【本家】修証の書 2 [無断転載禁止]©2ch.net
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あやつは、いったい何がしたいのであろう
修証の書は、宗教2ちゃんねるが誇る由緒正しきブログなのである
信長が比叡山を焼き討ちして以来の大惨事であろう オレもまことと初めて会った年になっている
10年前のオレはまだ若く、突っ走るだけの男だった
シロクロつけることしか頭になく、中間のグレーという発想がなかった
ましてや、証拠がないことを良いことに、まことを陥れるなんて発想はなかった 今日は朝から天気が良くて、青空も高くて素敵な一日でした。
昨日雨がすこし降りましたので、その分空気が澄んでいます。
大気に漂う埃を、雨で流してくれたのでしょう。
お庭の木々の緑や、先日プランターに植えたパンジーの花も、
ぴかぴか輝いて見えました。
一昨日、わたくしの幼馴染たちが遊びに来てくれました。
さきほど空港まで送ってきたところです。
1泊目は近所の温泉旅館にふたりでお泊り。3人で川の字になって眠りました。
2泊目は我が家で手料理をふるまい、のんびりしてもらいました。
彼女たちは無類の美味しいもの好き。
いまどきの女子なのです。
なのでお土産は悩んだ末に、地元の素朴なお菓子と、瓜・にんじん・ごぼう・生姜の自家製味噌漬けに。
この土地の野菜を、この土地の麦味噌で漬けました。
凝ったものでもないのですがとても喜んでくれて、わたくしもほんとうにうれしく想いました。
幼馴染たちは、こんなに生まれ故郷から離れてひとり暮らしているわたくしを、いつも心配してくれていましたから、
わたくしの穏やかな日々の暮らしを実際にともに過ごしてみて、
すこしは安心してくれたのではないでしょうか。
「元気そうだね」を連発してくれて、わたくしもちょっと照れてしまいました。
幼馴染、同級生や同期生、恩師、かつての職場の同僚や上司、趣味のお友だち、
かつてのご近所さん、いまのご近所さん、
実際に会ったことはないけれどインターネットで仲良くしてくれるみなさん、
ずっとつながりを保ってくれるみなさんがいて、
わたくしはだいぶ救われています。
離れているか近くにいるかに関わらず、そういうみなさんがわたくしを支えてくれています。
寂しく感じることはありません。
いつも感謝の気持ちを忘れないでいたいと思います。 >>91
ヘラクレイトスのお話、楽しく読ませていただきました。
柚子森さまのお話は、わたくしのなかでいろいろな想いをかきたてさせる、エネルギーがあるようです。
読むたびに、ざわざわと心が動くのを実感いたしますし、
もっともっと学びを大事にしたいなといういくらか切迫した気持ちも抱きます。
「わたしがわたしであることの不思議」なんて、ただの言葉遊びではないの?
そういう方もいるでしょうし、正直、以前のわたくしでしたら、
そのように即断して、そのあとは一切考えることもないこと、
柚子森さまのお話を伺っていると、そこに深刻な問題を含んでいることに気がつかされます。
柚子森さまのお話には、どこか単なる知識だけではないものがたくさん含まれているように想えるのですが、
それがなにかつかめきれずにおります。
知恵と智慧の違いといいますか・・・
柚子森さまはこのふたつの違いについてどう考えておられますか?
なんだか笑われてしまうような質問なのですが(苦笑) >>103
ちょっと心配しちゃいましたが、お元気そうでなによりですた。
「知恵と智慧の違い」ですか…
辞書をひけば、その違いもわかると思いますが、
たぶんそういう辞書的な定義を求められているわけではないのでしょう。
ふつうに考えれば、知恵は経験によって得られた知識で、
智慧は経験知を超えた、真理に関する知識、という感じでしょう。
これは、古代ギリシア哲学においても仏教においても、かわらないと思います。
が、俺はどちらかといえば経験主義を尊ぶ人間ですし、
絶対的な、万人にあまねく価値がある真理などほんとうに存在するのだろうかと考える、懐疑主義者です。
だから、この辞書的定義とは別のことを考えます。 >>103
たとえば、「リーマン予想」という、19世紀に発表された数学の世界では重要な問題があります。
たくさんの数学者がトライしては跳ね返され、いまだに未解決なままの素数に関する問題です。
問題がどんな内容かということは、まあほんとにおもしろいんですが、
数学に興味がなければどうでもよいことではあります。
ですが、リーマン予想の証明をめぐって、20世紀から21世紀にかけて、おもしろい動きがありました。
リーマン予想は、素数論のなかで解決される問題で、たとえ証明に成功しても、
それは純粋数学の範疇でしか応用のしようがないだろうと長い間考えられてきました。
しかし、あるとき、ゼータ関数の零点分布と、
(なんのことかわからないかもしれませんが、リーマン予想と関係がある重要な数学上の発見です)
原子核物理学に深い相関性があるという発見がなされ、
「実は自然界のベースには、リーマン予想が深いかかわりをもっていそうだ」という推測が、
物理学者たちのあいだに広範にひろがりました。
さらにその後、リーマン予想が「非可換幾何」とも関係があるという発表があり、その推測は決定的になりました。
なぜなら、非可換幾何は量子論を論じるうえで欠かせない数学的手法であるからです。
リーマン予想については、数学を扱うひとたちはたいがいその中身を知っています。
それくらい有名な問題で、しかも、その予想するところが、数学的にきわめて美しい。
その純粋に数学的で、抽象的な観念の美が、世界のリアリティと(おそらく確実に)つながっている。
それに数学者たちや物理学者たちは慄然としたのです。
この「人間を慄然とさせる」知識こそが、智慧なのではないかと思います。
リーマン予想というのは、それ自体は無味乾燥な、まだ未証明の命題にすぎません。
しかしカチリと、自分の深いところで知識がこの世界と結びついたとき、
それは智慧に到るように思われます。
知識が形而上の世界に関わる真理であり続ける限り、なんら智慧ではありません。
それが、人間ひとりひとりの固有な経験や存在と、あるレベルでしっかり結びつかない限り、
智慧とは言えない。 >>103
ピュタゴラスだって同じです。
ピュタゴラスが発見したといわれる有名な三平方の定理は、フィボナッチ数列に展開でき、
それを楽器の弦の長さに移せば、ピュタゴラス音階を表現することができます。
音楽という経験に移すことによって、ピュタゴラスは、はじめて真に、
三平方の定理を智慧にまで高めることができたのではないでしょうか。
プラトンの書いた『メノン』という対話篇でも、
ソクラテスが子ども相手に、2倍の面積の正方形を作る方法を一緒に考えます。
ソクラテスは、有名な「想起説」を説明するために、この数学の問題を考えるのです。
経験と結びついてない知識は、智慧にまで到らないことも、このお話のテーマであるように思えます。
(『メノン』はとてもおもしろい対話篇ですから、
ご存じなければ、いつか暇なときに読まれてみてくださいw)
俺にとっての知恵と智慧の違いは、一般的な定義とはまるで逆です。
智慧こそ、自分の経験と結びついていないといけないものです。
ですから、学力だとか生まれながらの頭の良さだとか、そういうものとは関係ありません。
リーマン予想は、数学にも物理学にも興味がないひとにとっては、絶対に智慧にはなりません。
だからこそ、他人の大切にしている智慧を指して、
「おまえの後生大事にしているその知は、ぜったい智慧じゃありませんから。単なる知恵でしかないから」
なんて判断もできません。
まあ、この板には、
そう簡単に言い放って平気なひとは多いんですけどねw まこと君
ネット検索を自分の知識かのように言う暇があったら
座禅のひとつでもしな 今日もいいお天気。
散歩の途中、ホトケノザが咲いているのを見かけました。
明るい紫色の、小さなラッパみたいなかたちをしたお花です。
たくさん咲いているので、ぼんやり見てましたら、そこに小さなちょうちょがひらひら。
黄色いちょうちょですから、きっとモンキチョウかな?
昨日と今日のぽかぽか陽気で、少し早めに羽化したのでしょう。
蜜を吸いたげにホトケノザの周りをひらひら舞ってましたので、
吸蜜の様子が見れるかな?と想い、しばらく見ておりましたが、なかなか翅を休めてくれません。
きっとわたくしの視線が気になるんだろうなと考えて、その場を離れてあげました。
たっぷり蜜を吸えたかしら。
雨の音もわたくしは好きですが、やっぱりお天気は元気になりますね。
縁側に寝転んで本を読んだり、散歩をしたり、
今日は大根と人参と椎茸を適当に切って、しばらく天日で干しました。
お日さまの力で甘みも増して、きっとおいしくなると想います。
今夜の夕食は、昆布出汁で煮た優しい味の煮物にしてみます。 >>106
ほんとうにありがとうございます。
ものすごくしっくりいたしました。
わたくしが言葉にできないでいたもやもやが、一気に晴れた気がいたします。
それこそ、「カチリと、自分の深いところで知識がこの世界と結びついた」実感を得ました。
わたくしも知ることが大好きな人間ですが、以前信仰していた宗派では先輩信徒の方に、
「多すぎる知識欲は人を不幸にしますよ」と諭されることもありましたし、
この掲示板でもそういう方々は多い気がいたします。
信仰を、自分自身の知識の足りなさに対する言い訳としてこの方は使ってはいないかと、
うがって考えてしまうこともあり、そう考えてしまう自分に自己嫌悪しておりました。
しかし、「智慧はひとそれぞれに違うものだ」という柚子森さまのお話で、
わたくしもだいぶ気持ちが楽になりました。
柚子森さまの立ち位置は、個人主義のように見えてそうではなく、
普遍的に物事を見つめているようでそうでもなく、
ちょうどその真ん中の、微妙なバランスがとれた視点に立ったものですね。
「まじめにふまじめ」「ふまじめにまじめ」のお話も、おそらくそういう視点に拠ったものなのでしょう。
串田孫一の本を読み始めました。
ソローの本はちょっと難しそうですので、まず串田さんの本から(苦笑)
わたくしも山登りをしたくなってきました。
あまり詳しくない野草や昆虫の知識も、これから増やしていきたいなと考えております。
これからも、たくさんのこと、ご教示くださいませ >>110
> ものすごくしっくりいたしました。
それはよかったw
でもあんまり俺の話も真剣に聞かないことですw
というか、あまり学ぼう学ぼうと真面目に構えすぎるのもどうかと思わなくもありません。
「まじめにふまじめ」「ふまじめにまじめ」みたいな調子でちょうどいいかもしれませんよw
思うに、「気づき」というか「発見」というか、
そういう自分の心へのインパクトが大切なのかもしれません。
予期しないプレゼントやサプライズというものは、すごく楽しいじゃないですかw
それと同じで、急にどこかから舞い込んでくる気づきというもののほうが、
自分の心に結びつきやすい。
もちろん、サプライズに気がつかないような鈍さ、注意散漫さはいけません。
玄関にプレゼントが届いているのに、気がつかずゴミ扱いしちゃったら、元も子もない。
だから注意深くないといけないのも確かですが、
いつもお金が落ちてないか目を血走らせて道を歩くのも、なんだかヘンです。
なんでもほどほどに、楽しみながらでいいのです。
赤い糸さんの生活は、レスを読む限りとても丁寧で、日々の暮らしのなかの気づきも多いのではありませんか?
むしろ、そんな日常のなかの気づきのほうが、価値があるものかもしれませんよ?
なにか気づきがあれば、俺にも是非教えてくださいませり。 修行者が戒めなければならないのは「成ずべき仏や得るべき法、修すべき法がある」
という思いである。
この思いがある限り道から離れてしまう。
念念無相、念念無為であるのが仏である。
修行者がもし仏になりたいと欲するならば、一切の仏法を総て学ぶ必要はない。
ただ無求無執着を学びさえすれば良いのだ。求めることが無ければ心は生起しない。
また執着することが無いならば心は消滅することも無い。
まぁいいじゃないのこういうのも。お二方。
一途に。では、10年も坐禅したらどうなるのだろう。どんな心境になるのだろう。
現実と同時に幻想。amaさん風。
幻想もまた嘘ではない。
>なぜ無になったはずのわたしが、わたしとして復活しうるのか、ということです。
知らんw >>112
> 幻想もまた嘘ではない。
なるほど、そうであろうともさw
そのように生きていければそれもよいであろうし、
しかしそのような信念体系はまったく俺の好みではないので、俺自身は放棄する。
そのへんはまったくもって個人の自由なのさ。
自分に残されている時間、この有限の生をいかように生きるかは、
熟慮のうえで個々人が判断すればよい。
俺は読書をし、音楽を聴き、美しいものを見て、うまいものを食い、
娘や嫁の話をよく聞き、友人と友愛を交わし喧嘩をし、
蔑まれようともひとりの社畜として懸命に働き、
旅行先でいままで見たことがないものを見て、普段と違う空気を吸い、
楽しみ、歓び、怒り、悲しみ、
それをすべてリアルなものだと確信して死ぬ。
これほど幸せなことがあろうかね。
その瞬間を考えるほどに歓びに震えるねw >>114
どう見ても社畜氏の文体だしw何のための自演なの?
インテリの考えることは謎だwネカマ属性もあるとはwww 今日の精進食は、白ネギのブイヨン煮に
玉子とエノキのポン酢和えじゃ
それをメシで喰べるのじゃ
なかなかの美味なのじゃ 今日は、粕汁と炊きたてのメシなのじゃ
豚肉と鮭も入っているのじゃ
肉や魚が入ってる、と、細かいことは言いっ子無しなのじゃ でまことに習い、オレも難癖をつけてみる
これが、また、おもぴろい
もともと、こちらも議論なんてするつもりがないから、好き勝手なことが書ける
その好き勝手なことに、まことは振り回されているわけである
難癖の口実など、後からどうにもなる
まことのキチガイ言動はこれである 大学時代、オレは芸能人のエッセーをよく読んだ
芸能人といえば、一般に人生の成功者だが、自由業と言える
つまり、芸能人に引退はなく、たとえ、やりたくても、呼ばれなければ仕事が出来ないわけである 欲しい物は、欲しいと言え
芸能人のエッセーには、こういうことが、よく、書かれていた
たとえば、ベンツが欲しいなら、借金してでも買え
好きな女がいれば、迷うことなく肩に手を回せ
とのことである 簡単に言うが、容易なことではない
借金してベンツを買うとして、借金地獄にならないか
女の肩に手を回して、嫌われないか
普通なら、そう考える
が、度量がある者は、そこから先も考えているのである
そう言った意味では、考えることそのものが度胸なのである 度胸と違い、向こう見ずは、計算せず大胆な行動を取ることである
計算もせず、ベンツを買えば、借金地獄になる
計算もせず、女の肩に手を回せば、嫌われ、その後、疎遠になるに決まっている また、考えるそのものにも、才能が必要らしい
才能がない者が勝つには、才能のある者と交友を深めるか読書しかない
逆に言えば、才能のある者は、読書など必要ないわけである 嘘というのは酒と同じだ
そう言った者がいる
浮き世には嘘が必要であり、ほどほどなら、みなが幸せなわけである
人を楽しませる嘘もあれば、自分の面子を守る嘘もある
多少の嘘なら、みなが笑い、和やかになるのである 以前にも書いたが、賢者が愚者から学ぶことである
まことは、自分の長所を知らないらしい
ゆえに、力の使い方を知らないわけである
力の使い方を知るには、それを知っている面のに聞くか
読書をするほかない オレは、独り言の癖があるらしい
「らしい」と言ったのは、オレ本人が、まったく気付いていないのである
他人に怪訝な顔をされて気付くときもあれば、友達に指摘されることもあった
中には、仲の悪いやつの前で、堂々と悪口の独り言を言うこともあった 久々にすき焼きを作った
まず、牛肉を沸騰した湯に入れる
牛肉というのは灰汁が強い
ゆえに、「一番出汁」を捨てるわけである
いきなり、牛肉をワリシタに入れれば、灰汁だらけのすき焼きになってしまう ワリシタであるが、今まで辛めを作っていた
砂糖が少ないのである
それはそれで美味しいと思っていた
ふと、砂糖を多めのワリシタを作ってみたら、なかなか美味いすき焼きが出来た ここ数年、野菜をよく採るため、和食を作るようになったが奥が深い
もともと、和食が嫌いなわけで作る機会が少なかった
海外から見ると、日本人は草を喰べて生きているように見えたらしい
しかし、草同然のものを、いかに美味く作ろうかと思えば、必然と奥が深くなるのではないか 余談だが、魯山人すき焼きを作った
要は、ワリシタに牛肉を潜らせ、しゃぶしゃぶのように喰べるのである
若い頃は物足りたかったが、今になって喰ってみると、なかなか上品で美味かった
以前にも書いたが、魯山人すき焼きは灰汁で出汁がスグ駄目になってしまう
まあ、素人には、あまり気にならないとは思うが 10年以上、一度も外さなかったピアスを昨日外した
肉体の一部になってただけあって、何やら淋しい思いである
オレ達の高校時代、ピアスが流行った
とくに、オレは輪っかのピアスに憧れのようなものを持っていた が、時勢は変わる
今のオレのはピアスは必要がなくなった
なぜ、あれだけ輪っかのピアスに憧れを持ったのかは覚えていない
ただ、大学時代の女が、やたらとピアスを薦めてきたことだけは覚えている 図書館で、臨床心理士試験のテキストがあった
オレは、大学時代、心理学を専攻したし、心理学系の著書も読破している
とは、言っても、ベストセラーの著者は心理学者が多い
その程度である さて、その臨床心理士試験のテキストを速読術と記憶術を使ってやってみようと思っている
貸し出し期間は2週間だから、どこまでやれるか見物である
速読術においては、読むスピードが4倍になった
記憶術においては、2倍である 最近、何気なく、ありのままという言葉を使った
すると、まことが反応したので、軽く意味を話した
つまりは、ありのままとは、完璧な無を表している
ありのままは、口では説明出来ない
オレの中では境地を得ない限り、辿り着けないと思っている ありのままの境地を得ると、文字通り、ありのままになる
心の中は、完璧に空っぽになっている
ゆえに、周囲の音が心の中で鳴り響く
見えているものすべてに合否がなくなるのである
初めてこの境地に辿り着いたとき、途方もない快楽が訪れた
悟った感覚とは、こういうことを言う オレは餃子があまり好きではない
が、ワンタンは好きである
友達と飯店に行ったとき、オレだけ餃子をたのまない
餃子が嫌いなやつがいるのか、と、言われたが、別に嫌いなわけでなく、好きでないだけである めざましテレビで、王将の餃子のレシピがやっていた
レシピと言っても、めざましテレビ班が独自で作ったものである
王将店長は、70点と言った
これは低いと言っていい
点数にはお世辞が含まれているものである aaと違い、王将の味は店によって違う
味にこだわったaaと流派が別れていった王将との違いだろう
だから、近所の王将とは味が違っていたが、まあまあ、美味かった
ただ、王将の餃子に、一味を入れているとは知らなかった が、オレは、まことの姑息行為を高く評価している
人間というのは、子供時代は姑息行為を取れる
が、品行方正というか、大人になると、貴徳な感情が邪魔して姑息行動が取れなくなる
姑息行為が取れる者だけが笑っている
余談だが、心理学の見地では、姑息行動が取れて人間関係を上手くやることは出来ない
才能がなければ出来ないわけである
ゆえに、まことは、通用していない ワールドベースボールクラシックが始まった
面白いような疲れるようなである
昔、なぜ、プロ野球は国際大会がないのか疑問に思った
そして、日本のプロ野球が金メダル並みとしても優勝するとまで思っていなかった まさにワールドベースボールクラシックは、プロ野球ファンからすると堪えられない大会である
ただ、オールジャパンは非力な野球はどうであろう
阪神のような野球に思われる
機動力を生かし、ピンポン玉のようにホームランを打てないものか
だから、壮行試合で台湾に敗れることになる オレは謙虚な男である
まことのような見栄の塊から見たら、もっと嘘をつけ、くらいに思うだろう
向上心の表れかもしれない
望みが高く、その望みに対して自分を比較する
どうしても謙虚になる
言ってみれば、オレは昔から下を見ない
それどころか下に優しい
上を見て生きてるため、下に優しく出来るゆとりある男なのであ WBCワールドベースボールクラシックの壮行試合で、日本が台湾に一矢を報いた
格下のチームだから、一矢を報いたとはオカシイが、勝って当たり前の勝負に一昨日負けたのだから仕方がない
要は今大会「も」優勝すればいいのだが、このままでは、現状維持ではないか
韓国だって、統一球を使い、シーズンを戦っていて球馴れをしている 日本も統一球を使って、球馴れをしなくてはいけないんじゃないか?
日本の野球の技術や野球理論は世界一である
世界一でなければ、スモール野球で二大会連続優勝はありえない
そのうち、いや、今大会からでも技術を盗まれている可能性はある
現状維持でのスモール野球では、いつか弱小チームに変わるであろう クラブハウスサンドイッチというものがある
パンに、バター、ケチャップを塗り、卵焼き、
輪切りのトマト、ベーコン、照り焼きソース、レタスを順番にのせていく
オレは大の野菜嫌いだが、何とも言えない神秘的な味が出る
これは、オレがレストランに勤めていたときの人気メニューである そのレストランでは、オムライス、とんかつ御膳、クラブハウスサンドイッチ、と、順番に売れていた
あと、レディースセットといって、サラダとテキヤキチキン、ベーコンエッグが一皿に盛っていたのも売れていた
また、チョコレートパフェ、フルーツパフェも売れていた オレは厨房にいたから、はっきり覚えてないが、売れ筋から見て女性客が多かった
ファミリーレストランだけあって、マニュアルが決まっており、デミグラスソースなどを
一から作ることはない
繁華街の地下にあり、地下全体が改装し、今、その店はなくなっている
若気の至りで喧嘩が多かったが、そのときは、まだ社会人として未熟だった
なつかしいというより、反省の二文字の思い出である カイジやアカギを書いた福本伸行は、新作ばかり出している
アカギなんて鷲津厳との対局を20年以上やっている
いつになったら終わるのか
新作を書く暇があったら、さっさと終わらせろ、とさえ思える
で、今度は、トネガワである トネガワは、カイジの人気キャラである
中間管理職を描いて、上は藤堂会長、下は部活、と、気ばかり使っている
トネガワは、ギャンブルの世界で何かを悟った顔をしているのがいい
藤堂や鷲津厳とちがい、挑発的な一面も持っている
が、トネガワは失望した
あれでは、人の顔色だけを気にしているオッサンではないか 心の病気の治療は、「箱庭療法」が基本だという
砂と水で、城を作る工作のようなものである
水の加減ひとつで、大きく変わっていく
さしずめ、砂が人の心
水が受容ってところだろう オレは、まことに対して、水、即ち、受容、理解、を施した
普通、誉められたら、多少の苦言には耳を貸すものだが、飴だけを欲しがった
どうも、この55歳ニートには、配慮というものが欠けているらしい 受容、理解は、人の心を変える
が、統合失調症のばあい、嘘が問題なわけであって、その嘘に受容、理解をしてやれば、治療にならない
まさしく、まことそのものである オレは、家で広島焼きをよく作る
材料費もかからないし、それにしては、ボリュームもある
と、いつものように広島焼きを作ろうとした
が、昨日、焼きそばを喰べていたことに気付いた
少し、オレは考える 広島焼きを中華風にしたらどうか
まさか、中華風で、お好み焼きソースをかけるわけにはいかない
せいぜい、あんかけであろう
また、広島焼きのように、薄キジは使わないだろう
それとも、薄キジの代用はないか
オレは、一考する それならば、と、「天津焼きそば」はどうか、と、考えた
要するに、中華焼きそばに、天津飯の卵の部分をのせるわけである
現に、王将には、天津ヤキメシがある
作ってみると、想像より美味かった
何より、天津の具と焼きそばが合い、天津ラーメンとは少し違っていた 誰でも、あつかましい嘘はつく
大抵の者の大嘘というのは、自分の利益のためにあり、危険だと思えば、それ以上は
踏み込まない
危険を侵してまで、大嘘はつかないものである さて、オレもまことにあやかり、大嘘をついてみる
おもしろいように、まことが釣れる
何やら、オレの大嘘が本当だったら、いけないような反応である
逆に、オレは、大嘘を大嘘と思いながら、憚っている
そこに責任感はない
責任感がないから、平気で自爆発言も吐ける
何しろ、大嘘だからである 韓国が、イスラエルとオランダに敗れ、一次リーグ敗退が決定した
韓国といえば、一方的に日本に敵意を見せて、挙げ句、勝手にマウンドに自国の旗を掲げた
ヘイトスペーチを繰り返すまことからすれば、屈辱なことだろう
オレ様とていい気分ではない が、それと野球とは話が別である
優勝候補の韓国が負けるとはおもしろくない
日本と互角に戦える少ない国だからである
WBCを開催しながら、メジャー選手を出さないアメリカなどはどうでもいい
しかし、まったく名前が出てこなかったイスラエルが出てきた
荒れ狂うワールドベースボールクラシックは開幕したばかりである オレもひとつのことに対して執着心は強い
というよりも、ひとつのことにのめり込むことが、自分を磨く方法だと信じて疑わなかったからだ
これは、統合失調症のひとつだと書いているが、オレのばあいは違うだろう
なぜなら、統合失調症に当て嵌まる項目は少ないからである フラッシュバックというのは、二次体験といわれている
当時の経験が現実に蘇り、フラッシュするわけである
誰でもそういうことはあるだろう
オレでもある
さすがに、フラッシュを起こして、汗まで出ることは、5年や10年に一度であろう イシヤは、自演喧嘩ではなく、自演議論だった
一応は、「喧嘩」とは言ってたが、それと同時に、有意義な話し合いとも言ってた
まこととの共通点は、独りよがりの喧嘩を要求しているところで、すべて自分のルールに
合わせようとしているところである ちょうど、ジャイアンに似ている
自分の思い通りに話が進まなければゴネだす
まこととイシヤは、そのへんが似ているが、イシヤのばあい、まだ品性があった
自演喧嘩ではなく、自演議論ですなあ 中川泰秀(=まこと)の余裕に、オレは、どこか40過ぎのおっさんのしたたかさを感じていた
現にそれくらいになって、オレもまことを誉めるしたたかを持った 今、2ちゃんねるに書き込んで思うのだが、欲とか色気がなくなったため、要は、面白ければいい、という感情がある
よく、親戚のオジサン達は、ご機嫌取りなのか、甥や姪にお世辞を取ったような誉め方をする 誉められても嫌な人間はいないとのことで誉めるのがおっさんやおばさんの知恵なのだろうか
もっとも、その上を行くと、嫌いな人間にも、誉められるといったところか
オレはその境地にいるようだ >>177
お前だよ、キチガイwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww どうした?
キチガイwwwwwwwwwwwwwww キチガイのうんこ💩💩💩💩💩
💨💩💨💩💨💩
くっせーwww 本家、重傷のうんこ
💩💨💩💨💩💨💩💨💩💨💩
うんこがうんこをするうんこ あっ、うんこしたくなった😂
ぢゃなー、キチガイwwwwwwwww フルボッコにされて、よほど、まことは、悔しいらしいなww 座禅をすると、ネットや悟りの著書にも出てこない不思議な体験をすることがある
まことに、座禅とは不思議なものである
その中でひとつ
何回かあることだが、座禅が終わると、目の前の風景がなつかしく思えたりすることがある こんなことは、修行をはじめた頃にしかなかった
が、最近、そんな感覚があった
このときオレは、解脱に感じた
なぜ、目の前の風景がなつかしく思えたのであろう
深い境地に入り、時間が存在しない時空間に入ってたのではないか
そんな感覚であった まだ、この正体が掴めずにいる
いったいなんなのであろう
ただ、こういう積み重ねが座禅なのである
「何かが起きた」お釈迦さんは、悟りを開いた
オレの究極の「何かが起きた」は、この世に自分しか存在しない感覚であったが とりあえず、ageとこう
オレは言った
結局のところ、ageとけば、スレッドは続くのである
この経緯は、まことのほうが詳しい
2ちゃんねるの掲示板のスレッドにかけて、オレはまことに遠く及ばないが
本質は知っている男であった >>191
まことは、言葉が詰まるとキチガイが連呼する男であった
これは、あきらかな国語力の無さと言える
それが証拠に、この55歳ニートは大の読書嫌いであった
あるいは、オレにビビっているのだろう
心理学見地では臆すると言葉が詰まるらしい 考えないで、どうやって悟りを開く
まことは、言った
うーむ
どうも、まことは、悟りを勘違いしているらしい
そもそも、悟りの修行とは、考えてはいけない、が、通説となっているからである 公案で悟った者を聞いたことがない
そもそも、公案とは頭を使う者ではない
というより、公案は、左脳ではなく右脳を使うものである
まことの「考えないでどうやって」とは、左脳の話である まことにとって悟りは何で、その修行法はなんだ?
オレは、まことに問うた
おそらく、この55歳ニートにとって、これほど頭の痛い質問はなかったはずである
まことの書き込みは、ただ、検索だけである
肝心の過程が書いてない
過程がわからなければ、修行法などわかるはずがないからである 悟りは、考えてはいけない、と、通説にはそうなっているが、まったく考えないのは問題である
どうすれば、悟れるか
その方法を考え抜き、検証しなければ悟れない
つまり、まこと曰くの「考える」が間違っているのは、この話でわかる まことのばあい、修行もせず、ネット検索の公案などを解釈しているだけである
しかも、独自の考えを、あたかも、偉い人が言ってたかのように話す
だから、いつも
「それ、誰が言ってた?」
と、オレは言って、まことを黙らせる 筋目、という点を考えて、世にオレほど筋を通している人間もめずらしいだろう
筋目を考察すると、武士の嘘は長略
坊さんの嘘は方便を考える
カタギの嘘は、自分の利益だけで、そういう点では、筋目においても同じである
オレは、嘘においても、筋目においても、自分の利益は蚊帳の外なのである オレも昔はワルさをしてたせいか、犯罪者の肩を持つところがある
だから、犯罪者だと思ってボロクソ言っている者に関して虫酸が走る ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています