映画が上映されて
います。
アリス・ベイリーはチベット人/ジュアルクール覚者の弟子でその教えを著した3.2段階のイニシエートでした。仏教的にいえば
阿那含(不還向)に近いあたりでしょう。マハラジ系列というのは、まだまだ覚者の域ではないと私は思います。
私自身は、これまで完成者からの本物の教えを求め続けて歩んできました。それが結果的に宗教の何教であるか?といったカテゴ
リやレッテルなどは実際、どうでもいいこと。
映画「永遠のヨギー 〜ヨガをめぐる奇跡の旅〜」
http://yogi-movie.com/index.html >>456
それはすべて妄想・魔境の世界ですね。
そのようなことに興味が向くということ自体が宗教の本質がわかっていない証拠です。 無我なのか真我なのか非我なのか、
さてまたアートマンとかブラフマンとかなんとかかんとか。
それらは全て、単なる言葉遊びに過ぎないことに気付いてこそ、
初めて、スタートラインに立つことになる。
それまでは迷路をうろうろしながら毎日を送るのみ。 >>456
454ですが、自分も宝珠さんほどではないですがババジやヨガナンダ、アリスベイリーや神智学の本も読んだことありますので、
そういう知識的なことはある程度知っています。
もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが文面から伺えるのでそれで納得します。
ありがとうございました。
ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、
ヨガナンダ本人を知っているわけでもないですしわかりません。
ちなみに自分は鬼和尚さんは好きですし疑問に思うこともありますが基本的に納得しています。 とりあえず、アートマンは我や真我ではない。
アートマンは決して認識できない。
と鬼和尚が言うとった(´・ω・`) >>460
認識できない認識主体をアートマンと呼び、漢訳では真我と訳しただけの話だよ。 宝珠のコテで、最近読んだ本で行き当った。
http://www.k-jz.com/price/9784864030038.html
稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)
宝珠は伏見稲荷の密教の伝統を受け継いでいるのであった・・・・・。
宝珠は大きい狐。 やっと、宝珠とやり取りできるネタを手にいれた、伏見稲荷。
しかし、野狐の霊が憑いて騙しに来るとか。
伏見稲荷に行ったことはねえが。
伏見稲荷のお山に登る根性が出ねえ笑。
宝珠と、やり取りする付き合い程度だな。 >>459
>そういう知識的なことはある程度知っています。
了解。
>もう少し宝珠さの個人的見解をお聞きしたかったのですが
私は自分なりの見解というものも持っていますが(そして、それをとても大切にしている)、
けれども、大部分においては神智学の特にベイリー著とクレーム著、
そして、クレーム氏の師である覚者から提供された情報をとても信頼しています。
なので特に異なった個人的な見解でない場合には、そのまま学んでいる教えと情報に対して私も同意しているということです。
クレーム氏の師である覚者から提供されたイニシエートたちの進化段階の公表についていえば、
これまで私自身の評価する殆ど想定通りそのままのものばかりが発表されてきたので、これについてはとても信頼しています。
尚、ただし当初において少しだけ面食らったのは空海の進化段階2.0についてでした。
真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。
それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。
>ヨガナンダは本の内容やラマナマハリシに会ったときの話などから自分は悟ってないような気がしますが、
クレーム氏もごく一部についてですが、あまり評価しない部分を持っていたような気がします。
ただし、アヴァターというのは意図的に不可解なところや未成熟な印象を態と演じている場合などもあるので難しいところです。
そもそも人間の人生における霊的歩みの模範を演じているのがアヴァターですから。
そのために敢えて受肉し公衆の中で生きているということ。
また、仮にもしヨガナンダが五段階のレベルだったとするならば、
仏教の開祖、ゴータマ王子の肉体を通して働かれたシャンパラのブッダの八段階と比較するならば、
そのレベルの違いは歴然です。 >>454
>非二元の教師あたり
これは近年〜現代だとどういう教師たちがいるのでしょう?
さすがに新しめの情報にはちょっと疎いかもしれません。
私がとても強く認めているのはラマナ・マハルシです。
神智学協会が見出した元世界教師の器だったクリシュナムルティは4.0段階でしたね。
私もまだ覚者には至ってないものと見てましたから、これはまさに想定通りの進化段階でした。 >>466-467
ハテ?私のこと?
それとも、狐が加える玉(摩尼宝珠)のことかな?
確かに私のハンドルネームは「マニ宝珠」「チンター・マニ」からきてるが...。
まっ、稲荷には関心ない。
というよりは、むしろ意識的に全く関わらないようにしてる。
参拝もしないし、無視です。 あと...時間とれたら、
本題の栄進さん宛てを投稿します。
栄進さん、宜しくお願いします。 「この人の悟りのレベルは〜の段階」、「あの人の悟りのレベルは〜の段階」 などと言って
いる間は、まだ宗教の本質がわかっていない状態だと言ってよい。
殺人教のオウム真理教では、麻原も弟子達も修行によってステージが上がるなどと馬鹿げたこと
を信じていたことで有名だ。
「無我」 なのであるから悟る主体などは存在しない。
ステージの上下などは存在しようがないのだ。
このスレの宝珠真範とか言う者は
「それでも2.0段階ならば、強力な神通を発揮するレベルには違いありません。」
などと子供のようなことを書いている。
時空を超えた世界では神通力など何の価値もないのだ。
神通力うんぬんを言う者は時空を超えた世界を知らないオカルトおたくに過ぎないのである。 >>472
イエス・キリストは第4段階、臨済宗の栄西で2.2段階だったとされています。 マニ宝珠は「世界」そのもの、お釈迦様の「見明星」もこれを指しているんでしょう
それなら、神通力といった超能力どころか
「能力」 それ自体が認められないことは自明なのでは? >>462
アートマンは主体でもない、とも言うとった。
ワシのアートマン探究はここどまりや(´;ω;`)
>>471
ゴクリ(´・ω・`)こちらこそ宜しくです。待ってます。 余談ですが、鶴太郎は最近ヨガにはまってるらしいが、シヴァ(不動明王)は絶対唱えてはいけない。
こいつは実は何万年も人類をだましてきてます。嫉妬とひがみの因縁が切れておらずわかりやすく
いえばオーム心理教と同じです。記憶や思いも都合いいように変えられてしまいます。実際には
そうゆう不徳じゃない人が不正に障害者にされたり借金地獄にされたりしています。
たけしもいつかテレビで見たが密教の寺を興味もってたずねていたが不動は絶対
お参りしてはいけません。また、密教の寺のほうももう不動は悪にいってしまったので曼荼羅から
はずすべきです。APPLEのジョブズは何も知らずに禅宗にいったのでそのとき不動にまきこまれ
癌になって死亡したのではないかとも思われる。 >>472
禅がさとりに段階をつけてるのと同じようなもんですよ >>477
全く違う。禅は超能力などには何の価値も置いていない。 >真言密教を学んできた私からすると、もっと高レベルを想定したのでこれには驚いたのです。
けれどもそれは、空海にまつわる神格化と伝説の凄さに麻痺してバイアスが掛かっていたからなのだろうと納得しています。
そう書く宝珠は、やはり江戸期伏見稲荷密教。確定。 >>480
そこが違うということは根本が違うということ。次元が違うということです。 >>481
>「この人の悟りのレベルは〜の段階」、「あの人の悟りのレベルは〜の段階」 などと言って
>いる間は、まだ宗教の本質がわかっていない状態だと言ってよい。
>「無我」 なのであるから悟る主体などは存在しない。
>ステージの上下などは存在しようがないのだ。
見性と印可の段階の違いは? >>482
見性・印可は臨済宗だけにあるもので、曹洞宗には存在しない。
見性・印可は此岸における方便であって、彼岸にはそんなものはない。
悟る主体などは存在しないのであるから段階などは本来あり得ないのじゃ。 栄進さん今、執筆中です。
有る程度の量になってから、随時、分割して何回かに分けて連投したいと思います。
やはり数日の時間を要するので、どうか気長に待ってもらえれば助かります。
雑音は今はなるべく無視放置の方向ですが、
その他の気になったことについては時折りレスを附けます。
>>472
>イエス・キリストは第4段階、
これについては少し補足をさせてもらいます。
イニシエート、イエスのイエス個人としての最終的な進化段階は確かに4.0でした。
しかし、イエスのバプテスマ以降〜十字架死までの3年間は、
キリストであるMaitreya(カタカナ表記は規制対象にて)からのオーバーシャドゥ
(高次の意識がより低位の存在の手足を自分のものとして使用する)でした。
なので、オーバーシャドゥにあったイエス・キリストとしての教えはMaitreyaからのものです。
ハイアラキー(人類の進化に関わる覚者方で形成されるグループ)の頂点に立つMaitreyaの進化段階は「第七段階」とされています。
つまり、福音書のイエスの教えは7段階イニトエートからのものです。 >>484
未来仏の弥勒菩薩(まいたれーや)とはキリスト教のキリストと同じなのですか? <時空と個人性を超えた世界> を知れば、「悟りの段階(ステージ)」 などは妄想で
あることがわかるようになります。
段階(ステージ)があると思うのは <時空と個人性を超えた世界> を知らない者だけ
なのです。
お釈迦様も達磨大師も悟りの段階などは方便としてしか語っていません。未熟な弟子達が
その方便を真実だと思い込んで一部の経典に書いていますが、それらは 「此岸」 から見た
妄想に過ぎないもので、「彼岸」 ではそのような妄想は消えてしまいます。
人の本体に個別性があると思う 「無明」 の状態にある者だけが悟りに段階があるという
妄想を抱いてしまうのです。
それは、「着ている衣装の生地やデザインが立派だから、その人のステージは高い」 と思う
のと同じように愚かなことなのです。
宝珠真範という男は、まだ 「無明」 の中で夢を見ている人間なのです。 神は有形か無形かという論争などもラーマクリシュナにとっては上辺のつまらぬ対立に過ぎない。
ブラフマンは無相無形であるが、人間の信仰の力、神への愛に応じて有形の人格神となって現れる。
だから一見神は様々な形をとっているように思われるのである。
ある1つの形をとった神が正しく、他の形が間違っているといったものではない。
神の様々な形は神の人間への愛の現われなのだ。
無性のブラフマンを知るためには自我を完全に滅却する必要があり、普通の人間には難しい。
一方、有形で人格を持つ神の方は親しみやすい。
人の個性は様々であるから、人と神との繋がりもまた様々である。
神と繋がるための具体的な手段としては宗教儀式や偶像崇拝がある。
迷信として非難される偶像崇拝もラーマクリシュナは「真珠を育成するために必要な母貝」として称揚する。
それによって神を愛せるならば偶像大いに結構とするのである。」 >>488
彼岸からみた妄想という表現すごくよくわかります。
体験すると、本当にハッとしますね。 >>490
間違えました。彼岸からみると妄想だったとわかる、でした。 >>484
はい。
秘教徒には知られている事実です。
これまで長い間、キリスト教と仏教における類似性についての指摘や、
イエスの“謎の空白期間”(12歳のときにエルサレムでの議論をした後、
30歳で洗礼を受けるまでの謎の空白期間)にイエスは仏教を学んだとか、
イエスがインド〜カシミール地方に出現していた記録が現地に残されている・・・等々として、
噂され続けてきたことも頷けるものがあるということです。
そして、最新神智学のもたらす情報は、
未来仏Maitreyaは、1977年以降〜すでに肉体にて現代社会の中に入られているというもの。
彼は世界を動かすためには世界最大宗教であるキリスト教徒の影響を考慮し、
御自身を宗教的にはキリストとしてのイメージを重視されます(聖書三大宗教への影響)。
しかしもちろん、仏教徒に影響を及ぼされる際には弥勒仏として御自身を顕されます。
スレ違いにて、ここでは詳細は省きます。
神智学の説く、“Maitreyaと世界五大宗教の関係”
http://houjugusya.web.fc2.com/world5.htm
キリストの再来と奇跡の水(94年頃放映/日本テレビ『スーパーテレビ』)
http://www.youtube.com/watch?v=ajp5p0b0-6E
シリア騒乱の中で“白い天使”の出現としてメディアに現地報道された傷ついた人を助け出すMaitreyaの姿
https://www.youtube.com/watch?v=sSGVtJOeXAo 施設に収容されている宗教性妄想患者が作成した文章の例。
>俺は、最近裏工作的に牧師の霊的指導を笑、
>当然そういう風に魅せずにな笑。
>世話になっている坊主に俺は、自分の修行が
>進まんのにクリスチャンの世話ばかりしてい
>ると笑。
>今日は、さっき書いたが、修行マニアの書い
>た本(どちらかというと仏教、神道系など、
>神秘主義修行の内容が多いのに笑)に、世話
>になっている坊主の公案修行、鈴なのど本を
>書いてあるのを読んだ。
>彼は本物だと知っていたが、きちんとした出
>版社に載るようになったとは笑。 >ゴーダマ・シッダルタによると「我は無なり」
>と言うことから「色即是空」おける「空」と
>考えられている。
>ブラフマンを仏教では「色即是空」おける
>「色」と考えられている。
ブログ主は、アートマン=空、ブラフマン=色と捉えている。
捉え様がないものを言語で仮設したものが空であり、また、仏陀は無(非)我を説いた。 > 悟りを得た人のみが見ることのできる
> ニルバーナは実際には場所だと勘違い
> している人が多いが正確には「異界」
> のことでこの世に有りながら垣間見る
> 事の出来るもの、と考える事ができる。
オカルトだね。 【聖母マリア出現】ファティマ第三の予言が明らかになった!!【SPEC】
http://fate.2ch.net/test/read.cgi/spiritual/1503930220/
151 THISMAN ◆rfvLewovkA
でも、考えてみてよ。死後の世界に帰って来る人達が
いつまでも居ないことには、説教も始められないのよ。
あの世で待っている人達がいつまでも宗教を終わらせないよう、
あの世で待っている人達がいつまでも説教を終わらせないよう、
この世には記憶がない状態で人が生まれてくるんだよ。
毎年、生まれる赤ん坊がもし、日本で二人位しか居なかったら、
あの世の宗教家も、どうやって喧嘩をさせたらよいか解らない位だよ。
傍にいて、「早く喧嘩をしろ、あとで喧嘩をしない平和な気持ちを教えてやるから」と
云っても、なかなか喧嘩をしてくれないというか、二人を出逢わせる為に大変だろうね。 中国で生まれた禅宗には、先に触れた老荘思想の影響か、梵我一如化の傾向を感じます。
仏性(ぶっしょう)という考えは、「一切有情悉有仏性」という表現で示されるように「仏となるべき本性」であり、
「わたしの中にある肯定すべき本来の私」、すなわちアートマンとほとんど同意ですが、大乗仏教では広く見られ、禅宗も例外ではありません。
もっと分かりやすい事例を挙げると、唐の時代の有名な禅僧、臨済義玄は、『臨済録』に「赤肉団(心臓)の上に一無位の真人がいる」「随処に主となれば、立処皆な真なり」という言葉を残しています。
一無為の真人とは、アートマンそのものですし、「随処に主となる」というのも、第一原因たる主体であろうとすることでしょうし、自由不羈のアートマンであろうとすることだと思います。
釈尊の無常、無我、縁起の考えとは相容れません。(詳細は、『禅思想の批判的研究』松本史朗著 大蔵出版を参照)
http://mujou-muga-engi.com/honron/shitai/dou/jou/ >>500
まだこんな変な論文引き合いに出してくるとはw
松本さんは正師に参じて見性を許された方じゃ無いでしょw
体験無しに字面だけ追って憶測で梵我一如云々と決めつけるならなんでもありだわwww >>501(続き)
>>500
> 一無為の真人とは、アートマンそのものですし、
いや、違うってw、一無「位」だよwww
しいて言うなら、アートマンは否定によってしか表せない「有」位の真人、臨済のそれは「無」位なw
龍樹の言う四句否定と変わらんよ。
公案貰う時「有に非ず、無に非ず」と言われるからw >>502(続き)
>>500
> 「随処に主となる」というのも、第一原因たる
> 主体であろうとすることでしょうし、自由不羈
> のアートマンであろうとすることだと思います。
いや、これも違うわw
真空妙有(用)、無位の真人が自由な働きをなすが、肘外に曲がらずで、不自由ままに自由なんですわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています