☆無我なのか真我なのか☆ [無断転載禁止]©2ch.net
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自我執着がなくなったらどうなるのか…
人間の本質とは何なのか…
そろそろ結論を出そう このスレ好きなんよw
エゴエゴの争いで穢されたら哀しい >>303
君にまともな国語力があるとはとても思えません。
小さい頃からの学力を思い出せば、君自身がわかっているでしょう。
「悟りは極楽浄土にて開くもの」などと考えているのは浄土真宗の入門者
だけなのです。
大体、個人の心境が進んで「悟り」に至るなどという考えを根本から否定したのが
大乗仏教なのですから、君は大乗仏教というものを全く理解していないのです。 >>257-258
真我というのがアートマン単独を指してるのかアートマンブラフマンを指しているのか分からないけど、
梵我一如と涅槃を同一視しているのならその可能性はかなり大きいと思う。
しかしラマナ・マハルシの言葉より
信奉者:
ブッダのニルヴァーナとは何ですか。
マハルシ:
個人性の喪失です。
http://arunachala-saint.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html
個人性とはアートマンではない自我のことでそれを手放すことでアートマンが残る、
それがニルヴァーナだと言っているのだと思う。
なので、貴方の真我がアートマン単独を指していてもマハルシの思想からだとそれが涅槃を指しているということになる。
ちなみにマハルシは誰かとは違って、体験が先にあってその後不二一元論の教理と自分の体験が同じだと確認したという。
全くのバイアスが無い状態でいきなり悟ったのだから間違いなく本物の覚者でしょう。
「わたしは、ブラフマンや輪廻などを聞いたことがなかった。
万物の根底には、 一つの絶対的な本質、すなわち非人格的な実在があるということを知らなかった。
のちにティルヴァンナマライ(アルナーチャラの丘のふもとの町)で、いくつかの 古典を読んだとき、わたしは、つぎのことを発見した。
すなわち、わたしが直観的 になんの分析することもなく体得していたことを、書物は分析しているということ を。」
http://www.geocities.co.jp/noboish/case/syukyoka/ramana.htm
>>260
梵我一如と非想非非想は違うと思う。
根拠の一つは、ウッダカ・ラーマプッタが経歴不詳の沙門であるということしか分かってないこと。
もう一つは、釈迦に梵我一如を体得させるために非想非非想を体得させる意図は見られなかったこと。
>>261
僭越ながら梵天は無色界にはいない。
天部の神様がいるのは欲界から色界。 >>262
>つまり、ヴェーダンタ哲学と禅・仏教は根底となる
世界観が全く異なるのですから、両概念を比較して同一・非同一を議論することは無理なのです。
法身説法と言って真理の仏である大日如来が三千世界の中心から宇宙語で常に説法しているのw
真理は常に一つだから、その宇宙語を何らかの形で受信できれば悟れるわけで、
それを受信したのが釈迦でありキリストであり老子でありバラモンの聖者でありギリシャ哲学者なの。
禅でも無情説法の公案として有名でしょう。
だから真理を説く者は大体同一の事を説くのさ、受信感度(機根)などによる細かな差異はあるだろうがね。
その意味では、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ラマナ・マハリシ、シルディ・サイババ、
バクワン・シェリ・ラジニーシ、クリシュナムルティといったインドの聖者の方に共感を覚える。
特定の宗教や教義に固執しない、万教同根的な思想で真理を追究し体得していった聖者にね。
というわけで、両概念を比較するのは無理でもなんでもない。
>大乗仏教の方が哲学的にも内省的にも深いことが解るはずです。
哲学?内省?それらよりも体験が優先だろう?君の場合w >>307
>というわけで、両概念を比較するのは無理でもなんでもない。
と言いながら、「無位の真人」と「アートマン」が同じだという大間違いを
しているのだから笑い話だね。
そのような考え方では、大乗仏教というものは逆立ちしても理解できませんよ。 取り敢えず、おまいら仏陀の無記について思いを馳せたら? >>307
大間違いというのは言い過ぎだったので訂正したい。
確かに重なる部分はありますね。
ただ、重要なことは、どちらの表現も本来は言葉で表わせないものを
モデル化して表しているに過ぎないと言えるでしょう。
だからこそ、お釈迦様の教えから一見矛盾する禅と浄土が生まれて来る
訳ですね。 無我が出没するスレは毎回殺伐とした雰囲気になるな
これも無我の独善性のなせる業だな 無我は自分のスレに帰って説法してればいいよ
【不安障害治癒】「無我」の教え Part.2 【仏教、悟り】 [無断転載禁止]©2ch.net・
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1488727814/ >>309
「〔自己が存在することは〕否定できないから、『に非ず、に非ず』といって〔自己が言外に〕残されたのである。
人は、『これはわたくしではない(idaM na Aham)、 これはわたくしではない』といったふうにして、〔自己に〕到達するのである」
(シャンカラ) 顕浄土真実証文類(教行信証) 四
愚禿釈親鸞集
【1】 ^つつしんで、 真実の証を顕せば、 それは*他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、 この上ないさとりという果である。
^この証は必至滅度の願 (第十一願) より出てきたものである。 ^この願をまた証大涅槃の願とも名づけることができる。
^さて、 *煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れた*衆生が、 仏より回向された信と行とを得ると、 たちどころに*大乗の*正定聚の位に入るのである。
正定聚の位にあるから、 浄土に生れて必ずさとりに至る。
^必ずさとりに至るということは、 *常楽我浄という徳をそなえることである。
この常楽我浄の徳をそなえるということは煩悩を滅し尽した境地、 すなわち畢竟寂滅に住することである。
この寂滅はこの上ないさとり、 すなわち無上涅槃である。
この無上涅槃は消滅変化を超えた真実そのもの、 すなわち無為法身である。
この無為法身はすべてのものの真実のすがた、 すなわち実相である。
この実相はすべてのものの変ることのない本性、 すなわち法性である。
この法性はすべてのものの絶対究極のあり方、 すなわち真如である。
この真如は相を超えた絶対の一、 すなわち一如である。
^そして阿弥陀仏は、 この一如よりかたちを現して、 *報身・*応身・*化身などのさまざまなすがたを示してくださるのである。
http://www.yamadera.info/seiten/c/honden4_j.htm >>311-312
議論になるのは悪いことだと思い込んでいる君がおかしいだけ。
昔から宗教・宗派間での議論は当然であって、親鸞聖人も天台宗の学僧たち
からの強い批判に応酬するために教行信証を書く必要があったのだ。
唐代には禅宗各派同士のはげしい議論の応酬があったことも有名だ。
(「初期禅宗史書の研究」・柳田聖山著) >>314
> ^さて、 *煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れた*衆生が、 仏より回向された信と行とを得ると、 たちどころに*大乗の*正定聚の位に入るのである。
>正定聚の位にあるから、 浄土に生れて必ずさとりに至る。
回向…
B浄土真宗で,阿弥陀仏の本願の力によって浄土に往生し,またこの世に戻って人々を救済すること。
前者を往相廻向,後者を還相(げんそう)廻向という。
http://www.weblio.jp/content/%E5%9B%9E%E5%90%91
正定聚…
〘仏〙 三定聚の一。必ず涅槃(ねはん)の世界に至ることに定まっているものたち。
見道以上の聖者をいう。
真宗では,浄土往生が決定している他力念仏の行者をいう。
http://www.weblio.jp/content/%E6%AD%A3%E5%AE%9A%E8%81%9A ありとあらゆる生き物がアートマンこれを持ち、宇宙原理であるブラフマンと究極的には同一のものとされる(梵我一如)。
それを知識としてだけでなく、真に認識することにより輪廻から脱出することができるという。
言葉としてのアートマンは「自分」「自己」「我」という意味を持つが、
ブラフマンと一体であるところのアートマンには、記憶や認識、思考といった
一般的に「自己」と聞いて思い浮かばれる物を構成する要素を持たない。
肉体や精神をアートマンとみなすことは無明(無知)によるものであり、真理ではないとされる。
人格的要素を持たない、という意味で他文化における「霊魂」とも異なる。 栄光のからだの概念って仏教ではどう呼ばれてるか知ってる人はいますか?
キリストは栄光のからだで復活するわけですが
からだを持つから個別でもあるし同時に全とも一つでもある
単純にアートマンやブラフマンを語る人間は肉体でそれを書いたり語ったりするわけで、睡眠時の魂のからだでアートマンやブラフマンを体験したとしても魂のからだはあるわけで アートマンやブラフマンを「語る」時点で個別性に「戻ってる」わけですよね
じゃあなぜ個別性は必要なん?って話になる >>319
まず「栄光のからだ」とは何なのか分かりやすい説明を >>321
キリストがゴルゴタの十字架上での贖罪を果たした後の地獄巡りでの解放、その後で復活するわけですが、その際に人類に現れた姿(からだ)のことです
「肉のからだ」に対する「霊のからだ」の開示、という意味で、霊の肉に対する勝利、天の地に対する勝利の象徴でもあります
ようするに、キリストは人の子として、人が歩む道やゴールを人類に示すわけですが、そのゴールの象徴として霊のからだを示すわけです 個人的には仏教とキリスト教の違いはこの、栄光のからだにあるんでないかな、と思っとります
だから、霊のからだという単語で、それが仏教が語るあの単語、概念となかなか想起しづらいんでないかな、とも思います
でも、詳しい人いないかなと思い質問しました >>323
それは仏教の三身(法身・報身・応身)の考え方と似ていますね。
ただ、仏教の中でも解釈はさまざまですし、仏教とキリスト教では土台から違う部分が大きいので、一対一の対応を考えるのは無理があるでしょう。 二元論に立てば
肉の体はプラクリティ
霊の体はプルシャ(霊我、神我)
一元論だと
肉の体は現像世界
霊の体はブラフマンアートマン
仏教だと
肉の体は欲界、色界
霊の体は無色界
もっとも、華厳教ではこの三界も心が映し出したものと説くんだっけな(三界唯心)
その三界唯心を説いている法界にこそ霊の体があるかもしれない!?
こんな感じかなあ? >>323
原始経典の説く「意生身」やチベット僧の「虹化」(虹の身体)が該当しそうですが、
広義的には大乗でいう「化身」(ニルマーナ・カーヤ)に含まれるのかもしれません。
--------------------------------------------------------------------------
『「虹化(こうか)」とは密教の修煉者が長年の修煉を終え、この世を離れて天国へ行く際に見られる現象である。空に輝く
虹のように光を放ちながら身体が徐々に溶けて縮んでいき、修煉の完成度が高い場合は完全に溶けて消え、修煉の完成度が低
い場合は数十センチまで縮んだ身体が残る。小さくなって残った身体の姿形は本人と全く同じだが、鋼鉄のように硬くなる。』
(チベット密教僧の「虹化」実例)
http://www.epochtimes.jp/2015/12/24895.html
『仏がかりに現した姿をいう。サンスクリット語ニルマーナカーヤnirmakyaの訳。変化した身体の意。変化身(へんげしん)
ともいう。仏の三身(法身(ほっしん)、報身(ほうじん)、化身(けしん))の一つで、仏が生きとし生けるものを救済しよう
として、その生きものと同じ姿をとったものをいう。教化すべき人々の能力や素質に応じて現れる身体という意味から、応身
(おうじん)とも漢訳される。
三身とは(1)法身(ダルマ・カーヤdharma‐ka^ya),(2)報身(サンボーガ・カーヤsambhoga‐ka^ya),(3)応身(化身,ニルマーナ
・カーヤnirma^ṇa‐kaya)の3種,あるいは(1)自性身(スババーバ・カーヤsvabha^va‐ka^ya),(2)受用身(サンボーガ・カーヤ
sambhoga‐ka^ya),(3)変化身(ニルマーナ・カーヤnirma^ṇa‐ka^ya)の3種をいう。』
(コトバンク) 『また、このようにして心が安定し・・・堅固な不動のものとなると、比丘は思考から成り立つ身体(意生身を化作する
ことに、心を傾け、心を向けます。彼はその(物質的な)身体から、別の身体、(すなわち)形はあるが思考から成り立ち、
四肢も完全にそなえ、(目や鼻の)感覚器官もそこなわれないままの身体をつくりだします。
(『ディーガ・ニカーヤ第二経』出家の功徳/沙門果経85)
<訳注85-1>
父母から生まれた肉身ではなく、意によってつくり出された身体。形はあるが、物質的ではない。死後の中有の存在や、
禅定にはいったときの身体がこれに相当する。 しかし、ここでは、恵学を完成することによって、思いのままに、随意に、
自分の身体を物質的な肉体から離脱させることをいうのであろう。』
(『世界の名著1/バラモン経典 原始仏典』中央公論社刊p532-533) チベット密教僧の「虹化」実例・・・???
それらは神格化のための幼稚なフィクションで、そんなものを信じているようでは
真の宗教の世界を知ることはできません。
お釈迦様でもマハーヴィーラでもそのような最期の姿は伝えられていないでしょう。
真の悟りを知っている弟子達には、そんな空想話を作り上げる必要はないからです。
「沙門果経」などは悟りを知らなかった弟子達が観念の世界を現実として綴った
おとぎばなし経典であると考えるのが正しいでしょう。 沙門果経って初期経典だし有名だけどフィクション性強いんですか?
自分はくわしくないですけど他の初期経典と照らしてどうなんですかね
たしかに超常的なことが書かれて独特なかんじはあるけど 阿難が釈尊にその金色の美しい衣をお着せしました。
すると、不思議なことに、釈尊の皮膚の色が金色に輝き出したのです。
すると、釈尊は申されました。
「阿難よ、如来は二度皮膚の色を金色に輝かせる。
この二つの時間に、如来の皮膚の色はきわめて清らかに、美しくなるのである。
一度目は、無上の仏陀の悟りを得た夜であり、二度目は、無余依涅槃界に入る夜である。
阿難よ、今夜の夜の終わる最後に、クシナガラのマッラー族の林の沙羅双樹の間で、余は般涅槃に入るであろう。さあ阿難よ、河へ行こう」
ブックサが持ってきた柔らかい金色に輝く一対の絹衣によって釈尊の体は金色に輝いたという、現代の仏像が一般的に金色に輝いているのは、この故事に来歴していたのですね。
http://www.saikoji.net/houwa/houwa1110.html 私は(私の)師匠に初めてお会いした時に師匠が光を放っているように見えて
驚いたものです。金色に輝くとか光を放って見えるのは物理的なことではなく、
心の(霊性の)次元の話です。物理的な現象だと勘違いしてはいけません。
これは聖徳太子が「感応相承」と言われたものと同じ消息だと言えます。 >>332
>神格化
>幼稚なフィクション
>空想話
>観念の世界
>おとぎばなし
イヤハヤ...失笑
ゴータマは唯物論否定者なんだがね。
あなたこそ何も分かってない。 >>333
“三明とニルヴァーナ”の関係も
知らないような知ったかぶりなど信用しないほうがいい。
>>334
空海にも似た現象の記録が残されている。
穢れ(煩悩)が剥がれるほどに
“自性清浄心≒アートマン”の本来の輝きが増す。
最後は光だけとなる。 >>336-337
君は(自らの宗教体験がなく)本の知識だけで宗教の世界を夢想している典だね。
「この経典にはこう書いてある・・。・・・だと伝えられている・・。」 などと、
おとぎばなしを信じて一生を生きて行くつもりかな?
>ゴータマは唯物論否定者なんだがね。
唯物論を否定することが幼稚なフィクションを信じることにもつながると考えるよう
では幼稚過ぎますね。
正しい師に就くことなく、一人でオカルトまがいの宗教本をたくさん読み漁っていても、
何の体験も出て来ませんよ。 ↑ 訂正
夢想している典だね。 (×)
夢想している典型だね。 (○ >>338
“正しい師”って、
それはまさかの断滅唯物論者かい???
そして、この私をただの読書家にしてしまうような
その勝手な妄想癖こそ、これ如何に?
少なくとも、この私は超常現象については自ら体験しての確認済みです。
唯物論などチャンチャラ可笑しいね。
そんなものは分からない無知な凡夫の戯言に過ぎないから。
とにかく最低限、仏教を勝手に唯物論化するのは止てくれる? >>327
>二元論に立てば
>肉の体はプラクリティ
>霊の体はプルシャ(霊我、神我)
プルシャは「霊我」であって「霊のからだ」とは違う
>一元論だと
>肉の体は現像世界
>霊の体はブラフマンアートマン
これも「からだ」のことではない
>仏教だと
>肉の体は欲界、色界
>霊の体は無色界
これも「からだ」のことではない
やっぱり仏教は霊の「からだ」について直接的で明確な概念はないんかな
だから仏陀は仏教徒の視界から消え失せたんでないだろうか >>330
虹化はなんだか近い気がします
でも「現象の説明」のための概念で「からだ」にフォーカスがあたった概念ではないみたいですね
三身は「姿」なので「からだ」とは別軸ですね >>333
沙門果経は確かに六人通とか超常的なことが書いてあるけど、
同じ阿闍世王を題材とした浄土三部経の一つ観無量寿経の方がよほどフィクション性が強いし、
お伽話云々言い出すと切りがなくなるよ。 光の中にあって光を見ることは出来ない。
光を見るということは闇の中にいるということ。
闇の中にいる者だけが光を見、光について語るのである。
・・・これが大乗仏教の本質。
>>343
そうではないのですよ。
大乗経典は象徴なのです。彼岸に渡る為の舟なのです。
沙門果経のようなおとぎばなし経典とは次元が違うのです。 仏陀は仏教徒の視界から消え失せたけど、キリストはキリスト者の視界から消え失せず共に在るのは、霊のからだが原因ではないだろうか
仏教徒は仏陀という個別存在の働きかけを現代でもありありと感じているのだろうか >>333
沙門果経 仏教 原始仏典。仏教の中心思想を述べる重要資料。
これこのままコピペしてくぐってみてね >>346
>仏教徒は仏陀という個別存在の働きかけを現代でもありありと感じているのだろうか
そのような疑問が生じるのは仏教を勉強していないからですね。
個別存在はゴータマ・シッダールタであって、仏陀ではありません。
仏陀は個別的存在ではないのです。
>>347
「沙門果経 ・・・仏教の中心思想を述べる重要資料」 ???
まったくの間違いです。
原始経典の多くは玉石混交で創作がたくさん含まれています。
そのような教えによっては誰も悟りが得られないことが分かったので、
大乗仏教が生まれたのです。 >>346
如来(ニルヴァーナ)の不死性を理解できない
未熟な弟子によって姿を消してしまわれたのです。
いつの時代でもそう。
解脱した完成者というのは、唯物論者たちには「どうぞご自由に!」といってその奇跡を見せてはくれない。
けれど、正しい信仰を貫いている清き信者たちには、その“証”(祝福)を示す。
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1472976578/160
>>さらに仏陀はつづけて、八つの集、八つの(「悟り」の)境地、八つの解脱について教えを説いたあと、
>>以前の悪魔との対話の内容を話し、三ヶ月後にニルヴァーナに入ることをアーナンダに告げましました。
>
>>アーナンダは、はじめて事態を理解し、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しましました。
>
>>仏陀(ブッダ)は、修業完成者に懇請してはならないと答えましました。
>>アーナンダが三度おなじ懇請をしたとき、仏陀はつぎのように答えましました。
>
>
>>「アーナンンダよ、かつて私はラージャガハ(王舎城)においても、ギッジャクータ山(霊鷲山)においても、ヴェーサリーにおいても、
>>「修業を完成した人(如来)は、四つの大きな霊力を修したので、もし望むなら寿命のある限りこの世にとどまるであろうし、
>>あるいはそれよりも長くとどまることもできるだろう」とほのめかしたではないか。
>
>>そのとき、お前はその意味が洞察できなくて、「尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください」と懇請しなかったではないか。
>>もしお前が懇請していたなら、二度目までは退けたかもしれないが、三度懇請されたなら承認したであろう。
>
>>これは、お前の罪です。
>>お前の過失です。
>http://buddha-osie.com/last_trip/trip08.html >>348
>原始経典の多くは玉石混交で創作がたくさん含まれています。
>そのような教えによっては誰も悟りが得られないことが分かったので、
>大乗仏教が生まれたのです。
大乗こそフィクションのオンパレードでしょうが。
大乗諸経典は非仏説という仏教学の基本も知らないとは...。
少なくとも、実在したゴータマ・ブッダについて知るには原始経典に拠る以外にはない、
というのが覆すことのできはない基本的な定説なのです。
基本も知らないなら対話、辞めるわ >>350
>大乗こそフィクションのオンパレードでしょうが。
宗教体験のない人はそう思ってしまうのです。
>大乗諸経典は非仏説という仏教学の基本も知らないとは...。
君こそまともに仏教を学んだことがないのでしょう。
(私は大学の仏教学科で学んだ人間です。)
明治時代に 「大乗非仏説」が唱えられた時に大騒ぎをしたのは、仏教の素人
の人達だけだったことを知らないのかな?
非仏説の仏は、先にも述べたようにゴータマ・シッダールタのことであって、
仏陀のことではないのですよ。
原始経典は悟りの体験のない弟子達によってゴータマ・シッダールタの言葉の
表面だけをとらえて誇張と創作を加えて作ったものなのです。だから、お釈迦様
が亡くなられてからは悟りを得る弟子がいなくなってしまったのです。
大乗経典というのは悟りを得た弟子達が言葉の表面ではなく、お釈迦様の真意を
伝えるために新しく作った経典群ですが、それによって悟りを得る人達がたくさん
出て来たので、大乗仏教は印度全土に広まって行ったのです。大乗経典を作った人々
はお釈迦様の悟りを脈々と受け継いでいた本当の仏弟子たちだったのですよ。 大乗仏教でも結局悟りを得る弟子はいなかったのかいなくなったのかインドで廃れてしまいましたとさ。
結局ヒンドゥー教が覚者をたくさん輩出したのでヒンドゥーはインド全体に広まって大乗仏教を駆逐しました。 >>352
君も仏教を何も勉強していないんだね。
大乗仏教になってからは非常に多くの覚者が出て、玄奘のような中国僧
が大乗の経典と論書を中国に伝えるために命懸けの旅を繰り返したこと
は有名ですね。印度で仏教が滅びたのは好戦的・破壊的なイスラム教に
よるものですが、本体はもう中国に移っていたので大乗仏教そのもには
実害はなかったのです。
後のヒンドゥー教では仏陀は聖者の一人として扱われていますが、学者
の中にはタゴールのように「仏陀は頂点であった」と言うような人も
多いです。 宗教体験君
ID:TOO7PAXW = ID:Az3RXDm4 = ID:JcRcwyY5 = ID:w1z4XHAj = ID:aZ3g0Hx0 = ID:49hBLwAk
宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
AIBOよりも出来が悪いのでご注意を。 >>353
その玄奘がインドに来た時には既に仏教は完全に衰退期に入っていたし、
また玄奘は大乗仏教以外に説一切有部や声量部などの部派仏教が信仰されてた地域も残っていたことを報告している。
仏教が衰退したのはヒンドゥー教国家のグプタ朝の頃からでそれ以降衰退の一途を辿ることになった。
大乗仏教に傾倒するのは良いが嘘をついちゃいかんよ!
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80 魔境さんから大乗の匂いがまったくしない件について…w >>354
>宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
真実は一つなのだから、同じことを言うのは当然だろう。
書く度に違う内容の君達の方が間違っているということだね。
>>357
>嘘をついちゃいかんよ!
全然嘘じゃないだろう。
最終的にイスラム教によって破壊され駆逐されたのだから。
それに、説一切有部など原始仏教系統の教えは玄奘たちには魅力のない
内容だったので、大乗経典の研究と翻訳に全力が注がれたのだからね。
>>357
君は何が魔境かを判断できないだろう。 魔境さんは必ず文中に感情的な他者への批判、自己の賞賛の2点を入れ込みますな
ようするに、「おまいら全然ダメ、俺様スゲー」これが全てで、内容はこれに従属してますな
こんなことすらわからんくなるのが魔境だな
怖いですねぇ〜 >>359-360
感情面に注目・反応してしまうのは、君自身に原因があるのです。
それと、「無記」 の意味も全然わかっていませんね。勉強しましょう。 ん、感情面に反応できるのはレスにエゴエゴ感情が乗っかっとるからだろ?
エゴエゴがないところに反応は出来んから
だからマジレスすると、おまいに原因がある、に決まっとるでないか >>362
私と張り合っても仕方がないのだよ。年齢も全然違うのだからね。
余計なことに目を向けないで仏教を勉強することだ。 張り合ってると思ったんだね
あと、年寄りはそれだけで偉いと言っとるんだね
仏陀が悟ったのはおそらく30歳前後だろうが魔境さんの価値観的には若造が知ったような口をきいてからに、になりますなw >>341
まず「栄光のからだ」というのは調べたらパウロの教説じゃないの?
キリストは「永遠の命」では?ま、これも弟子が書いた福音書に書いてある言葉だけど。 仏教側の答えとしては、まずは基本の火ヴァッチャ経を抑えておくと良いと思うよ。
https://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/62268074.html?__ysp=54Gr44O044Kh44OD44OB44Oj
ヴァッチャよ、それと同じように、物質として如来を認知する者は、如来にはその物質は捨て去られており、
根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は物質という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、再生しつつ、
しかも再生しないというのは適切でなく、再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない。
感受として如来を認知する者は、如来にはその感受は捨てられており、
根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は感受という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、底が知られない。
それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、
再生しつつ、しかも再生しないというのは適切でなく、
再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない。
形成力として如来を認知する者は、如来にはその形成力は捨てられており、
根を断たれたターラ樹の幹のように消滅し、未来に再び生じないものであることを認知するであろう。
ヴァッチャよ、如来は形成力という呼び名から解き放たれており、大海のように深く、無量であり、
〔底が知られない。それゆえ再生するというのは適切でなく、再生しないというのは適切でなく、
再生しつつ、しかも再生しないというのは適切でなく〕
再生するのでもなく、再生しないのでもないというのは適切ではない。
意識として如来を認知する者は、如来にはその形成力は捨てられており、
(以下、物質・感受・形成力と同文) ま火ヴァッチャ経も福音書と同じく弟子による如是我聞なんだけど、
これによると如来は五蘊を捨て去っており、五蘊では認知できず、
「大海のように深く、無量であり、底が知られない。」ものとなっている、と。
そこで>>134w
>ヤージュニャヴァルキアは、死後に意識なしと道破した。
この言葉一つに捉われてしまった人がいるということだが、
意識というのは釈迦が分類した五蘊の一つであり
死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw >>365
共観福音書にも記載ありますよ
あと、キリスト教神秘主義(仏教でいう密教みたいなもの)でも詳しく語っとるのがあります
あと、キリストは「道であり、真理であり、命である」が正しい理解だと思われます >>369
>死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw
方便として説いただけなの。釈尊には「死」はないの。
だから、死に関することはすべて「無記」。勉強しよう。 >>369
>死に関することはすべて「無記」。勉強しよう。
如来の死後の世界については無記、勉強しよう。
しかも全てが無記ではないのは火ヴァッチャ経を読めば分かることよ。
五蘊では認定出来ない大海のように深く、無量であり、底が知れないことまでは語って、
それで死後の世界については無記とした。 横から失礼します。
無我についてですが、「無我である」と認識している主体は何ですか? >>351
>明治時代に 「大乗非仏説」が唱えられた時に大騒ぎをしたのは、仏教の素人
>の人達だけだったことを知らないのかな?
そうではなく、
日本仏教はシナ経由の天台仏教が流入したものであり、
すでに日本は大乗の宗派仏教に洗脳されてるから宗門は聞く耳を持たなかった。
そして、僧侶の中にこっそりと原始経典の勉強してるのがバレルと
宗門からは破門されてメシの食えない坊主にされてしまったのです。
つまりは見せ絞めということ。
>非仏説の仏は、先にも述べたようにゴータマ・シッダールタのことであって、
>仏陀のことではないのですよ。
史実の確認できる唯一の如来はゴータマだけです。
そのゴータマが説かれた教えが仏教であり、それ以外なし。
成仏の仕方は仏陀となられた御本人にしか語ることができない。
仏教とはつまり、ゴータマの実体験に基づくものです。
その伝承された教えが経典として纏められたのが原始経典。
すなわち、パーリ五部聖典と漢訳四阿含ということ。
大乗の如来というのは架空と設定上のホトケであり、
後代の弟子らが自分たちの勝手な内容を盛り込んで創作したものが大乗諸経典。
それは解脱成仏の体験に基づくものではなく、外道に由来するものです。
あなたは史実の唯一なる如来であり、
仏教の開祖であられるゴータマを「非仏説」などと呼称する仏教徒に有るまじき暴徒です。
>それによって悟りを得る人達がたくさん出て来たので
ハァ? 一体、それは誰々のことですか?
初耳ですな。 >>351
>君こそまともに仏教を学んだことがないのでしょう。
>(私は大学の仏教学科で学んだ人間です。)
『文献学研究の結果では、時代区分として、初期仏教(原始仏教)の中の仏典『阿含経典』、特に相応部(サンユッタ・
ニカーヤ)などに最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、少なくとも「大乗
仏典を、歴史上の釈尊が説法した」という文献学者はいない。
大乗経典は口伝伝承を前提としていないため暗記を容易にするような、単純な文を反復するという構成ではなく、その
内容も哲学的なものも多く、明らかに文伝を前提とする文章構造になっている。文献学的観点からは文伝を前提としてい
るのが大乗で、口伝を前提としているのが小乗である。
口伝伝承されており、その発祥時期も大方は明らかになっている小乗の経典に大乗の教えが見られない自体が大乗は口
伝で伝承されず、発生時期が小乗以後であるという文献学の根拠ともなっている。
大乗の経典を否定する上座部仏教の主張では、上座部の一部が経典を文字化した理由は大乗経典のような勝手な経典の
創作からこれまでの経典を守るためであったとされている。』(Wiki) >>373
本来、「無我」は“アートマンはない”という意味ではなくて、
“それらはアートマンではない”という「非我」の教えからきたものです。
無我をアートマンはないなどという意味の存在論へと変色、誤認したのは部派でした。
そして、結果的にはニルヴァーナをニルヴァーナであるとして知覚するのはアートマンだといわざるえないのです。
ただし、アートマンの有無そのものについては無記の姿勢でしたが…。 >>367
>意識というのは釈迦が分類した五蘊の一つであり
>死後には無いというのは釈迦も説いていることなのにねw
ゴータマは、「識」が輪廻主体であると明言しました。
当然、それは死後にも継続するので「断滅」しません。
ただし、これをアートマンと勘違いする者がいるから、
誤認してはならないと弟子たちを諭したのです。 >>374-375
>史実の確認できる唯一の如来はゴータマだけです。
>そのゴータマが説かれた教えが仏教であり、それ以外なし。
それは何の宗教体験もなく、ただ言葉の上だけで仏教と関わっている
哀れな人々に共通する見解なのです。
数学(微積分学)に例えれば、ニュートンから微積分学を学んだ人々が、
ライプニッツの方法で同じ問題を解いた人に対して、「それは正統な表記法
ではないので答えも間違っているはずだから認めない」 というのと同じぐらい
馬鹿げた考え方なのです。
ゴータマ・シッダールタに現われた真理が尊いのであってゴータマという個人が
尊いのではないのです。初期の弟子達はそのことが解っていなかった為に釈尊の
言葉を表面的にしか理解できず、重要ではない原始経典が沢山残されてしまった
のです。
>ハァ? 一体、それは誰々のことですか?
その書き込みによって、何も仏教の勉強をしていないことがバレてしまったね。
君のような浅はかな考え方をしている人は元オウムの人に多いから、君もオウム
だったのかな? 大乗仏教に目覚めてオウムときっぱり絶縁した人の中には立派な
境地になった人達もいるようだから、君を彼らを見習うとよいでしょう。 ↑ 訂正
君を彼らを見習うとよいでしょう。 (×)
君も彼らを見習うとよいでしょう。 (○) >>375
>最初期の教え(釈迦に一番近い教え)が含まれていることがほぼ定説になっており、
それは「文献学」としてそう言えるということに過ぎず、宗教的には無意味なのです。
数学の大学教授が小学生に算数を教えた時に、その小学生たちがノートに書き留めた
内容はその教授が直接に話したことだからと言って、その内容を大学教授の数学の世界
だと考える愚かな人はいないでしょう。原始仏教至上主義の人達はそれと同じ愚かなこと
をしているのです。(それは宗教体験を持った時に初めてわかることなのです。)
「大乗非仏説論」などは、本物の宗教体験のあった僧侶・学者にとっては何の意味もない
ものだったのです。 >>377
「死後には[識別する]意識samjna(仏教でいう想蘊)は存在しない、は梵我一如を達成した解脱者の場合ね。
凡夫はブラフマンに帰入しないのでsamjnaは存在し続けて輪廻する。
これがヤージニャヴァルキヤの思想。
釈迦も解脱者(如来)は五蘊は捨てられているとした。
これは解脱者の話、そういうことね。
4.4.6 [ヤージニャヴァルキヤはつづけた]「これについて、[次の]詩句がある。
それゆえにこそ、執着のある人は[輪廻における]微細な原理lingaであるかれの心manasが執着しているところに、業とともにおもむく。
この世においてかれがいかなることをなそうとも、その行為の終末(=報い)を得て、かの世から、またもとどおりこの世に還って来る。
――行為をなすために。以上は欲望をいだいている者である。
次に欲望を起こさない者(=解脱した人)を説こう。
欲望を起こさず、欲望を離れ、アートマンのみを欲望として、欲望を達成した人からは気息は出て行かない。
[それら(気息)はそこ(=アートマン)に合一するのである。
彼は]すでにブラフマンそのものであるがゆえに、ブラフマンに帰入するのである」と。 >>358
>それに、説一切有部など原始仏教系統の教えは玄奘たちには魅力のない
>内容だったので、大乗経典の研究と翻訳に全力が注がれたのだからね。
仏教大学では説一切有部を原始仏教系統などと出鱈目教えるの?
せめて小乗仏教系統というのなら話は分かるけど
あと玄奘は説一切有部の教理が大半を占める阿毘達磨倶舍論30巻を翻訳してるんだけど仏教大学で習わなかった? >>383
『阿毘達磨倶舎論』は後に大乗仏教哲学者として大活躍をした「世親」の
著作だったので、関連を研究するために翻訳する必要があったということ
ですね。著者が「世親」でなければ完訳することはなかったかも知れません。
日本で研究されて倶舎宗ができたのも同様の理由によるものです。
大学者がまだ若かった頃の著作・研究を調べることには大きな意義がある
ことは他の学問でも同様ですね。 六足論
阿毘達磨発智論
阿毘達磨大毘婆沙論
世親関係なし 大乗仏教というものが解っていない人があまりにも多すぎる。
大乗仏教というものの本質が解れば、仏教は大乗と非大乗に分けてよい
ことがわかるはずだ。それ以上の分類はどうでもよいのである。
大雑把に言えば、煩悩を滅して悟りに至ると考えるのが非大乗で、煩悩の
あるままで悟るのが大乗である。
小乗は一人乗りの舟で、大乗は大きな客船に喩えられることがあるが、
その喩えの真意を理解している人は非常に少ない。小乗は一人で悟る道で、
大乗は大勢で悟る道だなどと考えているようでは話にならない。
端的に言えば、小乗というのは個人が存在していることを前提にして求道
を始めるのであるが、大乗では先ずそれが誤りであることを知ることが
出発点になるということだ。
「個」が浄化されて行って普遍的なものと合一するのではないのだ。
これが解らなければ大乗仏教の道に入ることは出来ないと言ってよい。 >>386
あなたが小乗仏教だと思っている、その仏教で修行している人たちが
修道の過程でなにを経験するかというと、その個人の自我がもともと
虚構であることを知るんですよ。
しかも、概念智としてではなく、体験智としてね。 >>381
>本物の宗教体験のあった僧侶・学者
いつもの、中論を読んで悟ったと言ってる人でしょう。
脳内仏教乙。 >>387
>修道の過程でなにを経験するかというと、その個人の自我がもともと
>虚構であることを知るんですよ。
君も、「修行を続けていけば、いつか自分もそうなれる それも体験智で」
と思っているのでしょう。
それが間違いなのです。だから原始仏教・部派仏教は印度で衰退して行ったのです。
>>388
頭は大丈夫かな?
仏教の入門書しか読んだことがないの? 五蘊であるところの自己は無我であって、もともと執着の対象ではないのだから
>>386 の批評は的外れ。
頭で考えた「僕の仏教」でしかない。 >>390
そのまま求道を続けて行っても、晩年に後悔することになりますよ。
世親(天親)が舌を切ろうとした逸話でも調べて、よく勉強することが大切です。 キリスト教もスピも仏教も一緒やな
必ずエゴエゴの魔境を生んどる >>392
それはまったく間違いなのだよ。
日蓮上人があれだけ他宗を強く批判したのも、自らが歩んだ道によって
必ず人々が救われるという自信と信念があったからなのだ。
だから、宗教者たちが自分の宗教が正しいと言って論争するのは何も間違っては
いないのだよ。それが個人のエゴに見えるのは、宗教体験を知らずに宗教が道徳
の完成か何かと勘違いしている人間だけなのです。 例えば、妄想で相手の言ってることミスリードしても気付かん酷い人とか >>394
ミスリードの正しい意味を勉強しましょう。 今日の宗教体験君ID:1gimmpbw
ID:1gimmpbw = ID:TOO7PAXW = ID:Az3RXDm4 = ID:JcRcwyY5 = ID:w1z4XHAj = ID:aZ3g0Hx0 = ID:49hBLwAk
宗教体験君は過去レス見るとわかるけど同じ事しか言いません。
パン君よりもコミュニケーション能力が有りませんのでご注意を。 魔境って基本的に教条主義だけど、エゴの都合の良い解釈を教条主義的に扱うんだな
だから、自分の発言のコピペになる
相手が誰かとか、何について話し合っとるか、
とかどうでもよいわけだ
ただエゴエゴ教条のbotと化すわけだな 真実は一つなのだから、いつも同じことを言うのは当然なのだ。
宗教体験のない者は核となるものを持っておらず頭で考えたことを
言うしかないので、いつも言うことがコロコロと変わるのだ。 第十八章 我に関する考察
もし諸蘊が我であるのならば、生滅あるものとなるだろう。
もし諸蘊とは異なるのなら、蘊の特質は無であることになる。
我が有るわけではないのに、我所が一体どうして有るだろうか。
我と我所とが寂滅するが故に、我執と我所執も滅するのである。
我執と我所執を欠いているもの、それもまた存在しない。
我執と我所収は無いと見る者、彼はまた何も見ていない。
内部でも外部でも、我と我所執が尽きているならば、
取は滅するだろう。それが尽きることで生も尽きることとなる。
業と煩悩が尽きることから解脱はある。業と煩悩は分別による。
それらは戯論より派生するが、空性によりそれは滅することとなる。
我であるとも増益されるし、無我であるとも説かれている。
諸仏たちは我と無我とのいづれもが無いと説かれている。
語られるべきものは消滅している。心の活動領域が退けられているからである。
不生不滅であることが、法性なのであり、涅槃に等しいものであるからである。
すべてのものは正しく、また、正しくなく、正しく正しくなく、
そして、正しくなく正しくなくない。これが諸仏の教えである。
他によって知られず、寂滅しており、戯論によって戯論されず、
無分別であり、別異なる対象ではないもの、それが実義の特質である。
何らかのものを縁として起こっているもの、それはまずそれ自身ではない。
更にはそれとは異なるものでもないが故に、それ故に不断・不常なのである。
同一の対象でもなく、別異なる対象でもなく、不断にして不滅なるもの、
これが世間の救い主である仏たちの教えの甘露である。
正等覚が未だ出現しておらず、声聞たちが既に滅している時でさえ、
独覚たちは智慧を師によらずとも生じるのである。
https://www.mmba.jp/archives/17129
中論によると煩悩や業は空性であり、第二十四章をも踏まえると世俗諦ということになるのだろうが、
仏性や如来蔵は空性なのだろうか?彼岸に行ったら捨てられる筏に過ぎないのだろうか? >>373
認識する主体をプルシャという
心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たるプルシャは自己本来の態にとどまることになる。
ヨーガとは心の働きを止滅することである。
(ヨガスートラ1-3) 真我 と 智慧 #ニサルガダッタ・マハラジ
真我を忘れることが暗闇なのだ。
真我ではないものごとのなかに没頭するとき、私たちは真我を忘れてしまう。
それは不自然なことではない。
しかし、なぜ過剰な執着のために真我を忘れることがあろうか?
体験者と体験の両方の源である真我をけっして忘れないことのなかに智慧があるのだ。 >>402
プルシャと呼ばれるものは、ブラフマンと同一化されているのですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています