598-686 ひのふのみー さん [1/27]

耳はすべてを聞いている、か。そこには耳になったところのバカがいることになる。自我ではなくして耳になれば良いのか。

自分はバカでないと考えている、か。それはバカの邪推である。それは邪推しているバカである。自分のバカを棚にあげて、耳になれ、と説教しているバカである。

バカ鬼和尚は、自分はバカでない、と考えているのか。答えよ。他人に聞く前に自分の答えを出せ。どちらが、バカ宣言をするか、の問題である。優先権などはない。バカをやめろ。

他人の評価をしていないで、自分の評価をせよ。バカ判定をせよ。自分のバカ判定を避けているバカである。悟れば、そこにはバカ判定の主体は存在しない。対象も存在しない。

質問していないで自分の答えを出せ。悟っていないから、そうなる。それは人間関係の問題である。そこに、あるのは、悟りとの関係ではない。そこに、あるのは、愛、憎悪である。

悟れないバカは、逃げまわれば良い。自分でバカとは言えない、か。自分がいないと、バカである自分もいない、ということである。早く、悟れ、や。

何を悟ったか。他人に聞く前に、自分の悟りを提出せよ。悟っていないバカの言うことである。悟っていない、と言いながら、相手方に悟り、を聞くか。唯仏与仏である。

悟ったことのないバカが言うことである。邪推しているバカである。悟ってたら、自分がバカでない、と答えられる、か。それはバカの段階である。それが悟りの段階である。

仏法は生理学、生物学ではないからである。音という物理学の問題ではない。白隠もバカの仲間である。教師としては失格である。思考経済。ちんぽの音が問題となるかもな。

音の問題ではない。だからして音がない、と設定することになる。音を聞くことに努力しないで、音をなくすことに努力せよ、という問題である。その、なくす、ができれば卒業である。

音という対象の問題ではない。その対象をなくする主体の問題である。師が、ちんぽ、をナイフで切り取ったらば、弟子が悟った、という話がある。

自分のやり方を提示する必要がある。それを検証するだけのことである。自他一如を覚知すれば、音が消えるのか。消えないだろうが。簡単にできるかや。 』


→ やっと見つけたんだろうね、此処。