458-462 返信:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2017/02/18(土) 05:04:58.07 ID:odPp72h5 [1/5]
>>451
ありがとうございました、質問はこれにて終わりとさせて頂きます。以下、他からご教示頂いた話です。
1.「前三三、後三三」は修行僧の人数ではなく、その文字のままに参ぜよ、つまり何処迄も「前三三、後三三」のまま観念や分別を無くしていき、そして観念や分別が無くなった時、「前三三、後三昧三」がそのままに残るだろ?とのご教示でした。
2.片手の公案は法身の公案で、1.と同じく観念や分別を潰させるのが目的だそうです。片手を見てみろとのご教示でした。
やはり、観念や分別が無くなったとき、片手がそのままに残るだろとのご教示でした。
3.百丈野狐の話ですが、これもやはり観念や分別無くした時に、人間は人間のまま、狐は狐のままに、どちらか良いとかではなく、ただあるだけとのご教示でした。
4.見性とは、例えば闇夜にカラスが鳴いてカラスの存在を知るように、何かの機縁に触れて自己の存在が知られる事を知る事だとのご教示でした。

やはり、本当に見性体験された方は答えも全然違うものですね。貴方もご参考下さい。

尚、返答は一切お断りです。しかしまぁ、呆れたもんです。

無師独悟?独覚?冷暖自知?

明らかに精神を病んでますよ、この方は。麻三斤は禅機、眼横鼻直は悟りの説明。奪人不奪境、人境倶不奪。コメントお断り。 』


社会的存在である、事を、拒否する、のは、リアルに不可能なのですが、どうですか。