☆☆☆幸福の科学の今後を憂える☆☆☆ [無断転載禁止]©2ch.net
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自分は、以前は活動会員で、SPMや青年部長までやりました
ここ数年の、離婚や種村さんや選挙の騒動で久しぶりに
この関連スレを見に来ましたが静かですね
種村さんの発言は、誠意が感じられていて丁寧で、信憑性がある感じがします
大川氏の発刊本は、今でも神がかっている感じはします、が、綺麗すぎます
何かと、「弟子が言うので」とか、自己責任もない感じが歯がゆいですね
離婚に対しても、ローラの守護霊言にも
感情的にならずに、発言できれば良いと思い、このスレを立てました
与える愛、魂の次元構造、愛の発展段階説、etc素晴らしい話があったのに
この体たらくは残念です
マスコミというのは、「色欲金で騒ぐ」と謳い、それを利用して隠蔽してきたのか
と思うと、情けない気持ちでいっぱいです
アンチの方も、そうでない方も、
忌憚なく発言してください
って言うと、変なスレになってしまうのかなあ、と思いつつ
皆様の常識に神託します 「マネーボール」(★★★☆☆)
メジャーリーガーから球団経営者に転職し、弱小球団アスレチックスを強豪チームに脱皮させたビリー・ビーンの実話映画。
「ピンチはチャンス」で、人生の逆境は、新しい成功の種になります。ビリーのように、固定概念にとらわれず、白紙の目で物事を見ることで、新しい打開策が見つかるものです。
「幸せの教室」(★★★☆☆)
不景気なアメリカで、リストラされながらも前向きにチャレンジし、新たな人生を切り拓いていく中年男性の姿を描いています。本作は、あのトム・ハンクスが15年ぶりに監督を務めました。
この主人公・ラリーのように、諦めない心。折れない精神力が、未来を切り拓いて行くことでしょう!
「陽はまた昇る」(★★★★☆)
家庭用ビデオ規格競争(VHS vs. ベータ)の実話にもとづく企業戦士たちの感動のヒューマン・ドラマ映画。本作は、NHK番組『プロジェクトX』シリーズにも取り上げられ、企業戦士たちの創意工夫により、80年代まで日本経済は成長していきました。
本作のように、「自分たちに何ができるのか?」を考えて、日本経済の付加価値を増やしていきたいものです。 今回は、「人生にやる気が持てない」という人に、オススメの映画を処方いたします。
「イン・ザ・ヒーロー」(★★★★☆)
まずご紹介するのが、「イン・ザ・ヒーロー」(2014年、日本映画、124分)という、「スーツアクター」に焦点を当てたヒューマンドラマ映画です。
スーツアクターとは、特撮ヒーローものやアクション映画・ドラマなどで、ヒーローのスーツや怪獣の着ぐるみを着用してスタントを行う人のこと。
衣装によっては視界や動作が大きく制限されるため、生身のスタントマンよりも高度な技術を必要とされます。顔こそ出ませんが、アクションシーンになくてはならない存在です。
「下落合ヒーローアクションクラブ」の代表・本城渉(唐沢寿明)は、スーツアクター歴25年のベテラン。
周囲からの信頼は篤いものの、顔を出して演技するアクション俳優としての夢はなかなか実現せず、妻子には逃げられ、生意気な新人・一ノ瀬リョウ(福士蒼汰)にも先を越される始末でした。
そんな本城にハリウッドのアクション大作出演のオファーが舞い込みます。
千載一遇のチャンスですが、約8メートルの櫓(やぐら)から、ワイヤーも命綱もなしで飛び降り、さらに、CGなしで100人の忍者相手に立ち合いを演じるという、まさに命がけの危険な演技だったのです。
しかし、本城は周囲の反対を押し切り、自分の夢を叶え、誰かのヒーローになるため出演を決意します。果たして、彼は、無事その大役を演じきれるのでしょうか?
本作は、主演の唐沢寿明自身の実話をモチーフに描かれており、長い下積みから夢をつかんだストーリーは真に迫っています。唐沢寿明の自伝ミリオンセラー『ふたり』(幻冬舎)を合わせて読むと、さらに納得です。
本作が感動を呼ぶのは、自分のためだけでなく、誰かのヒーローになって人の役に立ちたいという情熱があるからでしょう。その熱い思いに打たれ、私も何度か涙してしまいました。感動する映画の一本です。
この、「人のため」という思いの大切さは、アドラー心理学から読み解けます。 アドラーは、「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」と喝破し、心の健康を保つためには、対人関係の悩みを解決することが重要だと気がつきました。では、対人関係の悩みを解決するためにはどうすればいいのでしょうか。
そこで登場するのが、アドラー心理学の鍵概念である「共同体感覚」です。これは、その英訳(social interest)が示しているように、他者への関心そのもの(岸見一郎『アドラー心理学 シンプルな幸福論』)。
アドラーは、対人関係を良好にし、心の健康に保つには、この「共同体感覚」を持ち、自分自身が周囲を取り巻く共同体の一員だと感じる必要があると考えたのです。
アドラーによれば、共同体感覚は、生まれつき備わった潜在能力ですが、意識して育成されなければなりません(和田秀樹『フロイトとアドラーの心理学』)。その意識して育成する方法とは、「自分への関心を他者への関心へと変える」こと。
自分のことばかり考えるのではなく、他者に関心を向けることによって、対人関係が良好になり、自分自身の心の健康を保つことができると、アドラーは説いたのです。
「イン・ザ・ヒーロー」の本城は、この「共同体感覚」が強く、他者への強い関心を持っているといえます。 実際、「自分のため」だけに行動していれば、周囲の人間の協力を得ることはできず、情熱も湧きにくいものです。
「人のため」という思いがあってこそ、仕事や人生にやる気がでてきます。 本城の命がけの挑戦と、それを支える周囲の人々の姿は、情熱の「源」を教えてくれるようです。 「エリザベス」(★★★☆☆)
次にご紹介するのは、「エリザベス」(1998年、イギリス映画、124分)という、イングランドの女王エリザベス一世の数奇な半生を描いた歴史大作です。続編の「エリザベス:ゴールデン・エイジ」(2007年、イギリス映画、114分)も見ものです。
16世紀のイングランド。国内では旧教・カトリックと新教・プロテスタントが争い、ときの女王メアリー(キャシー・バーク)はプロテスタントを弾圧。新教派のエリザベス(ケイト・ブランジェット)もロンドン塔に投獄されてしまいます。
しかし、ほどなくメアリー女王が他界し、1558年、エリザベスに王位が継承されます。国内の財政を改善するため、エリザベスは新教派のウォルシンガム(ジョフリー・ラッシュ)を味方につけ、国を新教に統一することを決定しました。
これに憤ったローマ法王は英国に密使を送り、エリザベスの暗殺を企てるのです。ウォルシンガムはこの不穏な動きを抑えるため、カトリック側と通じるスコットランド女王・メアリー(ファニー・アルダン)を暗殺。
意を決したエリザベスはローマからの密使を探し出し、旧教派を一網打尽にします。そして、祖国防衛のため、国民の前で「私は国家と結婚します」と宣言するのです。
人には、「公」の部分と「私」の部分があって、社会的立場が上がれば上がるほど、「私」が小さくなって、自由が利かなくなります。本作のエリザベスもイングランド女王として、公人として生きることを決意します。
「どれくらい私を捨て、公人として生きられるか」が、その人の社会的責任感の大きさを表し、また、人生にどれだけの情熱をかけられるかにもつながってくるのでしょう。 「天地明察」(★★★★☆)
最後にご紹介する映画は、「天地明察(てんちめいさつ)」(2012年日本映画)で、江戸時代、日本で初めての暦作りに挑戦した実在の人物・安井算哲(やすいさんてつ)の伝記的映画です。
江戸時代前期。安井算哲(岡田准一)は将軍に囲碁を教える名家出身ですが、彼自身は、囲碁よりも星の観測と算術の問いを解くことが好きで、本業を忘れてしまうこともしばしば。
そんな算哲でしたが、将軍の後見人である会津藩主・保科正之(松本幸四郎)により暦の誤りを正す大役に抜擢されます。
それまで、日本では、唐から伝えられた「授時暦(じゅじれき)」が800年にもおよび使われてきて、かなり現実とずれてきたため新しい暦を作る必要があったのです。
しかし、この作業は、星や太陽の観測をもとに膨大な計算を必要とします。さらに、改暦は本来なら朝廷が司る役目。朝廷に幕府が口を出すことは、「聖域への介入」を意味しました。
算哲は妻・えん(宮崎あおい)や、彼のパトロン・水戸光圀(中井貴一)らに支えられながら、この難関に遮二無二に取り組んでいきます。
ポジティブ心理学では、真理を追究する「誠実さ」を重視しますが、本作では、それが学べます。
人生にはさまざまな困難が立ちはだかりますが、(1)人生の目的を持って、(2)誠実に努力し、(3)周りの協力も得ながら、計画を進めることで、「思いは実現していく」のです。 他には、以下のような映画がオススメです。
「ユナイテッド93」(★★★★☆)
9・11でハイジャックされた4機の旅客機のうちの一機「ユナイテッド93便」の機内を再現した実話映画です。
本作を観ると、自分の命を犠牲にしてでも、テロ被害を食い止めようとした彼らの「勇気」に、素直に感動してしまいます。先行研究では、勇気は、「他の人に役立ちたい」という「利他」の気持ちで高まると報告されています。
「奇跡のリンゴ」(★★★☆☆)
不可能だといわれていたリンゴの無農薬栽培を成し遂げた農家の波瀾万丈を描いた実話映画。
主人公・木村秋則さんの場合は、「奥さんの健康のために」という「利他の精神」があったので、長い逆境に耐えることができたのでしょう。私たちも、秋則さんの「愛に裏打ちされた忍耐の心」を学びたいものです。 「君たちはどう生きるか」を映画でも考える――精神科医がおすすめする 心を浮かせる名作映画(10)
今回は、吉野源三郎の小説『君たちはどう生きるか』が復刻ブームとなっていることにちなみ、「人生の意味が分からなくなり、漠然とした不安にかられる」という人に、オススメの映画を処方いたします。
「天国に行けないパパ」(★★★☆☆)
まずご紹介するのは、「天国に行けないパパ」(1990年、アメリカ映画、97分)というコメディー映画です。「余命2週間」と告げられた老刑事バート・シンプソン(ダブニー・コールマン)が、息子に保険金を残すため、何とか殉職しようと危険な任務に挑むというもの。
際立った実績を上げられないまま、あと1週間で定年を迎えようとしているバートの夢は、1人息子のダギーをハーバード大学に行かせることぐらいでした。
そんな中、突然不治の病の診断が下り、あと2週間の命だと宣告されます。
バートは、愛する息子が大学に行けるよう、殉職して保険金を残すため、犯罪多発地帯の勤務を志願。防弾チョッキもつけずに現場に乗り込む、命知らずのスーパー・コップに変身するのです。
相棒のアーニー(マット・フリューワー)はバートのあまりの急変に仰天しますが、彼は次々と悪を粉砕して街のヒーローになっていくのです。
死を覚悟したバートは、別れた妻のキャロリン(テリー・ガー)にこれまでの感謝を伝えます。その結果、相互の誤解が解け、真実の愛が取り戻されますが、もはや時間は残されていません。
彼は、必ず殉職すべく、極悪武器商人・カール・スターク(ザンダー・バークレイ)のアジトに単身向います。一方で、相棒のアーニーは病院で余命宣告が誤診であることを知り、あわててバートにその事実を知らせようと後を追います。
結局、バートとアーニーは協力してスタークを逮捕し、表彰され、死の心配のなくなったバートはキャロリンとダギーと共に、幸福な人生へと新生するのでした。
ポジティブ心理学では、「死を見つめれば生が生きる」と考えます。自分が死ぬ瞬間を想像して、「どういう人生だったら悔いが残らないか」「どうすれば他人に惜しまれるような生き方ができるか」と考えると、そこから逆算して、「今どう生きるべきか」が見えてきます。
これを証明するような研究もあります。 無差別に通行人を呼び止め、慈善活動について答えてもらうという実験がありました。回答者の半数は葬儀社の前で、あとの半数は普通のビルの前でアンケートを実施しました。
その結果、葬儀社の前で自分自身の死を意識しながら回答した人は、死とは関連のない普通のビルの前で答えた人より、明らかに慈悲深い回答をしたというのです。
では、私たちが自らの死を意識するためにはどうすればいいのでしょうか。
例えば筆者は「棺桶瞑想」という、自らが死ぬ瞬間を疑似体験するという心理療法を提唱しています。電話、メール、家族の話し声などの刺激が入らない環境を整え、以下の手順で行います。
(1)腹式呼吸
力が入らない楽な姿勢をとり、腹式呼吸を繰り返して、瞑想状態に入っていく。
(2)死ぬ瞬間の瞑想
自分の人生における最後の瞬間を思い描いて、自分がどのような生き方だったら良かったのかをじっくりと考える。
(3)家族、知人、友人からの弔辞をイメージ
最も親しい人たちに自分はどのように人間として記憶されたいか、その人たちは自分のどんな業績について語ってくれるだろうかを想像してみる。
(4)希望と現実のギャップを分析
自分にとって「悔いが残らない人生」と、自分の現在の生き方が一致しているか、それとも足りない部分があるかを分析する。
(5)希望実現の具体的計画
「悔いが残らない人生」を生きるために、具体的にどのように努力していくか計画を立てる。ポイントは、夢や希望というものは、自分が具体的に行動しない限り実現しないものだと肝に銘じておくこと。 「最高の人生の見つけ方」(★★★★☆)
次にオススメしたいのが、「最高の人生の見つけ方」(2007年、アメリカ映画、97分)です。
自動車整備工のカーター・チェンバース(モーガン・フリーマン)は、約50年間にわたって家族のためにひたすら働いてきた、実直な人間。
学生時代に哲学の教授から勧められ、死ぬ前にやりたいことをすべて書き出す「棺桶リスト(The Bucket List)」をつくったものの、結局一つも実現できないままです。
一方、会社を大きくすることに人生のすべてをつぎ込んできた大金持ちの実業家エドワード・コール(ジャック・ニコルソン)は、自らの夢は実現したものの、孤独に生きてきました。
そんな正反対の二人ですが、ある日、ガンで余命6ヶ月と宣告され、病院のベッドで隣り合わせることに。人生の最後を共に過ごす仲間となった二人は、「棺桶リスト」を書き出し、一つひとつ夢を実現させていくのです。
「荘厳な景色を見る」、「赤の他人に親切にする」、「涙が出るほど笑う」、「スカイダイビングをする」、「マスタングを乗り回す」、「ライオン狩りをする」、「世界一の美女にキスをする」――。
先ほど紹介した、「死を見つめると生が輝く」という考えをこの映画からも学べます。
日常の中で「死」を意識することは少ないですが、人間の寿命は永遠ではありません。平均寿命は、日数にして約3万日と算出され、実は、1日1日と「死」が迫っています。
自分が棺桶に入る時に悔いを残さないためには何をすべきか。そうしたことを真剣に考えることで、今の「生」が輝いてくることでしょう。 「素晴らしき哉、人生!」(★★★★★)
「素晴らしき哉、人生!」(1946年、アメリカ映画、130分)も、オススメしたい映画です。全てに絶望して自殺を図る男に、希望の光が差し込むハートフルストーリーです。
ジョージ・ベイリイ(ジェームズ・スチュアート)には子供のころから、「生まれ故郷の小さなベタフォードの町を飛び出し、世界一周旅行をしたい」という夢がありました。
ところが、父の突然の死により、父が経営していた住宅金融会社を継ぐことになります。
彼は、町の貧しい人々に低利で住宅を提供し、住民から尊敬を集めますが、町のボスである銀行家のポッター(ライオネル・バリモア)からは目の仇にされ、嫌がらせを受けることに。
やがてジョージは幼馴染みのメリイ(ドナ・リード)と結婚し、4人の子供にも恵まれ、幸福な結婚生活に入ります。世界を襲った経済恐慌もなんとか乗り越えます。しかしここで悲劇が起こります。会社の預かり金8000ドルを紛失してしまうのです。
懸命な資金繰りの努力も甲斐なく、絶望した彼は、身投げしようと橋の袂にたどり着きます。ジョージがまさに自殺しようとしたその刹那、クラレンスと名乗る老年の天使が現れ、ジョージが生まれて来なかった世界に彼を連れて行きます。
そこは人情も道徳もない幻滅の世界で、ジョージはたまらなくなって元の世界へ戻してくれと絶叫。無価値だと思っていた自分が、いかに存在価値があったのかを悟ったのでした。
現実世界に戻ったジョージに、さらに、起死回生となる「奇跡」が臨みます……。
乗り越えられないような逆境にぶち当たると、自己卑下して死にたくなってしまうこともあるでしょう。しかし、本当に救いようのない状況なのかを自問する必要があります。
よくよく目を凝らせば、本作のジョージのように、陰ながら評価し、応援してくれている人たちがいるはずです。
もし、自分を評価してくれる人が皆無であったとしても、自分で自分を褒めたり、ねぎらったりして、自らを奮い立たせることです。 「天国はほんとうにある」(★★★★☆)
最後にオススメする映画は、「天国はほんとうにある」(2014年、アメリカ映画、99分)です。これは、感染症で生死の境をさまよい、天国を見てきたと語る少年の実話をつづった臨死体験で、世界的ベストセラーとなった『天国はほんとうにある』を元にしています。
アメリカ・ネブラスカ州インペリアル市で牧師を務めるトッド(グレッグ・キニア)には、3人の子供がいました。ある日、3歳の長男コルトン(コナール・コラム)が高熱に見舞われ容態が急変します。
トッドが地元の急患センターに連れて行くと、穿孔虫垂炎(せんこうちゅうすいえん)と診断され、コルトンは生死をさまよいます。トッドは絶望のあまり、神に私の息子を奪う気かと呪いますが、二度の手術の後、奇跡的にコルトンは一命を取り留めます。
やがて回復したコルトンは、天国を旅してきたと語り始めるのです。コルトンは、天国の様子や、彼が知らないはずの家族や地元の状況について克明に話します。
牧師であるトッドでさえ、始めは、何かの偶然と考えていましたが、コルトンの証言は、あまりにも鮮明で、正確。
コルトンが知らないはずのトッドの叔父や流産した娘と天国で面会してきたことを話すにいたって、トッドは、息子の「臨死体験」と真剣に向き合うようになります。
臨死体験は、世界中で報告されており、科学的にも研究が進んでいます。「人は死んでも無になるわけではない」という霊的人生観を持つことで、私たちの「生きる意味」が見えてくることでしょう。 263神も仏も名無しさん2018/06/16(土) 17:03:15.65ID:ZDpDWNRf
他には、以下のような映画がオススメです。
「ヒアアフター」(HEREAFTER)(★★★☆☆)
ヒロイン(ジャーナリストのマリー)は、東南アジアで津波に飲み込まれ、光のトンネルをくぐる臨死体験をします。
その後、彼女は人生の転機を迎え、臨死体験を扱った本を出版することに。霊能力者、ジョージ(マット・デイモン)との出会いも印象的です。
「ツナグ」(★★★★☆)
死んだ人に1度だけ会わせてくれるという霊媒師「ツナグ」を通して、死者と生者の特別な絆を描き出すスピリチュアル映画です。ツナグへの依頼人はさまざまな事情を抱えた人ばかりでした。
そういった依頼に対応するうちに、見習いだった主人公(松坂桃李)は「死」と「生」について真剣に向き合っていくようになります。
幸福感の強い人弱い人
千田要一著
幸福の科学出版
精神科医
千田 要一
(ちだ・よういち)1972年、岩手県出身。医学博士。精神科医、心療内科医。医療法人千手会・ハッピースマイルクリニック理事長。九州大学大学院修了後、ロンドン大学研究員を経て現職。
欧米の研究機関と共同研究を進め、臨床現場で多くの治癒実績を挙げる。アメリカ心身医学会学術賞、日本心身医学会池見賞など学会受賞多数。
国内外での学術論文と著書は100編を超える。著書に『幸福感の強い人、弱い人』(幸福の科学出版)、『ポジティブ三世療法』(パレード)など多数。 心が変われば、病が癒える――精神科医がおすすめする 心を浮かせる名作映画(11)
今回は、病気に苦しんでいる人や、心的なストレスを抱えている人に向けたものです。
「天国の青い蝶」(★★★★☆)
まずご紹介するのが、「天国の青い蝶」(2004年、カナダ・イギリス映画、96分)。余命わずかと診断された少年が、熱帯雨林に生息するという幻のチョウを探す旅に出て奇跡の体験をするというストーリーです。
1987年に実際に起きた実話に基づいています。
主人公のピート・カールトン(マーク・ドネイト)は、末期の脳腫瘍を患う10歳の少年です。余命数カ月の宣告を受けていましたが、どうしてもかなえたい夢がありました。
それは、この世で最も美しいとされる青い蝶、ブルーモルフォを捕まえること。しかしそれは、中南米の熱帯雨林にしか生息しない「幻の蝶」でした。
母親のテレサ(パスカル・ブシェール)は、息子の夢を叶えさせたいという一心で、世界的な昆虫学者アラン・オズボーン(ウィリアム・ハート)の元にピートを連れて行きます。
オズボーン博士は、ピートが敬愛する人物でもあり、ブルーモルフォ捕獲という夢を叶えてくれる唯一の人物でした。
突然の依頼に困惑するオズボーン博士でしたが、ピートのひたむきな姿に感銘を受け、協力を決意します。
3人はブルーモルフォを捕まえるため、熱帯雨林にある先住民族の村へと向かいます。
これまで狭い世界しか知らなかったピートは、森の生き物たちを見つけるたびに、胸を躍らせますが、肝心のブルーモルフォは見つかりません。
見つからないことにいらだちを感じ始めますが、あきらめかけた矢先、ついにブルーモルフォが姿を現します。そして、想像を絶するような奇跡が起こります。
なんと、ピートの腫瘍が消えてしまったのです!
こうした症例を、心身医学では「がんの自然退縮」と呼び、一定の比率で報告されています。
最近のアメリカの学術調査(ケリー・ターナー著『がんが自然に治る生き方』プレジデント社、2014年)によれば、がんが治ったという症例の報告は、全世界で千件以上にのぼります。 しかし、現代医学では一般的に「がんは不治の病」と考えるため、こうした調査はほとんど黙殺されてきました。
統計上まれな症例は無視してしまうという現代医学の傾向を物語っていると言えます。
同調査が行った統計分析によると、がんが治った症例では以下の9つの共通要素が見えてきたといいます。 (1)抜本的に食事を変える
(2)治療法は自分で決める
(3)直感に従う
(4)ハーブとサプリメントの力を借りる
(5)抑圧された感情を解き放つ
(6)より前向きに生きる
(7)周囲の人の支えを受け入れる
(8)自分の魂と深くつながる
(9)「どうしても生きたい理由」を持つ
興味深いのは、9つの共通要素のうち、7つが「自分の考え方を変える」ことに関係するものであることです。
特に、8番目の「自分の魂と深くつながる」という項目は非常に宗教的です。
同調査は、この項目を達成するための手段として、毎日祈る、瞑想する、宗教書を教学する、宗教グループに参加する、などの宗教活動を実践することを勧めています。
「信仰心」を高めることで、自分の魂のエネルギーを発揮できるとしています。
現代医学では、人間を機械と同じように捉え、その力を限定してしまいがちです。
しかし実は、がんを治癒してしまうほどの潜在能力が人間には眠っています。そうした人間の秘められた力を信じることで、人生が開けていくでしょう。 (2)「フィアレス/恐怖の向こう側」(★★★☆☆)
次にご紹介する映画は、「フィアレス/恐怖の向こう側」(1993年、アメリカ映画)です。飛行機事故で死の恐怖に直面して以降、「恐怖心」を感じなくなった男マックス(ジェフ・ブリッジス)の物語です。
自分が乗った飛行機が突然落下を始める――。
誰もが恐怖におののく状況ですが、マックスは機体が落下する最中、一切の恐怖を感じなくなります。そのおかげで、機体がバラバラになるほどの凄まじい事故現場から、生き延びた人たちを救いだすことに成功。
その後も、事故の心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しむ人々の支えとなり、マックスは「英雄」としてマスコミに取り上げられます。
同じ事故で子供を失った女性カーラも、マックスと出会うことで心を開きます。
一方、「恐怖を感じない(フィアレス)」状態となったマックスは、往来の激しい車道を突っ切ったり、高層ビルに登ったりと、奇行を繰り返すように。
次第に妻とも分かりあえなくなり、離婚寸前の状態となります。事故前の自分に戻れず苦悩するマックスを救ってくれたのは……。後は、観てのお楽しみです。
本作で不思議なのは、マックスのいちごアレルギー(食物アレルギー)が事故後に完治したことです。死の恐怖を超越したことで、彼の体に劇的な変化が起きたのでした。
筆者の研究テーマの一つが、「ストレスとアレルギー」の関係であり、不安や恐怖がアレルギー症状を増悪させる症例について研究を発表しています。こうした研究からも、マックスのアレルギー症状の完治は不思議なことではありません。 (3)「エクトプラズム」(★★★★☆)
最後にご紹介するのは、「エクトプラズム」(2009年、アメリカ映画、103分)という、1980年代にアメリカのコネチカット州で起きた実話を基に描いたスピリチュアル映画です。
タイトルの「エクトプラズム」は、スピリチュアリズム(心霊主義)で用いられる言葉で、霊能者などが物理的心霊現象を起こす際に身体から発生する物質を指します。
1987年、サラ(バージニア・マドセン)とピーター(マーティン・ドノバン)のキャンベル夫妻は、息子マット(カイル・ガルナー)の末期がん治療のため、コネチカット州北部の町サジントンにあるビクトリア朝式の家に引っ越します。
しかし、入居してまもなく、マットはこの世に存在しない者の姿を何度も目撃するようになり、やがて、超常現象が一家全員に襲いかかります。
そこで、図書館で地元の歴史を調査してみると、その家はかつて葬儀場であっただけでなく、亡くなった霊と通信する降霊会も行われていたことが判明します。
心身ともに追い詰められていく一家でしたが、マットはポペスク牧師(イライアス・コーティアス)の助けを借りて、この危機に立ち向かおうとします。果たしてキャンベル一家はこの危機を乗り越えられるのでしょうか?
超常現象を紹介する日本のテレビ番組の多くが、金縛りや幽体離脱現象などを、単なる脳内の幻覚に過ぎず、霊現象ではないと説明します。しかし実際には、本作のような、脳機能の異常だけでは説明がつかない現象が、全世界で多数報告されています。
また、心理学の学術研究では、自分が霊的な存在だと認識することが幸福感につながり、寿命まで延ばすことも判明しています。ちなみに、マットは悪霊現象を解決することで、末期がんが完治してしまいます!
人間を単なるたんぱく質の塊だとし、「霊性」を奪うような唯物論的な内容には注意する必要があります。 他には、以下のような映画がオススメです。
「私だけのハッピーエンディング」(★★★☆☆)
心を開いて傷つくのが怖いため、ジョークではぐらかして自分の本音を見せない女性の物語です。彼女の場合、両親の不仲が影響して、無意識に自分が傷つくのを恐れて心を閉ざしていました。そうした無意識のストレスが、がんの発症にかかわっていたのでした。
「さよなら、さよならハリウッド」(★★★☆☆)
新作の撮影を前にして、ストレスで目が見えなくなった映画監督のドタバタを描いたコメディ映画。
本作では、仕事で結果を出さなければならないというストレスが、失明という症状で現れています。目が見えなければ、映画監督はできないので、「仕事をやりたくない」という潜在意識の意思表示だったのでしょう。
幸福感の強い人弱い人
千田要一著
幸福の科学出版
精神科医
千田 要一
(ちだ・よういち)1972年、岩手県出身。医学博士。精神科医、心療内科医。医療法人千手会・ハッピースマイルクリニック理事長。九州大学大学院修了後、ロンドン大学研究員を経て現職。
欧米の研究機関と共同研究を進め、臨床現場で多くの治癒実績を挙げる。アメリカ心身医学会学術賞、日本心身医学会池見賞など学会受賞多数。
国内外での学術論文と著書は100編を超える。著書に『幸福感の強い人、弱い人』(幸福の科学出版)、『ポジティブ三世療法』(パレード)など多数。 離婚、再婚をどう乗り越えるか――精神科医がおすすめする 心を浮かせる名作映画(12)
仕事や人間関係に疲れた時、気分転換になるのが映画です。
その映画を選ぶ際に、動員数、人気ランキング、コメンテーターが評価する「芸術性」など、様々な基準があります。
アメリカでは、精神医学の立場から見て「沈んだ心を浮かせる薬」になる映画を選ぶカルチャーがあります。一方、いくら「名作だ」と評価されていても、精神医学的に「心を沈ませる毒」になる映画も存在します。
本連載では、国内外で数多くの治療実績・研究実績を誇る精神科医・千田要一氏に、悩みに応じて、心を浮かせる力を持つ名作映画を処方していただきます。
世の中に、人の心を豊かにする映画が増えることを祈って、お贈りします。
今回は、離婚や再婚を乗り越えて幸せな家庭を築きたいという人に向けたものです。
(1)「グッドナイト・ムーン」(★★★☆☆)
まずご紹介する映画は、「グッドナイト・ムーン」(1998年、アメリカ映画、125分)です。離婚した夫婦とその子供たち、そして、夫の再婚した新しい妻が巻き起こす「ステップファミリー(子連れ再婚)」問題を描いたハートフル映画です。 ニューヨークの売れっ子ファッション・フォトグラファーのイザベル(ジュリア・ロバーツ)は、離婚したばかりの弁護士のルーク(エド・ハリス)と恋に落ちます。
二人は同居生活を始めますが、彼には前妻のジャッキー(スーザン・サランドン)との間に二人の子供がいました。
12歳の娘・アンナ(ジェナ・マローン)と7歳の息子・ベン(リーアム・エイケン)はジャッキーを恋しく思っており、継母であるイザベルの言うことをなかなか聞いてくれません。
仕事と子育てを両立させようと奮闘するも、失敗を繰り返すイザベルに対し、ジャッキーは苛立ちを募らせます。
そんな中、ジャッキーを病魔が襲うのです。病気の発覚をきっかけに、それまで反発し合っていたイザベルとジャッキーは歩み寄ります。
ジャッキーは、イザベルを拒絶する娘のアンナに向けて、イザベルのいいところをみてあげるようにアドバイス。子供たちはイザベルと打ち解け始めます。しかし、子供たちの信頼を得ていくイザベルの姿を見て、ジャッキーは嫉妬の思いを隠せません。
果たして、彼らは家族として団結できるのでしょうか?
社会が高度化すると、「人、物、金」の流れが速くなります。
そうした動きにともない、日本でも、キャリアアップするために何度も転職する人や、「バツイチ再婚」、「バツニ再婚」などと、離婚・再婚を繰り返す人が増えてきました。
厚生労働省の調査では、4人に1人が「再婚カップル」ということです(2015年調査「特殊報告」より)。
再婚カップルが増える中、夫婦の片方、あるいは両方が子連れで結婚・再婚してできた家庭、いわゆる「ステップファミリー(継家族、再婚家族)」が増加しています。「どうすれば幸せなステップファミリーを築けるのか」ということは、大きな課題です。
血縁を過剰に意識しすぎると、何か家族の中で問題が起こった時に、「やっぱり血がつながっていないからだ」と考え、問題解決を諦めてしまう場合が多いようです。
また、「離婚」を負い目に感じて「親としての自信」がなくなる人も。自信を失った親が、自信のなさを取り繕うために継子を過剰にコントロールしようとすると、当然ながら反発を招きます。 ステップファミリーが「安定期」に達するまでに平均8年かかると言われています。一方、4年ほどで安定する家族もあります。初期の段階で、家族が分かりあえるようどれだけエネルギーを費やしたかがポイントのようです。
幸せなステップファミリーを築くためには、「生みの親より、育ての親」という諺(ことわざ)を信じることが大切でしょう。
「血縁があるかないか」という事実より、「子育てする行為」そのものが大切です。血縁がある子供であっても、子供の反抗期で「親子の葛藤」は起きますし、子供のDV(ドメスティック・バイオレンス)で苦しんでいる家庭はたくさんあります。
血縁が無くても、「継子の個性を尊重し、一人の人間として見守って」あげられれば、血縁の親以上の子育てができるはずです。 (2)「6才のボクが、大人になるまで。」(★★★☆☆)
次にご紹介する映画は、「6才のボクが、大人になるまで。」(2014年、アメリカ映画、165分)。6歳の少年の成長を、家族の変遷も絡めて12年間撮り続けたヒューマンドラマです。ステップファミリーの問題がメインテーマになっています。
主人公である少年・メイソン(エラー・コルトレーン)は、母親のオリヴィア(パトリシア・アークエット)と姉のサマンサ(ローレライ・リンクレイター)と一緒に、テキサスの田舎町で暮らしていました。
しかし、メイソンが6歳の時、家族はオリヴィアの故郷であるヒューストンに転居することに。
メイソンはそこで、実父(イーサン・ホーク)との再会や母の再婚、アルコール中毒の継父からの暴力など、揺れ動く環境の変化の中で、多感な青春時代を過ごします。 やがて、オリヴィアは大学で教鞭をとるようになり、母の新しい恋人が家族に加わることに。一方で、ミュージシャンの夢をあきらめた実父は保険会社に就職し、再婚して子供を一人もうける――。
家族がそれぞれの人生を歩む姿に学びながら、メイソンはアート写真家という夢に向かって母親から巣立っていくのでした。
本作品から、どのような家庭に育ったとしても、メイソンのようにすべての経験を学びの機会と捉えることで、人間として立派に成長できるということが分かります。
私が院長をしているハッピースマイルクリニックでも、ステップファミリーの相談に乗っています。
アメリカほどではありませんが、日本でも、母と児童だけの家庭「シングルマザー(母子家庭)」や父と児童だけの家庭「シングルファーザー(父子家庭)」が増加しています。 一人親家庭では、自分ひとりで家庭を切り盛りしないといけないという「精神的負担」に加え、「経済的ストレス」ものしかかってきます。
厚生労働省の調査では、一般的な家庭で、平均年間収入が約500万円ですが、父子家庭で約400万円、母子家庭で約200万円と算出されており、母子家庭の経済的苦境が際立っています。
こうした精神的・経済的なストレスを大きくしてしまう原因として、親の「完璧主義」が挙げられます。親が、仕事、家事、育児と、なんでも「独り」でやってしまおうと頑張って、燃え尽きてしまうことがあるのです。
また、「片親だから育児がダメだ」といわれないよう、過剰に育児に力が入ってしまい、子供に「過干渉」になる場合も。そうすると、子供はそれに反発し、親子の葛藤が激しくなるわけです。 (3)「人生の特等席」(★★★★☆)
最後にご紹介する映画は、「人生の特等席」(2012年アメリカ映画、111分)。クリント・イーストウッドが主演を務める、年老いたメジャーリーグのスカウトマンと、その一人娘との絆を描くヒューマン映画です。
主人公のガス(クリント・イーストウッド)は、家庭も顧みず、メジャーリーグ・スカウトマン一筋で生きてきた名スカウトマンでした。しかし、寄る年波には敵わず、仕事に限界を感じるように。そこでついに、最後のスカウトの旅に出ることを決意します。
それに手を貸したのが、父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキー(エイミー・アダムス)でした。妻を亡くし、男手ひとつで育てようとしたもののうまくいかず、心に傷を抱えるガス。
かたや、「捨てられた」と父親を恨んでいる娘。両者の旅は果たしてうまく行くのでしょうか? 最後にそれぞれが見つけた人生の特等席とは――。後は観てのお楽しみです!
本作を観ると、コミュニケーションの大切さを痛感します。たとえ親子であっても、お互い誤解したままだと、骨肉の争いに発展しかねません。
しかし、冷静に相手の言い分をじっくり聴くことで、「理解」し合うことができ、理解することで、自然に相手を「許す」ことができるようになるのです。
この「許し」という行為は、ポジティブ心理学の中でも、最も重視する陽性感情の一つでもあります。 他には、以下のような映画がオススメです。
「おかんの嫁入り」(★★★★☆)
母親の突然の再婚宣言によって安定していた母子関係が変化していくさまを描いたヒューマン・ハートフルドラマ。娘の月子(宮崎あおい)と母親の陽子(大竹しのぶ)は、ずっと母子家庭で、仲良く暮らしてきました。
そんなある日、陽子が若い金髪の男・研二(桐谷健太)を連れてきて、結婚することにしたと宣言。
陽子の不可解な行動を理解できない月子ですが、あるきっかけで、陽子が末期のがんに侵されていることを知ります。陽子は、自分が不治の病であることを、月子に知らせていなかったのです……。
「リアル・スティール」(★★★☆☆)
現在から約10年後という近未来のアメリカを舞台に、ロボット・ボクシングを通して心を通わせていく父と息子の愛情物語です。
2020年、チャーリー・ケントン(ヒュー・ジャックマン)はかつて将来を嘱望された期待のボクサーでしたが、ロボット同士の格闘技が人気を集める世界で、ボクサーとしての夢が果たせず、人生の敗北者として生きていました。
しかし、前妻と暮らしていた実息子のマックスと暮らし始めたことをきっかけに、もう一度チャレンジを果たします。 未来の戦争では、AIが指揮し、3Dプリンターで兵器を成長させる!?
《本記事のポイント》
サイバー攻撃は、犯罪か軍事攻撃かさえ分からない
"AI参謀"に誰も勝てなくなる!?
3DプリンターがAIと組み合わされた時……
技術革新によって、戦争のあり方が、人類史の中でも稀に見る変化を遂げようとしている。そこに、日本の自衛隊はついていけるのか。
元航空自衛官であり、現在はハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)の未来創造学部で、軍事学や国際政治学を教える河田成治氏に話を聞いた。
人類の歴史を紐解くと、「戦争のあり方が、ある段階で飛躍的に変化した」というタイミングが、何度か訪れています。それは、火薬や核などの技術開発による革新だったり、戦略思想の革新だったりします。
そして今、戦争の世界に、それに相当するビッグイノベーションが起きつつあります。
信号、空港、病院……サイバー攻撃は生活全てを狙う
その代表例が、最近よく耳にするようになった「サイバー戦争」です。サイバー空間は今や、「第五の戦場」と言われるようになっています。
「サイバー」といっても、ピンと来ない人もいるかもしれません。
しかし、もし信号のネットワークが破壊されて、動かなくなったらどうなるか、想像してみてください。
また、空港の管制塔と、着陸しようとしている飛行機との通信が切れたらどうなるでしょうか。空港では1〜2分の間隔で、飛行機が着陸します。
その"交通整理"が消えれば、飛行機は着陸できなくなります。しかし燃料にも限りがあります。下手をすれば、大事故にもつながりかねません。
昨年、「ランサムウェア」というウィルスが、世界中に感染して大問題になりました。このウィルスが最初に襲ったのは、イギリスの病院にあるコンピューターだと言われています。大勢の入院している患者さんたちの体調を管理できなくなり、大混乱に陥りました。
私たちがお金を預ける銀行のネットワークも、攻撃対象です。2015年に発表されたアンケートによると、日本の金融機関の50%は、何らかのサイバー攻撃を経験しています。
つまり、"私たちの生活全て"がサイバー攻撃の対象となるのです サイバー攻撃は、犯罪か軍事攻撃かさえ分からない
しかしこのサイバー攻撃には、容易に防衛できない特徴があります。それは、攻撃元が特定しにくいということです。
サイバー攻撃は、コンピューター上においてワンクリックで仕掛けられます。その攻撃は、光の速さの0.3秒で地球を約二周しますが、攻撃元を特定するには、数カ月かかります。
つまり、攻撃を仕掛けられた時点で反撃するのは、事実上不可能なのです。そうなると、軍事学の原則であった「抑止力」が成り立つのかどうか、分からなくなります。それどころか、犯罪なのか、国による軍事攻撃なのかさえ分かりません。
多くの国の法体制においては、警察が対処すべきか、軍が対処すべきかの区分が難しく、さらに対策が遅れる可能性があるのです。
日本は「専守防衛」を謳っています。しかし、その概念が意味を成すのかという、根源的な問題にもぶち当たります。
また、今の日本において、サイバー攻撃に対応する法律は警察法規しかありません。自衛権の行使の要件としての「武力攻撃」としても認定されていません。
「サイバー防衛隊」がつくられたと報じられていますが、それはあくまで、自衛隊組織をサイバー攻撃から守るための部隊に過ぎません。
しかしこれからの戦争は、まずサイバー空間による奇襲攻撃から始まる可能性が非常に高いです。中国は実際に、サイバー攻撃を経てから、物理的な攻撃を行う訓練を行っています。
迅速な対応が求められる分野なのです。 "AI参謀"に誰も勝てなくなる!?
次に大きな革新をもたらすのは、AI(人工知能)です。
世界の大国は、「AIこそが覇権を左右する」とはっきり認識しているのです。アメリカのマティス元国務長官は、AIこそ、今後、アメリカが優位に立ち続けるための柱と語っています。
中国の国務院も、2030年までに「AIのフロントランナー」を目指す戦略を立てています。ロシアのプーチン大統領も、「AIの分野でリーダーにある者が世界の統治者になる」と語っています。
軍事の世界におけるAIには、「静止オートノミー」といういわば「参謀機能」を持つものと、「運動オートノミー」というAIを搭載したロボットが実際に攻撃を仕掛けるものの2種類があります。
「静止オートノミー」は、いわば参謀機能を果たします。
例えばアメリカは今、世界中に多数の無人偵察機を飛ばし、大量の情報を集めています。特に、「グローバルホーク」という偵察機は、地上にあるゴルフボール大のものまで認識することができます。
こうした偵察機によってアメリカは、毎日、米連邦図書館全蔵書の2倍のデータを収集しているのです。これらを人間が分析することは、ほぼ不可能です。
しかし、もし、これほどの情報をAIに高速で分析させたなら、米軍にはどのような力が手に入るでしょうか。さらにそこに併せて、人工偵察衛星、SNS、監視カメラなど、あらゆる情報を集め、AIに分析させればどうなるでしょうか。
AIが軍の参謀として、陸・海・空・サイバー・宇宙のあらゆる領域の情報から「どこで何が起きているのか」を瞬時に把握し、瞬時に作戦の提案ができるようになれば……。
敵よりもはるかに早く、質の高い意思決定ができるようになるのです。そうなれば、軍事的な優位は、格段に違ってくるでしょう。 戦争は複雑化し、人間頭脳の限界を超える!?
特に米軍は、陸・海・空・宇宙・サイバー・電子の6つのドメイン(領域)で、同時多発、かつクロスオーバーして戦闘が進むことを前提とした「マルチ・ドメイン・バトル構想」というものを進めています。
中でも米国のインド太平洋軍(旧・太平洋軍)は、率先して取り組む予定で、今年のリムパック2018では、この状況下での訓練になると伝わっています。
これは極めて複雑な作戦なので、人間の頭脳の限界を超えることが予想されます。
作戦立案どころか、「戦況の可視化」さえも困難になる可能性も高く、現況が勝利の手前にあるのか、敗北の瀬戸際なのかも判断がつきにくいことが予想されています。そのため、AIへの期待が高まっているのです。
「AIが指揮官に助言をする時代」に、日本のAI技術が米軍にキャッチアップできていなければ、日米共同作戦の指揮命令において、自衛隊の行動にも米軍が口出しするなど、事実上の米軍の配下に置かれてしまうような事態も想定されます。
また、上に紹介した「サイバー攻撃」にもAIは絡んできます。もしサイバー攻撃を受けた瞬間に、AIがIT機器の異常を察知し、自立的に防御・修復できれば、被害は少なく済みます。
つまり、どちらの国が性能の高いAIを持つかによって、サイバー攻撃の趨勢も左右されてしまうのです(*)。 次に、「運動オートノミー」の例です。ターミネーターのような戦闘ロボットもいずれ出てくるでしょうが、現時点で兵器化され得るのは、例えばAIを搭載したドローン兵器です。
殺害したい相手の顔を入力すれば、勝手に顔を認証し、自動追跡して攻撃に向かう時代も近いうちに来るでしょう。
こうした「自律的致死兵器システム(LAWS)」は、火薬や核兵器に続く「戦争の第三の革命」と予想されています。
(*)もちろんAIの意思決定をどれだけ信頼すればいいかについては課題が多い。意思決定の前提となるデータそのものの信頼性や、人間の「勘」「インスピレーション」のようなものを含む判断に劣る可能性なども、挙げられている。 3DプリンターがAIと組み合わされた時……
さて、次は3Dプリンターです。
同技術の進歩もめざましく、コンクリート製の一軒家を、たった1日で、100万円ほどのコストで、そして人間が造るよりも高い強度でつくることもできるようになっています。
また、最新機「ボーイング777X」という史上最大のジェット機のエンジンに使用されるノズルは、3Dプリンターでつくられます。
今までの金属製品とは異なり、鋳型をつくる必要がありません。また、即座に修正や改善を反映させることができるのです。さらに、アメリカのF-35も、45個もの部品を3Dプリンターでつくっています。
3Dプリンターでつくる部品は、経費が安く、迅速で、どこにでもつくることができ、輸送時間も大幅に短縮できるため、極めて軍事に向いています。 戦場で兵器が壊れた際には、本国から部品の輸送を待つことなく、必要な部品を自動で製造できます。中には、敵地に飛行中の航空機内において、3Dプリンターによってミサイルを生産し、発射させるという計画まであります。
この技術が軍事において最も威力を発揮するのは、AIと組み合わされた時です。実戦を経れば経るほど、自己学習して、部品・兵器の精度・性能を上げることができるのです。戦争中、兵器が勝手に進化し続けるのです。
この技術において、今、最も先頭を走っているのは中国だと言われています。
しかし、安く、そして速く兵器を調達する仕組みが最も必要なのは、軍事費も少なく、昔から兵站思想が弱い日本ではないでしょうか。
現在、ミサイル防衛強化などの議論がされていますが、さらに一歩も二歩も先の議論をしなければ、この国をますます危機にさらすことになってしまうでしょう。
(本記事はHSU未来創造学部で行われた公開授業の内容を加筆編集したものです) 🔥 信仰の法
第一章 信じる力
1 一生懸命に道を求めてきた私の人生
私も宗教家として立つとき、周囲の無理解に悩んだ
本章は、建国記念の日に大分県で行った法話がもとになっていますが、幸福の科学に降ろされるさまざまな霊示では、大分や熊本、宮崎のあたりが、「日本という国の発祥」のころに大きな縁のあった場所と言われています。
そのことを心の片隅に置きながら、この国が二千六百年、二千七百年と続いてきたことに感謝しつつ、真理の一端なりとも語ることができれば幸いです。
「信じる力」と題しましたが、あまり難しくなりすぎないように述べていきたいと考えています。
ただし、「難しくない」ということは、「内容が悪い」とか「程度が低い」などということではなく、「多くの人に通じる、分かりやすい話」を目指したいということです。
さて、幸福の科学が1986年に活動を開始してから、すでに30年以上が過ぎました。実際には、私は1981年から天上界の霊示を受けているので、30数年にわたり、この真理の世界で活動をし続けていることになります。
そのように、一定の年数というものは、どうしても必要なところがあると思います。
実際に、長く続けているなかで、この活動がだんだん普通のこととなり、分かってくださる人も多くなってきました しかしながら、立宗初期には、この活動は、自分一人の問題だったり、家族だけの問題だったり、自分の周りにいる身近な人たちとの関係の問題ぐらいにすぎませんでした。
その間、私も、人並みにいろいろと悩むこともありました。
「人に説明できない内容を、どうすれば分かってもらえるか」ということで、ずいぶん苦労したのを覚えています。
一般に、会社を辞めるとき、ほかの会社に移るとか、別の仕事を始めるとかいうことだけであれば、理解してもらえる場合が多いかもしれません。
しかし、私の場合は、「天上界からの啓示を受けるようになって、すでに5,6年がたっている。このたび、新しい宗教をつくるつもりなので、会社を辞めて独立したい」
ということであったため、その相談をした相手からは、十人が十人とも反対されました。 さらに、「それはいったい、どういうことをするものなのか、分かるようなものを何かもってきてください」と言われたので、当時、すでに出版していた数冊の霊言集を見せたところ、相手は、余計にのけぞってしまったのです。
誰もが言葉を失い、まともにコメントできた人は一人もいませんでした。
「嘘だろう?嘘だと言ってくれ」「ここだけの話でもいいから、嘘だと言ってほしい」という感じの反応が相次ぎ、「いや、本当です」と答えるような状態だったのです。
彼らの率直な気持ちとしては、そのように「嘘だろう?」「勘弁してほしい」という感じだったようです。
今まで一緒に仕事をしていた仲間のなかに、天照大神や日蓮、あるいはイエス・キリストの声が聞こえる人物がいたなどというのは、信じがたいことだったろうと思います。 もちろん、「歴史上、そのようなことをできる人がいた」というぐらいであれば、どこかで聞く機会もあったかもしれません。
そういうものはあくまでも過去の話であって、歴史的にはあっても構わないとしても、「今自分の周りでそのようなことが起きている」とは思いもよらなかったでしょう。
「自分と一緒に話をしたり、仕事をしたり、食事をしたり、あるいは相談を受けたりしていた仲間、関係者の中に、そういう人がいた」という衝撃は大きかったようです。
また、初めてからしばらくは、私の家族の間でも、「うーん、困った」というような意見が多かったように思います。
「家族に一人ぐらいは、この世の中でしっかりと成功してくれる大黒柱のような人がいてほしかったのに、そちらの世界に行ってしまうのか。父親が、あの世の話が好きだったために、こんなふうになってしまったのか」
というような意見もあり、家族も大変だったでしょう。親戚も同じような状況でした。
したがって、それから数年後、数十年後に入った信者の皆さんの身に起きているような問題は、私が最初のうちにほとんど経験したことでもあります。
さらに、会社を退社後も、どこから聞きつけたのかはわかりませんが、ヘッドハンティングのような電話があちこちから入ってきたのです。
ときには、実家のほうにまで電話が入ることもありました。
今度、こういう会社を新しくつくるのだけれども、ぜひとも来てくれないか」とか、「給料を、以前の二倍でも三倍でも、言うだけの額を出す」とか言ったことをしきりに言われ、
私としては、「ちょっと違うんだけどなあ。そういうわけではないんだけどな」と思いつつも、うまく説明できないもどかしさを感じたのを覚えています。 奪うばかりでお返しができていない」という20代前半での気づき
あの当時の不安感のもとは、結局、「自分自身が、天上界からくる声というものを、どこまで信じられるか」というものだったと思います。
「霊的な声が聞こえる」というだけのことであれば、そういう人は、確かに、全国各地にいるでしょう。
沖縄にも、青森にも、それ以外のところにも大勢います。そうした人たちのなかには、街の小さな霊能者として活動している人もいれば、宗教を開いた人もいます。
ただ、当時の私のように何の実績もないものにとっては、「その霊的な声をどこまで信じたらよいのか」ということになると、やはり、自信がないのも無理からぬことではあったでしょう。
私は30歳にして宗教家として立つことになったものの、正直に述べれば、それまで生きてきた30年間を振り返っても、自分がこの世的に大きく道をそれなければいけないような理由や、さまざまな惑わしのなかに生きなければならないような理由は見当たりませんでした。
もちろん、「試行錯誤がなかった」と言えば嘘になりますが、どの年齢の時にも、どの時期にも、一生懸命に道を求めていたことは事実です。
何らかのかたちで真理を求め、自分を高めようとする努力は怠らなかったし、自分が誤っていると思うことに関しては、何とか努力してのり越え、自分自身の性格を変え、生活態度を変え、勉強の仕方や仕事の仕方を変えて、
「人々が納得してくれるような自分になろう」と努力をしたことも、困っている人を見たら、「何とかして助けてあげたい」と思ったことも事実です。
今と比べれば、若いころの自分は、もっともっと角が立つところがあったと思いますし、厳しくきつい言葉をよく使っていたようにも思います。
それでも、その根本においては、「何とかして、自分自身を、もっと世の中の役に立つ人間に変え多くの人々のためになる仕事をしたい」という気持ちでいっぱいだったと感じるのです。 また、大人になるまで育ててくれた両親への感謝も忘れたことはありませんし、「お世話になった人々へのお返しをしなければ」という気もちも多々ありました。
さらに、私自身、霊的な道に入るまでの二十年余りの間には、他人さまからしてもらったことがたくさんあったにもかかわらず、自分が他人に対してあげたお返しは、実に少ないことに気づきました。
「自分は二十余年間、他人から奪って奪って、「奪う愛」のなかを生きてきた。さまざまなものを奪って大きくなった。その間、自分の体もプライドも大きくなったかもしれないけれども、お返しという意味では、ほとんどできていない」
というようなことを実感したのです。
そのように気付いたのが、二次十代前半のころのことでした。
この世的には、何ら、犯罪的な行為をしたこともなく、積極的に人を害した覚えもありません。
ただ、それまでの人生そのものを振り返ったときに、「今、死ぬとしたら、自分は他人からもらってばかりで、何一つお返しができていない。もう、もらうばかりの人生だったな。もし、人生の『愛の貸借対照表』を記入してみたら、赤字ばかりで、全然だめだな」
と思ったのです。
若い人にとっては、そういうことを考えること自体が不思議に感じるかもしれませんが、その当時の私は、自分の人生を振り返り、「人からもらうばかりで、全然お返しができていないな」と思ったことを覚えています。 また、大人になるまで育ててくれた両親への感謝も忘れたことはありませんし、「お世話になった人々へのお返しをしなければ」という気もちも多々ありました。
さらに、私自身、霊的な道に入るまでの二十年余りの間には、他人さまからしてもらったことがたくさんあったにもかかわらず、自分が他人に対してあげたお返しは、実に少ないことに気づきました。
「自分は二十余年間、他人から奪って奪って、「奪う愛」のなかを生きてきた。さまざまなものを奪って大きくなった。その間、自分の体もプライドも大きくなったかもしれないけれども、お返しという意味では、ほとんどできていない」
というようなことを実感したのです。
そのように気付いたのが、二次十代前半のころのことでした。
この世的には、何ら、犯罪的な行為をしたこともなく、積極的に人を害した覚えもありません。
ただ、それまでの人生そのものを振り返ったときに、「今、死ぬとしたら、自分は他人からもらってばかりで、何一つお返しができていない。もう、もらうばかりの人生だったな。もし、人生の『愛の貸借対照表』を記入してみたら、赤字ばかりで、全然だめだな」
と思ったのです。
若い人にとっては、そういうことを考えること自体が不思議に感じるかもしれませんが、その当時の私は、自分の人生を振り返り、「人からもらうばかりで、全然お返しができていないな」と思ったことを覚えています。 座談会の会場は、小さな会場ながらも全国から来た参加者で満員になってしまったため、私は会場内を通ることができず、会場脇のベランダ伝いに演壇まで行くという、゛危険な綱渡り”をしながら入場したことを覚えています。
そこで、二時間四十分ほどあった行事のほとんどを話し続けました。
聴衆は、いったい何が起きているのかはあまり分からなかったものの、「とにかく、これから何か大変なことが起きそうだ」という予感だけを持って帰ったのだと思います。
その最初に集まった九十人弱の人々が核となり、さらに、第一回の講演会や研修会を行っていったのです。
初めての研修会は琵琶湖畔で開催し、百八人ほどが集まりました。
この最初の研修会に集まった百人余りの人のほとんどが、その後、当会の職員になったというところからも、最初期の熱意がどれほどすごかったかがよくわかると思います。
様々な経歴を持った人々が職員になり、さらに、研修中、食事等の際のために分けた班の班長を務めた人のほとんどが、のちの役員になりました。そのような状態で始めたわけです。
ただ、当時はまだまだ鍛え抜かれた゛正規軍“ではなかったこともあり、
最初のころは、新しい人が入ってきては人材の入れ替えが起きたり、組織の運営の仕方等、いろいろなことでつまづきながら、ようやく、大きく回転するようになっていったと思います。
三年もすれば、かなり大きな会場でも講演会ができるようになっていました。 このように、私に降りてくる力は非常に大きく強いものではあったものの、この世での力というのは、まだ、練習を積み、実績を積みながら、少しずつ少しずつ進んでいかなければ信用を得られないような状況ではあったということです。
また、『聖書』に書かれた「先のものが後になり、後のものが先になる」という言葉どおりのことが数多く起きました。
必ずしも、最初のころに当会に来た人がリーダーになるわけではなく、三年後に来た人、五年後に来た人、十年後に来た人など、後から来た人のなかに、力のある人がだんだんと増えていったのです。
教団が大きくなればなるほど、力のある人が後からやってくるので、前からいる人と、あとから来た人との力関係の上下の問題なども出てきて、組織の運営に関しても、たいへん勉強をさせられました。
私自身も予想していなかったような人たちが次々とやってくるので、どのように運営していけばよいのか、悩んだりしたことも数多くありました。
実は、宗教では、そうした組織運営上の問題でつまづく人は多いのです。
これは、当会だけではなく、ほかの宗教にも言えることですが、教えや教義に対する疑問というよりは、たいてい、「組織運営がうまく回っているかどうか」といったところでつまづくことが多く、それを固めるのは非常に難しいことかと思います。 なぜ多種多様な教えを説いているのか
幸福の科学グループでは、政治分野、教育分野、芸術分野、その他、次々と新しい分野に進出しているので、そのつど、イノベーションが起きます。
その一方で、当会が新しい分野に進むことで変化が起きると、教団の性質が変わったようにも見えるため、それまで、「これを勉強して、このようにするのだ」と思っていた人のなかには、急にクラっときて分からなくなってしまうような人もいるわけです。
例えば、私の著書としてさまざまな本を発刊していますが、本によってまったく異なる内容が含まれていることに気づかれるでしょう。
ただ、それは、当会を支援してくださっている人を混乱させようとしているわけではないのです。
この世のなかには、いろいろな職業に就き、さまざまな分野に関心を持っている人がいます。
そうした興味・関心や立場の違う人々に向けて、「どこからでもよいので、自分にとって関心のある入り口から入ってきてください」という願いを込めて、幅広い内容の本を出しているのです。
そういう意味では、その一冊一冊が大事なものではあるのですが、それについて知っている人もいれば、知らない人もいるでしょう。 先ほど、草創期のところでも少し触れましたが、「天照大神の霊言」を発刊したときに、こんなことがありました。
当会が最初の事務所を開いたときにお世話をしてくれた人が、そのタイトルを見て、「『てんてるだいじん』って何ですか」と訊いてきたのです。
それには私もガクッときたのを覚えています。
確かに、戦後はそういう神話や信仰といったものに対する教育の部分が抜けていることも事実ではありますが、さすがに、「てんてるだいじん」と言われるとは思わなかったので、しばし絶句してしまいました。
日本の教育では、神話教育、信仰教育を限りなく排除していきましたし、宗教系の学校として認められているものの半分以上はキリスト教系ということもあってか、伝統的な信仰について、よく分からない人も増えているのでしょう。 今後、「見たこともないような大きな奇跡」が起きる
さまざまなことを述べましたが、教団を立ててから、三十年余りのなかで、結局、、いろいろなものが実績として積み上がってきたのだと思います。
六畳一間を借りて始めた最初の所から、今では、建物だけでも七百か所以上は持っていますし、その他の支部・拠点・布教所等を入れると、全世界で約一万か所を持っています。
そして、それぞれが、次なる人材や予算の投入によって、もう一段、大きくなる要素を秘めた状態になっているのです。今は、それらのものをどんどん推し進めていくのみだと考えています。
今までにしてきたことは、私たちの活動の゛前半部分”と考えています。これからの゛後半゛で、今まで見たことのないような大きな奇跡が、もっともっとはっきりと出てくるでしょう。
私は、考え方のかたちを非常に理論的につくっていくほうなので、かたちがきちっとできないと大きくはしないタイプなのですが、スタイルができてくると、それを加速していくタイプでもあります。
ですから、これからの後半戦で今までに見たことがないほどの大きな力を持つようになってくるはずです。それは、当事者である、当会のリーダー的立場にいる人たちにとっても、驚くような変化が出てくるでしょう。
今までの長い「アマチュアの時代」が終わり、これから、いよいよ「プロフェッショナルの時代」が始まると考えて結構かと思います。 日本の大きなトレンドを当会はつくっている
まだまだ十分ではないものの、いつの間にか、当会は日本のなかでは最も競争力のある宗教になりました。
「競争力」という言葉は正確ではないかもしれませんが、旧い宗教は、もちろん、かなり゛刃こぼれ”していつでしょうし、
ここ数十年ほどの間にできた新しい宗教のなかでも、当会は、いろいろな面において、「先見性」、「先進性」がある宗教になってきたと思います。
当会の活動だけを見れば、「これが本当に宗教なのか」と思われるような面もたくさんあるでしょう。また、「そうは言っても、例えば政治運動などは、あまりうまくいっていないのではないか」と言う人もいるかもしれません
確かに、そういう見方もあるでしょうが、私たちが言ってきたことの多くは、いろいろな政治家や政治団体、政党等を通して、次々と実現しつつあります。
つまり、あとから押して実現してきているわけです。 今、当会は、そうとうな理論的主柱になっています。実は、当会以外の勢力の人々も、当会の考えを数多く勉強しているのです。
私の本は、政治家や、各省庁、マスコミ、その他の方々にも勉強されているので、目には見えない日本のサブカルチャーをつくっていると言ってもよいかもしれません。
外からは分かりにくいでしょうが、今、当会が日本の大きなトレンドをつくっているのです。
したがって、当会が出している本を読めば、何がどう動いていくかが見えるわけです。
阿部首相は、二〇一七年二月にホワイトハウスに行き、その後、フロリダに行って、トランプ大統領とゴルフをしたそうです。
直行でワシントンに行き、昼食をとった後、エアフォースワンに乗ってフロリダへ行き、ゴルフをして、トンボ返りですぐに日本に帰ってくるというのは、結構大変なことです。
それは尊敬に値する体力であり、サラリーマンでもできないことでしょう。こういう仕事は、投げだしたときが終わりなので、そのつもりでやっているのだとは思います。
私が、二〇一六年の年初から、「次はトランプ政権だ。『トランプ革命』だと思って、この流れについていかなければ駄目だ。あとの執着は断ち切って、この方向に舵を切れ」
ということをかなり発信したことによって、この国も、そちらの方向に向かって動いているのでしょう。
これはこれでよいことだと考えています。私たちには、そういうことを受け入れるだけの気持ちはあるのです。 「考え方」「理想」「思いの力」によって世界を動かす
私たちが言っていることを、ほかの政党が実現してくださるのも結構なのですが、できれば、もう少しだけ我が党を応援してくださってもよいのではないかと思います。
わが党の入る枠を少しだけ空けてくださると、ありがたいものです。
例えば、ロシアのプーチン大統領などは、「日本との条約や、北方領土の問題を解決したいのだけれども、まだ信用ができない」というのが本音です。
そして、「信用できるのは幸福の科学教団だけだ」と思っているのでしょう。
プーチン大統領は、当会の守護霊霊言等を勉強しているので、当会の主張している内容は伝わっています。
そのなかで、プーチン氏の守護霊は、「私の考えはこのとおりだけれども、今の日本の政治がこれでは、そのままにできないのだ。
K党との連立政権ができるのであれば、島を返しても構わない」と挑発していらっしゃるので、私としても、何とか、゛実験”してみたいなと思ってはいるのです。
このことは、頭のどこかには置いておいてください。
やはり、ロシアのほうも情報網を持っています。
二、三年ほど前、学園那須本校の生徒が、ロシアのハバロフスクで開催された芸術展示会に絵を出品したところ、入賞し、ロシアのほうに展示されたのですが、その後、それだけを理由にして、
ロシアの学校の生徒が親善友好訪問というようなかたちで学園那須本校にやって来て、文化交流をしました。
そのようなことは、普通はなかなかありえないことなので、ロシアの政府筋から道をつくったのではないかと思われます。
そのようなかたちで、ロシアとの交流が水面下で進んでいるのです。 またアメリカでも、トランプ政権登場前の、トランプ氏が圧倒的に不利だと言われていた時期から、
当会の国際本部や、あるいは党の関係者等はトランプ氏の側近と連絡を取り合っていましたし、側近の人は、私の二〇一六年十月二日のニューヨークでの講演会にも来ています。
その側近の方を通じ、トランプ大統領ご自身が、身につけているカフスボタンと同じものをプレゼントされました。
そのように、今、当会は、アメリカやロシア、あるいはその他のところに、水面下で大きな影響を与えています。
現実に、本当の政治が動いているのです。
すなわち、私たちの行っていることは、間違っているわけでも、的外れなわけでもなく、まずは、「考え方」「理想」「思いの力」で、世界を動かし始めているわけです。
実際に人が目に見えるかたちでそれを動かし始めるようになるには、もう少し時間がかかると思いますが、だんだんにかたちは出てくるでしょう。 3 世界中の戦争を終わらせるために活動を続ける
いま、私たちは大きな「時代の変わり目」に存在している
日本では建国記念の日に当たる二月十一日は、南アフリカのネルソン・マンデラ氏が、一九九〇年に二十七年間の監獄生活を終えて釈放された日でもあります。
当会では、「ネルソン・マンデラ ラスト・メッセージ」という霊言を発刊しましたし、国際活動をするにあたって、「HS・ネルソン・マンデラ基金」という募金活動も行っており、
こういうものを通じて知っている人もいるでしょうし、募金への寄付をしている人もいるでしょう。
私が幕張メッセ等の会場で講演会を行うようになった一九九〇年ごろに、マンデラ氏は釈放され、その後、大統領になり、「白人と黒人に分断された国家を一つにする」という偉業を成し遂げました。
このように、黒人解放運動をし白人政府からすれば、ある意味でテロリストのように見えていた人が。
二十七年の刑期を終えて出所した後、大統領になり、分断された国家を一つにしたわけです。
今、「トランプ大統領によって、アメリカが分断されるのではないか」などと多くのマスコミから危惧の声が出ていますが、実際には、そうはならず、その正反対のことが起きてくるのではないかと私は読んでいます。
アメリカが再びアメリカらしくなり、「世界の先生」として、世界を護ってくれるようになると思うのです。
その時の日本の果たすべき役割は、おそらく、今までよりも、もっとはるかに大きなものになってくるでしょう。アメリカの良き片腕になるはずです。
やはり、先行するものは「考え方」です。
では、その「考え方」とは何でしょうか。今の時代を目指して、天上界の神々、あるいは高級心霊から降ろされているさまざまな教えがあります。
そのことに関して、「なぜ今、この国に、これだけの教えが、天上界から降り注いでいるのか」ということを知ってほしいのです。
時代的に見れば、こういうものはめったにないことであり、それが来るというというのは、今、私たちは、「大きな時代の変わり目に存在している」ということだと思うのです。 宗教戦争のもともとの「争いの種」を無くそうとしている
これまで、当会は、七百人以上のスピリチュアルな存在から霊言を頂いています。
本として出したものは霊言集だけで四百五十冊を超え、外国語にも翻訳をされて発刊したものも多く、諸外国で読まれています。
特に、信仰心の高い国においては、その浸透率が非常に高くなっています。
日本では「霊言」というだけで警戒する人のほうが多い傾向はありますが、スプリチュアルなものを信じる国においては、非常にストレートに、スーッと入っていくようなのです。
そして、私は、次のような教えを説いています。
「世界は、仏教やキリスト教、儒教、道教、イスラム教、ヒンズー教、日本神道など、いろいろな宗教に分かれている。これらは、交通手段も連絡手段もなかった時代にバラバラに起きた宗教である。
それぞれの民族のために起こした宗教であり、現代においては、そうした世界各地の高等宗教をまとめる教えが必要だ。
その教えの下、様々な宗教を信じる各地の民族を、もう一度、お互いに理解できるような土俵に乗せて、話し合えるようにしなければいけない」と考えているわけです。
もちろん、「国防」等についても述べてはいますが、それは、実用的な面で大事なことだからであり、宗教として伝えているのは、
「それぞれの宗教の違いによって、争いが起き、殺し合いが起きるということは、あまりにも虚しいことである」ということです。
どのような意図でキリスト教やイスラム教ができたのか、その本来の意味を明らかにすることによって、もともとの「争いの種」を切ってしまおうとしているわけです。 アジア各地で起こる戦争を乗り越えるだけの思想を提供する
中国は、マルクス主義が入ってから無神論になり、「宗教はアヘンだ」などと言い始めました。
例えば、毛沢東は、チベットに侵攻し、仏教を弾圧しやりしましたが、中国の思想そのものを見れば、中国にも、「天帝」といわれるものがあります。
天なる帝、要するに、「神様がいる」という思想は、何千年間も連綿として続いているのであり、中国人は神を信じていないわけではないのです。一般の多数の人々は、みな信じているのです。
そのなかに、神仙思想や道教思想、あるいは仏教思想、さらに今は、キリスト教と、さまざまな宗教が入っていますし、一部には当会も入っています。
それから、現在は、台湾にも大事な゛光が降りて”いますし、北朝鮮と韓国を含む朝鮮半島も、どうにかしたいと思っています。私が、この地上にいる間に、この南北朝鮮問題は乗り越えたいと考えているのです。
やはり、このままでは不幸です。北朝鮮の人々はどのように思っているのか、あるいは、政府によって、どのように宣伝され、洗脳されているのかはわかりません。
また、韓国の人々も、ある意味では、北朝鮮に対して対抗心を燃やしながらも、中国に寄ってみたり、日本に反発してみたり、アメリカに反発してみたり、近寄ってみたりと、いろいろなかたちで、自国の自主的な方向を打ち出せないでいるように思います。
この北朝鮮、韓国、それから中国の大きな問題を、何とか、私の時代に乗り超えたいと考えているわけです。
しかしながら、当面はまだ厳しい時代が続くでしょう。 現在、中国は、南シナ海の岩礁をコンクリートで埋め立てて全長三キロメートルの滑走路をつくり、そこから爆撃等もできるような態勢ができていますが、
おそらく、トランプ大統領の登場によって、向こう四、五年のうちに、局地的な戦争が起きるのではないかと私は推定しています。
こうした状況に際して、安倍政権が「わが国の国防も、実務的なレベルにおいてきっちりしたほうがよい」と考えている点については、ある程度応援していますし、
国防に関しては、当会が理論的に引っ張ってきたところが大きいと言うべきでしょう。
今のところは、まだ、そうした南沙諸島や、北朝鮮、台湾問題等による軍事的な大戦争が起きるところまでは行かないでしょうが、今後、局地的な紛争ないしは戦争が起きる可能性は高いとみています。
したがって、日本としても、「国防」の自覚を持つことが大事であると同時に、やはり、それを乗り越えるだけの「理論的な思想」がなければいけません。
七十年、八十年前の過去の話ばかりをしていても、絶対に前には進みません。そんなことをしていても、自分たちに都合の良い理由をつける以外にないので、それを乗り越えて「前に行くための思想」が必要ではないでしょうか。
そして、私は、「当会の思想がそれに当たる」と考えています。未来には、こうしたアジアの不安定な地域も、安定化ならしめたいと思っているのです。 人間を超えた存在があって初めて実現する「許し」「和解」
マルクス主義のなかにも、弱者に対する優しい考えが入っていることも事実です。ただ、「この世には物しかない」という唯物論のところは、やはり、明らかに間違っています。
この三十数年間いろいろな霊指導を受け、霊言を送られてきた私の経験からみても、唯物論が正しくないことは間違いありません。これはどうしても認められないことであり、「宗教はアヘンである。毒薬だ。」というような考えを肯定することはできないのです。
やはり、神様無くして、人間性や、人間の道徳が向上することなどありえません。
人は、自分たち以上、人間以上のものを信じることによって、崇高な気持ちを持つことができます。また、憎しみ合っている者同士がお互いに許しあい、和解しあうことができるのは、人間という立場を超えた存在があって初めて実現することだと思っています。
幸福の科学は、そうした「許しの原理」をも含んでいます。
対立を起こしたいわけではありません。戦争をしたいわけでもありません。
危険なものに対し、政治的には備えなければいけないこともありますが、それは、戦争をしたいからではなく、「悪い人たちが、悪いことを思いついてはいけないから、そうした備えはしておいた方がよい」と考えているのです。
思想的に「争いの種」になっているところに問題があるならば、それよりも大きな思想でもって乗り越えていくことが大事だということを、繰り返し繰り返し述べているのです。 4 「信じる力」が、奇跡を起こす
アジアやアフリカにも浸透している幸福の科学
信仰心のある国の人々の場合、幸福の科学の教えを、日本人よりもはるかによくわかってくれることがあります。
2011年に、私がインドで講演会を行ったときに、こんなことがありました。
「今から二千五百年以上前に、釈尊が悟りを開いた場所にあった」と伝えられる菩提樹の孫かひ孫にあたる大きな木がある所に、現在ではマハーボーディ寺院という大寺院が建っています。
私がブッダガヤで四万人以上を集めて野外講演会を行った際、聴衆席の一列目、二列目の中央あたりの一角は、マハーボーディ寺院の僧侶ばかりで占められていました。
つまり、僧侶を相手にして話をしなければいけないという状態だったのです。
その講演会場は、布で仕切りをつくり、約四万人が入れるようなものを用意していたのですが、私の講演が始まってからも、入りきれない人々が次から次へと押し寄せ、何とか会場内へ入ろうとして大変でした。
講演を目指して各地から何キロも裸足で歩いてやってくる人が止まらなかったことを覚えています。 「愛国」とか「日本人」を名乗らなきゃいけない連中が使い始めた言葉って、
どこか日本本来の美風を損ねるようなキナ臭い匂いがする。
ちなみに「美しい国」は統一教会が考えた言葉。 また、2012年にウガンダの国立競技場で講演したときも、大人数の参加者が会場に集まりました。
そのときは、講演前のプログラムの途中でスコールがあり、聴衆の一部には場外のバスへ退避する人もいたのですが、なんと、スタジアムに呼び出しマイクの装置がなかったために、
「これから講演が始まりますので、スコールで退避している方は会場内に戻ってください」という案内ができず、講演が始まってからも、バスの中で雨宿りしていた人たちが取り残されてしまったのです。
また、各地から来る予定だったバスのうち、百数十台が到着しないというトラブルもありました。
さらに、スタジアム内にいた人たちは、プラスチックの椅子を頭の上に載せて、雨避けしながら講演を聴いているような状況でした。
そのため、映像としてはやや放送しにくい状況ではあったのですが、現地の国営放送等は、上手に放送してくれていたようです。
その後、講演を見逃した人たちがかなり怒ったこともあり、私の講演は、何局ものテレビ局によって、ウガンダ全土、および周辺国で何度も繰り返し再放送されました。
ウガンダ国外に放送された分も含めると、アフリカで私の講演を聴いた人の数は、三千万人から五千万人ぐらいは行っているのではないかと言われています。
したがって、アフリカにおける私の知名度は非常に高いのです。
それから、香港等、アジアの他の国々でも、あちこちで私の姿を見つけては、「一緒に写真を撮ってほしい」などと言って寄ってくる人が絶えません。
こんなことは日本ではありませんので、国民性の違いも関係しているのかもしれませんが、海外ではそういう事があるわけです。
このように、当会も、世界中でずいぶん知られてきてはいます。 【これは酷い】自民党の穴見陽一議員、参考人のがん患者に野次!「いいかげんにしろ」
https://johosokuhou.com/2018/06/21/6635/
本当に馬鹿だな、この還俗代議士。 トランプ報道に見る「世の中に認められること」の難しさ
トランプ大統領は、マスコミを敵に回し、「嘘ばかり報道している」と発言していますが、それは、日本のマスコミにも同じことが言えるでしょう。
トランプ氏に関しては、「ずいぶん過激なことを言うものだ」とは感じつつも、そういうことは、私もよく言ってきたことではあるので、似たような人が出てきたなと思ってはいるのです。
おそらく、彼が非常に正直に物事を言っているところを、すべて悪意に捉えて報道しているような面はあるのでしょう。
マスコミの本能として、「権力者に対しては抵抗しなければいけない」という不文律があるので、そういう専制君主的な権力を持っていそうな人が出てきた場合には、それに立ち向かう使命があることはよく分かります。
「いちおう、゛牽制球”を投げてみて、どうなるかを見る」という面があってもよいとは思うのです。
ただ、普通、大統領になって最初の百日間ぐらいは、「ハネムーン期間」として、新大統領への批判をしないものなのですが、トランプ大統領の場合、゛初めから“批判をされ続けて戦っているような状況で、頑張っています。
あのような状況を見ると、「アメリカでもそうなのか」と感じるところがあります。やはり、すべての人に納得してもらうことは、なかなか難しいものなのでしょう。
民主主義的な制度である選挙で勝って大統領になったにもかかわらず、一部の国民が「認めない」などと言ってデモをしている状況を見る限り、アメリカも、まことに”非民主主義的な国家”になっていると思います。
やはり、世の中に認められるということは、なかなか難しいものなのだなと感じています。 「自助努力をしつつ信じる者」に大いなる他力が及ぶ
今、幸福の科学を静かに見守っている人は数多くいると思いますが、私たちの言っていることを、そのままストレートに、正直に受け取るのは怖いと思う人も、やはり、一部に入るでしょう。
ただ、ここで述べておきたいことは、「私たちは、基本的に、多くの人々を救いたいという気持ちでいっぱいなのだ」ということです。「助けたい」と思っているのです。
自分自身で自分を磨き、立て直していける人には、そのようになってほしいし、それだけの力のない人には、自分自身を力強く豊かにできた人が手を差し伸べて、手伝えるようにしてほしいと考えています。
「政府が『大きな政府』となって、すべてやってくれればよいのだ」というふうに考える人もいるでしょうが、諸国を見ても、残念ながら、実際上はそのようにはならないことの方が多いのです。
ですから、「自分たちでできることは、自分たちでやっていきましょう」ということです。 そのように、自助努力を勧めつつも、そのなかで信じることによって、大きな他力が人々を救うことになります。他力というものも忘れてはなりません。
実際に、幸福の科学では、いろいろなところで奇跡が起きています。信じる者には奇跡が起きているのです。病気などもたくさん治りました。すでに何百、何千と治っており、今も治り続けています。不思議なぐらいです。
ただ、私たちは、そのことをあまり大きく宣伝してはいません。なぜならば、それを「当たり前のこと」だと思っているからです。
それは、その人の信仰心が病気を治しているのであり、私たちが医者の代わりに治しているつもりはありません。
「その人の信仰心が、天上界の同意を得て、天上界から反応を受けたときに、病気が治る」という奇跡が起きてくるのです。そういうときでなければ、奇跡などはなかなか起きるものではありません。
また、経済的に立ち直った人や、ここ三十年ぐらいで、自社が大企業になったような信者も数多くいます。 信者ではなくても、私の本を読んで、起業成功を達成した人もいます。
あるいは、教育においてもそうです。
ある校長先生が新しい学校に転勤したところ、校長室に、私の著書である「教育の法」が置いてあったそうですが、そういう学校がたくさんあると聞いています。
教育者の中にも、幸福の科学の提唱している新しい教育の在り方について勉強している人が数多くいるのです。 「幸福の科学」の名前を隠さずに堂々と活動している幸福実現党
実は今、幸福の科学の信者のように、目に見える形で活動している人以外にも、数多くの理解者がいます。
そういう人たちが自信をもって、「私も手を差し伸べて、一緒に協力したい。活動してみたい」と言えるだけの「自信」と「勇気」に満ち溢れた団体をつくっていくことが、今、当会として必要なことだと考えています。
そういう各界にいる人たちが、自分から信仰告白をし、「私は幸福の科学の信者です。これで自信をもってやっています」とカミングアウトできるようになってほしいのです。
「『幸福の科学』の名前を出したら選挙で落ちるから、出せない」などというような弱い人ではなく、「幸福の科学」の名前を出して、堂々と当選する人が出てほしいのです。
そのためにも、幸福実現党は、あえて隠さずに、堂々と活動しています。
最初は怖いかもしれません。ただ、何度も何度も選挙に出ていれば、人間性というものが見えてくるでしょうから、「何を訴えているのか、どういう事をしようとしているのか」ということが分かってくるはずです。
かつて、ある自己実現の大家が、「一回の失敗で諦める人は凡人であり、三回失敗しても諦めない人はなかなかの優れ者であり、十回失敗しても諦めない人は天才だ」というように言いました。
それで言えば、幸福実現党は、まもなく、”天才”の域に入ろうとしています。おそらく、そうなるでしょう。
私は、実力というものは、負ければ負けるほど出てくると思っているのです。
本当は、幸福実現党の支持者はいろいろなところにいるのですが、「現実の政治は、ブランドのある老舗のところに任せた方が楽だろう」と思い、
そちらを支持している人も多いし、小選挙区制であると、どうしても二大政党制へと収斂していく傾向があるので、第三極以下はなかなか勝てないようになっています。
それでも、そのなかで、次第次第に浸透していくことになるでしょう。
最後は、日本中の人々が信者になってくれればよいと願っているのですから、そこまでやるしかないと考えています。
「すべては前に向かって進んでいる」と思っているのです。 「信じる力」の持つ本当の意味とは
まだ「信じる力」の本当の意味を分かっている人はそう多くないかもしれませんが、「信じる力」とは、心の中の気休めだけではありません。
「信じる力」というのは、本当に物理的な力を持っており、この世において生きる上で各人の道を妨げているものを打ち破り、貫いていくだけの力があるのです。
現代では、知識人と言われる人の中には、不可知論を唱えて、「この世の中について、本当のことなど分からない。神様など分からない。この世の始まりもわからない。霊など分からない。霊界など分からない」
というような人が大勢います。そうした不可知論の人々、信じられない人々の山の中を、トンネルのごとく、くりぬいてゆく力が、「信じる力」なのです。
この、「信じる力」をレーザー光線のように結集していけば、どのような山でもくりぬくことができます。
今こそ、そういう時が来ていると思うのです。
全国の幸福の科学の信者の皆さん、それから、幸福の科学のシンパの皆さん、幸福の科学に関心を持っている皆さん、あるいは、未来の予備軍の皆さん、
もし、私が三十数年間続けてきたことの中に、「真実がある」と信じてくださるのであれば、どうか、みなさんの「思いの力」を、未来や神の力をふさいでいる山にトンネルを打ち抜く「強い光」へと変えていってください。
そういう大きな流れを作っていきたいと考えています。
みなさんの力が一つにまとまる日を待っています。 🌟 明日を変える言葉 @
信仰の「無限界の力」、病が治る奇跡。
心を変えれば、環境は変わり、
人は変わり、未来は変わっていくのです。
その根本にあるのが信仰の力です。
信仰は、たとえて言えば、
あなたがたの家庭に引かれている水道の本管につながる行為です。
蛇口をひねって水道の本管から水を引き入れる行為、
それが信仰なのです。
本管に滔々たる水が流れていても、
信仰によって蛇口をひねらなければ、その水は蛇口から出てはきません。
これと同じように、「信じる」ということ、「肯定する」ということ、
「受け入れる」ということによって、
あなたがたには無限の力が与えられるようになるのです。
この「信じる」という力は、
通常の学校教育において教わることは決してないでしょう。
これは、宗教あるいは宗教教育においてのみ教わることです。
あなたがたの真なる父が、
天において、無限界であり、無敵であるように、
あなたがたも、
この地において、無限界であり、無敵でありなさい。
それは、「信仰において勝利せよ」ということなのです。
信ずるものの場合、病が治っていきます。
あなたがたが、どのような人生観を持ち、
どのような自己イメージを持つかによって、
あなた方自身の肉体の設計は変わります。
あなたがたの血液のなかにある赤血球や白血球、リンパ球、
こうしたものもまた、
強い霊的な生命力を帯びて、日々、活動しています。
そういうものが、「あなたがたが、どのような思いを発信するか」
ということによって変わっていくのです。
体のなかにあるウイルスその他、
悪しき物質と戦って、それを駆逐し始めます。
体のなかにできているガン細胞や、その他の不適切な組織は、
この「思い」によって、どんどんとつくりかえらえ、
廃棄処分にされていきます。淘汰されていくのです。 🌟 大川隆法著 信仰の法
第2章 愛から始まる
「人生の問題集」を解き、「人生学のプロ」になる
1 「愛されたい」という気持ちは人間の本能
「愛を与えられたい」−−人はそう思うもの
本章のテーマは、「愛から始まる」です。幸福の科学にとっては非常に懐かしいテーマでもあり、当会に初期のころから集っている人にとっては、ずいぶん昔に返った感じがするかもしれません。
こういう内容は、私がもっと若いときによく説いていました。
今も気持ちだけは若いのですが、実際には数十年か年を取りましたので、今、似たようなテーマにチャレンジしたら、どのように変わるのか。あるいは変わらないのかということも、気になるところでしょう。
さて、愛というものを考えるとき、若い人などは、たいてい、「人間の幸・不幸を分けるものとして、人から愛されると幸福、愛されないと不幸」というように考えるのではないかと思います。
これが、単純な、最初の感じ方でしょう。
こういうことは、人に教わらなくても本能的に感じるものです。十代の後半、あるいは前半ぐらいから、すでにそうなる人もいるかもしれません。
ですから、若い人は特に、「人から愛を与えられたい」という気持ちが強いでしょう。さらに、もっと行けば、「愛を独占したい」という思いでしょうか。
これは、つまり、「自分だけを愛してほしい」というような気持ちです。テレビドラマなどを観ても、そういうものをテーマにしていることが多いように思います。
そうした、「人からの愛がほしい」という気持ちが、よいかたちで表れると、ある意味での自己実現というかたちとなって表れてきます。
自分自身をもっと成長させ、もっと立派な人間になり、人から尊敬されて、自分が憧れるような人からも「素敵だな」と言われるようになりたいという気持ちのなっていきます。そして、その人の気持ちを自分にグーッと集めたいというような思いになるのでしょう。
これは、間違いではないでしょうし、中・壮年期になっても、そういう気持ちを持っている人は多いのではないでしょうか。 物事に励む原動力にもなりうる「愛を求める気持ち」
ところが、人口が多くなり、この屋での「愛をめぐる競争」も非常に激しくなってきました。
「人気が集まる人」には、たくさんの人からの好意が集まっていきます。
ただ、そういう人は、浅く広くいろいろな人を愛することができたとしても、W一人の人”を深く愛し、契約関係になるような結びつきをその一人の人と持つところまで行くのは、それほど簡単なことではないでしょう。
一方、誰もが振り向くわけではないような人が、愛を求められた場合には、Wクイックレスポンス”をするかもしれません。
そのように、たいてい、人気というのは、ある人にはあり、ない人にはないことが多いものです。
たとえとしてよいかどうかは分かりませんが、幸福実現党の候補者が選挙に臨むときなども、
「なぜ、ほかの党の候補者にはたくさん票が入るのに、幸福実現党はこんなにも少ないのかな。寂しいな」と言いたくなり、「少しは私に愛を下さい ♪」と、思わず歌いたくなるような気持ちがなくもありません。
「どうして、幸福実現党に入る表はこんなにも少ないのでしょうか。平等に愛してほしい」と、W結果平等”が少しほしくなる気持ちもないわけではないのです。 物事に励む原動力にもなりうる「愛を求める気持ち」
ところが、人口が多くなり、この世での「愛をめぐる競争」も非常に激しくなってきました。
「人気が集まる人」には、たくさんの人からの好意が集まっていきます。
ただ、そういう人は、浅く広くいろいろな人を愛することができたとしても、W一人の人”を深く愛し、契約関係になるような結びつきをその一人の人と持つところまで行くのは、それほど簡単なことではないでしょう。
一方、誰もが振り向くわけではないような人が、愛を求められた場合には、Wクイックレスポンス”をするかもしれません。
そのように、たいてい、人気というのは、ある人にはあり、ない人にはないことが多いものです。
たとえとしてよいかどうかは分かりませんが、幸福実現党の候補者が選挙に臨むときなども、
「なぜ、ほかの党の候補者にはたくさん票が入るのに、幸福実現党はこんなにも少ないのかな。寂しいな」と言いたくなり、「少しは私に愛を下さい ♪」と、思わず歌いたくなるような気持ちがなくもありません。
「どうして、幸福実現党に入る表はこんなにも少ないのでしょうか。平等に愛してほしい」と、W結果平等”が少しほしくなる気持ちもないわけではないのです。 このように、こちらからは愛を発信しているつもりでいても、相手側からはなかなか、W返ってこないもの”なのではないでしょうか。
とりわけ、若いころは、自分自身の値打ちや客観的な輝きがよく見えないところがあり、その、W落差”に悩むことは多いのではないかと思います。
そういう意味で、どうしても、「人より頭一つ抜け出したい」という気持ちが強くなってくるのです。 ただ、それが、一生懸命に勉強に励んだり、スポーツに励んだり、あるいは仕事に励んだりする原動力にもなっているので、必ずしも悪いものだとは言えないでしょう。
たとえ外見がそれほど良くはなくても、たとえ勉強ができなかったとしても、例えば、高校野球の全国大会に出場して、
甲子園球場でエースピッチャーとして球を投げるというような檜舞台に立ち、それがテレビカメラで全国放送されるようになれば、学校の女子生徒たちも、「うわあ、素敵」ともてはやすようになり、スターになってしまいます。
あるいは、幸福の科学グループでも芸能プロダクションを手がけていますが、スクリーンに顔がアップで映ったところを大勢の人に観られる人を見たりすると、
「あんなふうになりたいな」とは思っても、現実には、なかなかそうはなれない厳しさを感じていくところがあるでしょう。 「愛されたい」という気持ちが苦しみをつくることもある
若いころの自己研鑽や努力のなかには、ある意味で、「多くの人に注目されたい」というか、簡単に言えば、「愛されたい」という気持ちも多分に含まれているのだろうと思います。一般的には、私はそれを否定するつもりはありません。
ただ、このなかには、「向上の原理」として使える面もあることは事実であるものの、残念ながら、苦しみをつくっているところも多いと言えます。
世の中を見渡してみると、「私はあなたを愛しています」などと言ってくれる人に出会うことは、あまりありません。また、人が寄ってくるときには、大方は「何かを下さい」と言ってくるのではないかと思うものです。
ただ、幸福の科学は、伝道活動をしたり、政治活動をしたりしているので、私自身、そういう人たちに対しても、もう少し心を開かなければいけないと思うところもあります。
しかし、道を歩いていて、誰かがスーッと寄ってくる場合には、たいてい、何かのW頼み事”のようなものが多く、それにティッシュペーパーをつけて配っていたとしても、なかなか受け取れないものです。
もちろん、ティッシュペーパーの値打ちもゼロではないので、もらえること自体はよいものの、それでも、「もらったものをポケットに入れると、服が膨らんで見えるかな」などと思うだけで、もらわなくなったりします。
ティッシュペーパーのようなものでさえ、受け取らないのですから、ましてや、宗教の伝道ということになると、みな、けっこう苦しんでいることでしょう。
駅前で、道行く人に近寄り、「幸福の科学に関心はありますか」と声をかけたら、スッと逃げられるとか、あるいは、「あなたは悩みがあるのではないですか」と話しかけても、「放っておいてください」と、はねつけられる感じはあるでしょう。 例えば、ほとんどの人は、「テレビに出てみたい」という気持ちを持っていたとしても、実際に交差点あたりでテレビカメラが撮影していて、テレビ局の人が三人ぐらいウロウロしていたりすると、カメラを避けたくなるものです。実際、私自身でもそうなります。
「ここでテレビに出れば、一つのパブリシティとなって、無料で広告になるかな」と思ったりするものの、交差点で大川隆法がインタビュアーに捕まって、ろくでもない話をしたらどうですか。
「これから、どちらに行かれるのですか」という質問に対し、「ええ、ちょっとそこまで、お腹がすいたので、ラーメンを食べに行きます」などと答えているところをテレビ番組に流されたら、全国の信者はがっかりしてしまうでしょう。
もう少し高等な質問で迫ってもらえればよいのかもしれませんが、なかなかそうはいきません。
このように、テレビ局の人が「テレビに映したい」と思っていても、やはり、たいていは断られるものなのです。 人を愛することを難しくするさまざまな条件
十年ほど前のことですが、あるところにオープンしたドーナツ屋が雑誌等でも人気店と紹介されていたので、私も行ってみたことがあります。
オープンしてまもないころではありましたが、その日はたまたま雨が降っていたこともあってか、お客が来ていませんでした。しかし、店のなかでは、賑わっているところを撮るつもりだったのか、テレビカメラを持った人が待ち構えていたのです。
店内にお客が誰もいないところに私がヒョコットと入ってしまったものですから、向こうは、「W獲物”が来た」とばかりに、すごい勢いで近づいてきて、「すみませんが、取材してもよろしいでしょうか」と訊いてきました。
ところが、「取材はお断りです」と言うと、取材する気でいた人はすごすごと店の外に出ていき、しょぼんとしているのが見えたのです。「かわいそうなことをしたな」とは思いつつも、私がドーナツの宣伝に出るというのもどうかと考え、辞退したわけです。
取材は、店にとってはよいことなのかもしれませんが、「幸福の科学の会員が殺到したら、大変なことになるのではないか」と思ったこともあって、お断りしました。
もしかしたら、あのようにして断られたりするうちに、マスコミの人もだんだん性格が悪くなっていくのかもしれません。そうすると、誰かに意地悪なことを言っていじめたくなることもあるのでしょう。
そのように、テレビでも週刊誌でも、取材をする側はよく断られているようなので、彼らもW愛を拒絶される”中で性格が悪くなっていくらしいということは承知しています。 普通の人は、たとえ、「テレビ等に出たい」という気持ちがあったとしても、実際に自分の生の姿や構えていない姿を見られることは怖いわけです。「よいところは見せたいけれども、格好悪いところは見せたくない」というところはあるのではないでしょうか。
ちなみに、わが家では、私がリラックスして、のびのびしている姿を家内がたくさん写真に撮っています。とったが画像はほかの人には見られないようにロックして、個人的に楽しんでいるようですが、ほかの人には決して見せることができない映像ではあります。
余談はさておき、「他の人との関係」というのは難しいものです。自分は「こうしたい」と思っていても、実際には、自分が思っているとおりではないようなシチュエーション(状況)が現れたら、そうはなりません。
それは、人を愛することにおいても同じようなところがあるでしょう。「両社の気持ちが互いに合う」というのは、なかなか難しいものだと思います。
例えば、若いカップルであれば、互いに惹かれ合うところがあったとしても、何らかの条件があったりして、それでも惹きつけあうということは、そうとう難しいものです。
ましてや、そうした恋愛を超えて、見知らぬ人を愛したり、世間に生きている人を愛したりするというのは、やはり、とても難しいことだと、つくづく思います。 2 「人生の問題集」「組織の運営」に伴う愛の苦しみ
「親子の愛」「夫婦の愛」にもさまざまな問題が伴う
幸福の科学では、初期のころから「人生の問題集」という言葉を使っていますが、愛というものは、ある意味で、「人生の問題集」としては非常に典型的なものかもしれません。それは、誰もが直面するものであろうと思うのです。
例えば、人生の早い段階から、「男女の愛」も始まります。
323神も仏も名無しさん2018/06/17(日) 21:30:05.07ID:6CP9RxUH
それから、子供が生まれると、「親子の愛」のところが問題になります。親子の葛藤がたくさん起きてきて、子供を愛すれば愛するほどに、だんだんあとになってから反逆してくる場合もあるわけです。
そのように、愛の裏返しで、反対のものになっていくようなこともあります。
一方、「この子にはあまり期待していないから」と思って親のほうは子供に対して浅い愛で止めていたのに、子供のほうは意外に頑張って親孝行になる場合もあるので、なかなか難しいものです。
また、「夫婦の愛」についても、さまざまな問題が出てきます。若いころは誠実に愛し合っていても、中年期、熟年期に入っていくにつれ、仕事上の条件が変わってきたり、子育てをしているうちにほかのしごとも出てきたりします。
幸福の科学で言えば、主婦で子育てをしている身でありながら、日曜日のお昼ご飯もつくらずに、当会の講演会に参加する人もいるわけです。
家族も信者であれば、それを理解してくれることもあるかもしれませんが、例えば、受験生の息子が翌日に模試を受けることになっていて、「この次にE判定が出たら、僕はもう志望校を受けるのをやめる」というような、鬼気迫る雰囲気のときもあるでしょう。 そういうなかで、「今日は大川隆法先生のご法話を聴いてくるからね」と息子に言ったら、「僕のことなんか考えてくれていないんだ!」と暴れられることもあるかもしれません。
そうなると、お互いになかなか止まらなくなり、「あなたは信仰を否定するの?」「いや、分からないことはないけれども、僕の模試だって大事でしょう!」などと口論になることもあるでしょう。
そのように、子供が小さいころとはやや違ったものが出てきて、難しくなってきます。 あるいは、夫にしてもそういうところは出てくるでしょう。
夫から、「俺だって、今日は社外の人とゴルフをしなければいけない約束がある。
おまえが講演会に行くからといって、代わりに俺がゴルフをサボってご飯をつくれというのは無理だぞ。仕事の方が優先だろうが。
それがあるから、給料が入って、おまえたちは食べていけるし、宗教活動もできるし、息子だって大学に行こうとしているんじゃないか。
だから、俺のゴルフは大事なんだ!大川隆法先生が倒れたって、俺のゴルフのほうが優先なんだ」などと言われるかもしれません。
すると、妻のほうも、「信仰心のない人ね!」などと言いたくなることもあるでしょうが、信者のなかには、そうした夫婦間の葛藤を経験した人も多いのではないでしょうか。
ただ、そういうことはしかたがない面もあると思います。
「限られた数十年の人生のなかで、この有限の時間を何に使い、自分の今世の人生を輝かせるか」「どうすれば自分の人生は十分だったといえるのか」と考えたときに、値打ちを感じるものがあるのであれば、やはり、W選択”が働いてきます。
そうなると、妻としては、「今日、自分がご飯をつくろうがつくるまいが、コンビニで買ってきたものを食卓に置いておこうが、息子の模試の成績はどうせ変わりはしないのだ。E判定はE判定、A判定はA判定で、どうせ同じだ」という感じになることもあるでしょう。
息子はW気分の問題”で母親に当たっているだけだということもあるでしょう。
あるいは、夫のゴルフにしても、妻としては、「私が講演会に行こうが行くまいが、スコアは同じでどうせ変わらないのだ。相手に勝たせなければいけないときには自分が負ければいいし、自分が勝ってもいい相手だったら勝てばいい。好きなようにすればいいのだ」
という感じでしょうか。
そのように、「純粋な愛」によって結びついた関係であっても、人生経験を深めていく間に、さまざまな行き違いや言葉のすれ違いはあるかもしれません。 「組織を発展させるための人事」を理解してもらえない悲しみ
私も、三十年以上この仕事を続けていますが、最もつらかったのは、自分が愛した弟子たちが、何かの行き違いで離れていったときです。これには、何とも言えない悲しさがありました。
例えば、初期のころ、当会を手伝ってくれた人は一生懸命だったと思います。
本当に私心なく手伝ってくれたように思うのですが、だんだん教団が大きくなってくると、うまく回らなくなってきて、またW新たな戦力”を入れなくてはいけなくなりました。あとから来たとしても、その人たちを使わないと教団が持たなくなってきたのです。
しかし、あとから来た人たちを重要なところに据えたりすると、以前からいた人たちとしては、自分たちが否定されたような気持ちになるのでしょう。
要するに、「面白くない」ということで、何かと不満が出てきたり、止めていったりするような人もいたのです。
もちろん、私は、その人たちを愛さなくなったわけではありません。一生懸命やってくれたことに対しては「ありがたい」と思って感謝していますし、私の気持ちが変わったわけでもないのです。
ただ、教団としての組織が発展していくためには、そのときに与えられた必要な人材を配置しなかったら、自分にとっての「正しさ」というものが失われます。
そのため、あえてそうしなければいけなかったのですが、理解してもらえないことは数多くありました。
そのように、人は「愛」といっても、「自分を認めてくれている間だけ愛する」というようなことに、どうしてもなりやすいのです。やはり、認められようが認められまいが愛を持ち続けるというのは、実に難しいことなのかもしれません。
それは、「相手の考えていることが分かり切らない」と言えば、そのとおりでしょう。
おそらく、「『あなたを信頼する』とか『愛している』とかいうのなら、゛丸ごと”自分を愛してくれ。自分のやることについては、゛全部”任せてくれ」という気持ちがあるのだと思います。
そのため、それを修正しようとか、否定しようとか、ほかのものに変えようと課されると、とたんに゛オコゼ”になるというか、急に立腹する人が多いわけです。私もこのあたりについては、過去、非常に悲しい思いを何度もしてきました。 聖フランチェスコとマザー・テレサの例に見る「組織運営の難しさ」
なお、今回、愛の話をするに当たり、多少、キリスト教の勉強をしておいたほうがよいかと思って、前日に、中世の1200年代にイタリアの修道会を開いた「聖フランチェスコ(アッシジのフランチェスコ)」の物語(映画)や、
オリヴィア・ハッセーが主演している「マザー・テレサ」の映画などを、もう一回、観直してみました。
ただ、両方ともそうなのですが、その中心にいる人は、自分がやりたいことを自分がやりたいように自由にやっていても、だんだん信奉者が増えてくると、うまくいかなくなってきます。
アッシジのフランチェスコの場合だと、修道会のメンバーが国を超えて数千人ぐらいにまでなったときに、会則というか、入会資格のようなものを決めようということになったのですが、フランチェスコのほうは「決めたくない」というわけです。
それをつくって、ローマ法王に承認を得なければいけないにもかかわらず、「そういうことは嫌だ」と言いました。
もちろん、組織運営をするためには、もう少し、インテリの人たちを入れて、その人たちを使わなくてはいけないのは確かなのです。
また、当時の十三世紀のイタリアにも大学はあり、文法や神学、法学などを勉強していたような偉い人たちが、「自分たちを使え」という感じで寄ってきてはいました。
しかし、フランチェスコは、「そういう人たちは、口は立つが、肝心の信仰がないではないか。『福音書』だけあれば十分だ」というようなことを言うのです。それで、実際上、会則がつくれないために苦しんでいるような状態が描かれていました。 オリヴィア・ハッセーが主演したマザー・テレサの映画でも同じです。ちなみに、この映画には、幸福の科学の映画「ファイナル・ジャッジメント」に出演していたスリランカの女優(ウマリ・ディラカラトナ)がマザー・テレサの助手役として出ていました。
とにかく、マザー・テレサのほうも、瞬間的に行動するような人なので、いろいろなところで法律や規則に抵触し、行政等とぶつかるわけです。
そうしたものが壁になって前に進まなくなるような場面が出てくるので、「組織をつくって、広げていくときというのは、いろいろなこの世のものとぶつかって、難しいものだな」と感じました。
中心にいる人は、「ただ、神様の愛を広げたいだけなのに、どうしてこれが分かってもらえないのだろう」と思うのですが、
例えば、周りの人たちは、「ここに孤児院を建てるには、規則により、きちんと許可を取らないとだめなのだ」などと言うので、それで両者はぶつかるのです。
私は、その二つの映画を観直してみて、「組織運営というのは難しいものだな」と、改めて感じました。 釈尊も苦労した、組織運営における「生かす愛」の難しさ
ただ、これは釈尊も感じたことではあります。 最初のころに、自由修行者として山林で修行をしていたときには、みな、思い思いに、自由に修行していたのですが、教団ができ、組織ができると、いろいろなところで騒ぎが起きてきました。
しかも、どちらが正しいかをなかなか決めかねるようなこともあったのです。
釈尊は、四人の出家者でサンガ(「現前サンガ」)をつくり、そこで「どちらが正しいか」を判定させるようにしたのですが、なかには収まらないものもありました。
やはり、「釈尊でさえ匙を投げる」というか、釈尊自身が聞いても、どちらが正しいか判定不能というものはあったのではないかと思います。
そのように、組織運営となると、人間の「自我 対 自我」と言ってもよいでしょうが、それぞれの人によって。自分が「正しい」と考えるもの、「よかれ」と考えるものが、多少ずれてくるわけです。
また、そこに「調整の原理」が働き始めると、単純な「愛の原理」だけではないものが出てきます。
愛は、「すべてを受け入れ、すべてを許し、すべてを包み込む」ようには見えるのですが、実際に、この世の現実のなかを生きていく間には、いろいろな調整や判断、あるいは、捨てるところや選ぶところが出てこなくてはいけなくなるからです。
ここは、とても難しいことであり、これが、「愛の発展段階説」に言う「生かす愛」のところなのかもしれません。
智慧を得て、知識を持ち、仏法真理の観点から、この難題に優先順位をつけなくてはいけないのですが、この段階で、原始的なレベルの愛が引っ掛かってくることはよくあるのです。 ただ、当会の初期のころに一生懸命、教団を手伝ってくださった人で、今も自分のプライドに関係なく手伝ってくれている人にとっては、現在、幸福の科学が、立宗から三十一年もたって、外国にまで広がり、これほど大きくなったのは、とてもうれしく、名誉なことでしょう。
私も、そのように思います。
一方、初期のころには、あとから来た人と入れ替えたりすると、立腹したり、「愛がなくなった」と思ったりする人もいました。
なかには、物を贈っても、そのまま送り返されてきたこともあったので、「そこまで単純に考えるのか。オール・オア・ナッシング(全てか無か)で考えるのだな」と思ったこともあります。
仕事のレベルでは、そのように考えるのは、なかなか難しいことだと思うのですが、そういうこともありました。 3 「愛すること」「信じること」で「人生学のプロ」になろう
人生のあちこちに出てくる゛公案”を一つひとつ乗り超えよ
また、「男女の愛」についても、夫婦生活が何十年も続いていけば、その間には、いろいろなドラマがあるものです。たとえ、二人の関係がうまくいっていても、子供や第三者が絡んでくると判断が割れたり、家庭内で法律に触れるような出来事が起きたりします。
あるいは、ドラマ「ウチの夫は仕事ができない」ではありませんが、「仕事ができて頼りになると思っていた夫は、実は仕事ができなかった」という現実に直面することもあるかもしれません。
「結婚した二十代のときは、『うちの夫は格好がよくて、エリートなのよ!』と自慢していたのに、三十歳を過ぎたら、本当は仕事ができないとわかってしまった」といったこともありえるわけです。これも恐ろしいところでしょう。
さらに、結婚しても夫婦共に仕事を続ける場合、妻のほうが、仕事でどんどん進んでいき、見識が高くなることもあります。そうなると、夫のほうが鬱屈して反抗期の子供のような態度を取ったりし始めるので、ここも難しいところです。
妻も一人の人間なので、天職を得て仕事に就いたならば、「認められたい」、「世間でお役に立ちたい」と思うでしょう。ところが、そうすると、夫のほうがだんだん非行少年のようになってしまうわけです。
要するに、「妻が仕事ができなければ夫婦でいられるのに、仕事をガンガン進めていくと夫婦でいられなくなる」ということでしょうから、これはつらいだろうと思います。
ただ、こうした゛公案”は、人生のあちこちで出てくるはずなので、それを、一つひとつ乗り超えていかなければいけません。 宗教を学ぶ意味の一つは「人生学のプロ」になること
そのなかには、解決できるものも数多くありますが、やはり、解決できないものもあるわけです。また、解決の際に、何かを取って、何かを捨てなければいけない場合もあるかもしれません。これは、非常につらいことだと思います。
しかし、「愛の問題集」においては、さまざまなトラブルも、ある程度予定されている面はあるのです。「すべての人間にそれを勉強してもらいたい」ということで、男女が創られました。そして、必然的に、問題集に出会うことになっているわけです。
ただ、数多くの問題解決に立ち向かっているうちに、最初のころの純粋な愛とは、少し違ったものになっていくこともあるでしょう。
例えば、映画「さらば青春、されど青春。」の主題歌である「眠れぬ夜を超えて」には、結婚できずに苦しむ主人公たちの悶々とした気持ちが表れています。
そのように、「どうして一緒になれないのか」という苦しみもあれば、一緒になった後に生じる苦しみもあるのです。こうした問題と、そのつど、対決していかなければ解決はできません。
ただし、どこかで、全部を解決するのは無理だと気づく場合もあるでしょう。そのときに考えてほしいのは、「人生において宗教を学ぶことの意味」です。それは、「人生学におけるプロフェッショナルになろう。
ほかの人たちの、いろいろな人生問題集に答えられる自分になろう」と決意したということでもあると思うのです。これもまた、宗教に辿り着いた目的の一つなのではないでしょうか。
そして、「他の人の人生問題に導きを与えられる自分」になりたいのであれば、「自分自身が打ち当たった問題をどのように乗り越えていくか、過ぎ越していくか」が大事になってくるのです。 奇跡が臨まなくとも「信じる心」を持ち続けよ
そうしたなかで、奇跡が自分に臨むこともあるでしょう。実際に病気が治るという奇跡が起こることもあります。しかし、そうした「選ばれた者」であっても、その後、また病気になって亡くなったりもするのです。
例えば、十年前には奇跡が起きて病気が治ったのに、今回は治らないかもしれません。そのときに、「あなたは信仰を持ち続けられますか?」ということが問われるわけです。
そもそも、奇跡的に病気が治ること自体、非常に恵まれたことであり、起きがたいことでもあります。ところが、そうした奇跡が連続しなければ信じられないのであるならば、やはり、寂しいものがあるのではないでしょうか。
『聖書』には、イエス・キリストが、「すでに墓に葬られたラザロを、その四日後に、包帯でぐるぐる巻きになった姿のまま墓から呼び起こして蘇らせる」という奇跡を起こした話が載っていますが、そのラザロも、いずれ、時が来たら死んでいます。
この世において、永遠の命を持ち続けることはできないのです。
やはり、困難が数多く表れてくるなかで、奇跡だけに頼って生き抜けるわけではありません。「智慧」でもって迷いを破っていかねばならないこともあるのです。 しかし、智慧にも限界があって、どうにもならないこと、にっちもさっちも行かないことも出てくるでしょう。
そのときに知っておいてほしいのは、「この世というものは、もともと、パーフェクト(完全)にはできていないのだ」ということです。
この三次元の世界は、「日本にいる一億以上の人々、あるいは、世界七十億以上の人々が、全員、思った通りの自己実現を完璧にできる」というようにはできていないのです。
例えば、あの世の世界では、それぞれの人が、それぞれの次元で、似たような人たちと生活しています。
ただ、それだけでは人生経験が不足してくるため、この世(地上)に生まれて、さまざまな世界から来た人たちと出会い、自分の人生を磨き上げるわけです。
人間は、それを目標として、この世に生まれ変わってくるのです。
ところが、この世に生まれてみると、いろいろなことがあります。
あの世においては自分のほうがはるかに゛偉い立場”にあり、「天使」として他の人を指導していたとしても、
地上においては、その指導していた相手が、自分よりも十年、二十年早く生まれていて、会社の上司や学校の先生になっている場合もあるのです。
あるいは、自分の将来を決めるような立場に立っていることすらあるでしょう。
就職を決める面接の際に、「光の天使、二十二歳」が、前に座っている「悪魔憑き、四十歳」に、「生意気だ!こいつは、わが社には向かん!」などと言われて落とされるかもしれません。 少しでもこの世を神の国へ近づける「無限の未来への挑戦」を
これが、この世の世界であり、不条理さもあって、なかなか思ったようにはいかないものです。
しかし、そういう世界でありながら、少しでもこの世の常識を「神の国の常識」に近づけていかなくてはなりません。それが、私たちの伝道活動の意味です。
いろいろなことを取ってみても、この世とぶつかるものは数多くあるでしょう。ただ、この世でつくった法律やこの世の制度だけで、全部がうまくいくとは思えないのです。
それらは、「最悪のものを止める力」にはなるかもしれませんが、「最善のものを選び出しているかどうか」は分からないところがあります。
私たちの伝道活動は、いつも、限りない限りない努力のなかにある、「無限の未来への挑戦」でもあるのです。 4 そして、「許す愛」で憎しみを超える
「行為」を憎んでも、その人の「本質」は憎まない
したがって、愛に関しても、「自分は、どのような愛というものを、この世で自覚し、認識し、理解したか」ということは、非常に大きなことだと思います。
愛一つを取っても、それほど難しいのです。
先ほど「生かす愛」についても述べましたが、幸福の科学では、「許す愛」という教えも説いています。ただ、「人を許す」ということもまた難しいことです。「愛すること」も難しいけれども、「許すこと」は、もっと難しいのです。
「私はあなたを愛しています」と言ってくれる人は、この世では、それほどいません。心のなかでそう思っていても、なかなか言わないものです。
ましてや、「私はあなたを許します」と言ってくれることは、めったにあるものではありません。
よほど宗教的な境地にずっといられる人は言えるかもしれませんが、日常生活をしながら、家庭や学校、職場において、「私はあなたを許します」というようなことを言える人は、それほどいるものではないのです。 特に、仕事にかかわる場合には、もちろん、「間違いがあったら、絶対に許してはいけない」という感じで追求しなくてはいけませんし、「赤字は絶対に許してはいけない。黒字でなくてはいけない」と思ったりします。それは当然のことではあるのです。
しかし、仕事におけるミスやトラブルなどについて、「いけない」ということを指摘したり教えたりする場合、その人がやった結果、失敗したり間違ったりしたことに対して、「それを正そうと思って言うことと、その人を憎むこととは、同じではない」のです。
それを知らなければいけません。
「行為」を憎んでも、その人の「本質」は憎まない。そういう気持ちをつくれるでしょうか。これは難しいことです。けっこう難しいのです。
行為があれば、必ず結果が出ます。何かをした場合には、何らかの結果が出ます。「その結果を見て、あなたは、その人を憎まないでいられますか」ということが問われるのです。
例えば、「自分の進路を邪魔する」「自分の仕事を邪魔する」「自分の恋路を邪魔する」という場合に、あなたは、その人を憎まずにいられるでしょうか。これは、なかなか難しいことです。
やはり憎んでしまうものです。本能的に憎んでしまうこともありますし、それを当然のことだと思っている人たちもいます。 他国を憎むことをはっきりと教育する国々
本章のもとになった2017年の「御生誕祭」での私の法話は、世界各地に中継されたので、それを韓国で観た方もいるわけですが、実は、北朝鮮にも当会の会員が何十人かいるのだそうです。
どうやって会員になるのか、私もそのルートが分からないのですが、北朝鮮にも、何十人か会員がいるようです。
その人たちが、「御生誕祭」での私の法話を、どうやって観たり聴いたりするのかは分かりません。
隠れて何かに映したりして観るのか、何らかのかたちで音が聞こえるのか、別ルートで入ってくるのか知りませんが、当会の信者が、いることはいるらしいのです。
その人たちにも述べたいのですが、韓半島、朝鮮半島の人たちは、「憎む」ということを当然のことのように教わっている面があります。
ロシアの映画監督が、北朝鮮に入国し、当局の許可を得て、向こうの演出の下に北朝鮮のW実情”を撮影したドキュメンタリー映画があります(「太陽の下でー真実の北朝鮮ー」)。
その監督は、実は、本来は撮ってはいけないところ、(当局者が出演者たちに「やらせ」の指示を出しているところ)についても、カメラのスイッチをオンの状態にして、秘かに撮影していました。
そして、検閲によってフィルムが没収されないように、それを隠してロシアに持ち帰り、上映したのです。
その映画を観ると、北朝鮮の一般市民たちのW無表情”なところがすごく特徴的です。
表情がなく、誰も笑いません。表情のない人たちが動いているのです。何か指示を出されたときにだけ、そのとおりにするのですが、それ以外のときには表情がないのです。
「これは全体主義の特徴だ」というようなことを、そのロシアの監督は言っていました。
ついこの前まで共産主義の本家だったのはソ連ですが、今の北朝鮮は、共産主義体制とほとんど同じです。
その映画で描かれていましたが、北朝鮮の小学校では、先生が、「日本人と地主が私たちをこのようにしたのだ。だから、私たちは日本人と地主階級を憎まなくてはいけないのだ」ということを、一生懸命に教えていました。 それから、「アメリカや韓国が私たちの国を侵略しようとしている。これを憎め」とも言っていました。そして、「彼らのせいで朝鮮戦争があったのだ」というようなことを教えていたのです。
しかし、実際にはW逆”です。「北朝鮮のほうから韓国に攻撃があり、北朝鮮軍は朝鮮半島の南端あたりまで押し寄せたものの、国連軍がそれを押し返した」というのが事実です。
そのあと、「三十八度線」を挟んで休戦状態になりましたが、今、また、戦争の匂いが立ち込めてきているところです。
北朝鮮では、そういうかたちで、「憎む」ということを、はっきりと教えています。
それから、大統領を罷免された韓国の朴槿恵さんは、在任中、大統領の身でありながら、「千年間、日本、日帝への恨みは忘れない」という趣旨のことを言いました。
これは、日本では想像しにくいことです。日本の総理大臣が、もし、どこかの外国に対して、「この無礼は、千年間許さない」と言ったら、おそらく、「人間ではない」というような報道をされ、
「こんな立場の人がそんなことを言ってよいのか」と言われると思いますが、韓国では、そういうことを普通に言えているわけです。しかし、その憎しみに、もうどこかでストップをかけないと、発展しません。
敵をつくることによって、自分たちのやっていることの正当性を出そうとするところが数多くありますが、それは、歴史的に見ても非常に、W幼稚な手段”だと思うのです。
ナチスが、ユダヤ人を敵視することによって自分たちの行動を正当化していこうとしたように、「何か敵をつくることで、自分たちを正当化し、合理化する」というのは幼稚だと、私は思っています。
やはり、「憎しみ」は、「愛」によって乗り超えなければいけないのです。 「愛」の反対にあるのは、「憎しみ」の下にある「嫉妬心」
「愛の反対は憎しみである」という考え方がありますが、私には、むしろ、愛の反対にあるのは、「憎しみのもとにある嫉妬心」ではないかという気持ちもあります。
嫉妬する気持ちが、どうしても、人を押しのけようとしたり、貶めようとしたりする気持ちになってくるのです。
これも、私の若いころの悟りの一つではあるのです。私も、競争心や優越感、劣等感を、いろいろと経験してきましたが、
「劣等感を持ち、嫉妬心を持って、特定の誰か、優れた人や脚光を浴びている人などを羨んだところで、自分はちっとも幸福になれない」ということは、若いころの悟りとしてありました。
そこで、自分にはできないようなことを、サッとやってのけるような方々を観たら、むしろ、「すごいですね。素晴らしいですね」という気持ちを持つように努力していったところ、人生観は変わってきました。
そういう人に対して嫉妬し、敵視すると、向こうもこちらを敵視してくるので、顔を合わせられないような状態になるのですが、逆に、相手を「いい人だ」と思っていると、それがどこかから人づてに伝わっていき、相手は友達になってくれます。
そうすると、優秀な人の仲間に入っていけて、自分にプラスになることが多く、相手のほうも、人柄がもう一段大きくなってくるところがあるのです。 5 世界に必要なものは「神の愛」
国民を幸福にしようとするのが「政治家の愛」であるべき
今、世界に必要なものは「愛」です。
「愛の反対は憎しみ」と思うこともあるけれども、憎しみだけではなくて、「嫉妬もある」のです。嫉妬によって競争が起き、「他を憎んでいる」という現象が起きているなら、やはり、それは正すべきだと思うのです。
例えば、北朝鮮の核開発やミサイル発射が問題になっています。アメリカと対等になろうとして、一生懸命やっているのは分かりますが、北朝鮮は、大勢の国民が、表情をつくることもできず、言われた通りのことしかできない、完全な全体主義の共産主義国家です。
デモクラシー(民主主義)の国家は、人間を「目的」とします。「人間自身が目的であり、手段ではない」のです。
一方、全体主義国家においては、人間は「手段」なのです。大勢の人間を使って何かをやろうとしているのが全体主義国家です。
デモクラシー、民主主義の国家においては、そうではありません。人間にとって、最終的には、「自分がどう幸福になるか。どういう自己実現ができるか。自由を得て、どう成長できるか」ということが大事であり、それを目指すものが本物なのです。
そういう観点で見ると、両社は対等に論じられるようなものではないのではないかと思います。
そういう意味では、どこの国も「防衛のため」などと称したりし、愛国心を煽ってはいますが、「それは国民が幸福になる体制なのかどうか」ということのチェックはいるだろうと思うのです。 中国の習近平国家主席は、香港に行って演説し、「一国二制度を維持する」と言いつつ、「ただし、権力に対する反抗は許さない」というようなことを言いました(2017年6月29日)。
しかし、私の2011年5月22日の香港での講演を聴いた人たちは、習主席の言うことを素直にはきかないだろうと思います。
やはり、国民には、「自分たちの幸福を追求する権利」があるはずです。
国民を幸福にしようとするのが「政治家の愛」なのではないでしょうか。
日本においてもそうですが、「政治家が、自己愛に夢中になっているか、自分の仲間への愛に夢中になりすぎているのではないか」という気持ちは私にもあります。
「本当に、多くの国民を隅々まで愛していますか。そうであるならば、もう少し違う観点から物事を考えたほうがよいのではまいでしょうか」と言いたいのです。 日々の言葉や行動のなかに「神の愛」を
最終的には、やはり、「神の愛がなかったら、何もないのだ。ナッシングなのだ」ということを知ってほしいと思います。
「人間の言葉や行動、行為であっても愛を表す言葉や行動のなかに、あるいは、その結果のなかに、神の愛がなかったら、値打ちはないのだ。ナッシングなのだ」ということを知っていただきたいのです。
どうか、「神の愛とは何か」ということを常に考えながら、日々の生活を正し、日々、自分の心境を深め、行為を積み重ねていけるようなみなさんになっていただきたいと思います。
そして、「イエスが『主よ』と呼んだ人と、ムハンマドが『神よ』と呼んだ人は、同じ人なのだ」ということを私は言いたいし、
それから、「(キリスト教徒やイスラム教徒の)的にもなっているユダヤ教徒が『エローヒム』と呼んだ存在も、それと同じ人なのだ」ということを言いたいのです。
そうした存在が、今、「エル・カンターレ」という名を冠して地上に生まれてきています。
私に残された時間はそう多くはないかもしれませんが、最後までこの法を完成させたいと願っています。
みなさんと共に、まだまだ精進を続けていきたいと思います。 日々の言葉や行動のなかに「神の愛」を 最終的には、やはり、「神の愛がなかったら、何もないのだ。ナッシングなのだ」ということを知ってほしいと思います。
「人間の言葉や行動、行為であっても愛を表す言葉や行動のなかに、あるいは、その結果のなかに、神の愛がなかったら、値打ちはないのだ。ナッシングなのだ」ということを知っていただきたいのです。
どうか、「神の愛とは何か」ということを常に考えながら、日々の生活を正し、日々、自分の心境を深め、行為を積み重ねていけるようなみなさんになっていただきたいと思います。
そして、「イエスが『主よ』と呼んだ人と、ムハンマドが『神よ』と呼んだ人は、同じ人なのだ」ということを私は言いたいし、
それから、「(キリスト教徒やイスラム教徒の)的にもなっているユダヤ教徒が『エローヒム』と呼んだ存在も、それと同じ人なのだ」ということを言いたいのです。
そうした存在が、今、「エル・カンターレ」という名を冠して地上に生まれてきています。
私に残された時間はそう多くはないかもしれませんが、最後までこの法を完成させたいと願っています。
みなさんと共に、まだまだ精進を続けていきたいと思います。 🌟 明日を変える言葉 A
相手の心性の善なるを信じて
解き放つのが愛。
まず、「与える愛」から始めていきなさい。
日々の努力目標を、まず、与える愛に置きなさい。
あなたは人々に対して、社会に対して、
いったいいかなる愛を与えることができるのでしょうか。
愛とは恵みです。
それも、善き恵みであり、他人を生かしていこうとする力です。
縁あって人生の途上で出会った人々に、
生きていく勇気を与え、力を与え、希望を与えること、それが愛です。
こうしてみると、愛とは仏の心そのものであることに気づきます。
仏の心とは、万象万物を生かし、はぐくみ、調和させんとする心です。
すべてを成長させんとする念いです。
「与える愛から始めていこう」と決意したとき、
その心は、仏の心と同質の光を帯びているのです。
他を生かさんとする心の芽生えは、
すでに仏の子として慈悲心が生じてきたということなのです。
愛のなかにも、「奪う愛」という名の執着の愛もあれば、
「与える愛」という名の、利己心と自己保存欲を捨てた愛もあります。
相手を奪い取り、相手の心をがんじがらめにするための、
トリモチのような愛は、与える愛とは言わないのです。
金銭や物品をいくら湯水のごとく注ぎ込んだところで、
それが相手をとりこにし、
かごのなかの鳥にする目的をもってなされたものであるならば、
それは、与える愛ではなく奪う愛であり、執着の愛なのです。
ほんとうの愛は、
無私の愛であり、無償の愛であり、見返りを求めない愛であり、
相手を自由に伸び伸びと生かしめる愛です。
相手を縛るのが愛ではありません。
相手の心性の善なるを信じて解き放つのが愛なのです。 >>390-424
そんな建前だけの世迷い事を信じていたから景山民夫さんは死後、地獄行きになったのですよ?
景山さんが生前から低脳で無能だった所為もあるのですが。 >>389
そのリンク先から引用。
がん患者に野次、自民党の穴見陽一議員は日本会議やがん研究振興財団に所属!
幸福の科学なども関係が
https://johosokuhou.com/2018/06/22/6647/
穴見陽一、例のフライデー騒動のときも講談社の女子社員に悪さをしたり
狂ったようなことをギャーギャー喚き散らして通行人に迷惑をかけまくるなどの地獄的振る舞いを連発してたな。 *穴見陽一
国会で参考人として来ていたがん患者に対して野次を飛ばした自民党の穴見陽一議員の経歴が物議を醸しています。
穴見陽一議員は大手ファミリレストラン「ジョイフル」で社長をしていただけではなく、
過去に宗教団体「幸福の科学」の信者として活動をしていたこともありました。
雑誌・FACTAは「穴見が幸福の科学信者であり、候補者として選ばれた背景には、
幸福の科学の豊富な資金力と教団の選挙支援への期待があった」と報道しており、
穴見議員と宗教団体の関係は知る人ぞ知る仲だったみたいです。
更には安倍政権の支援団体で有名な日本会議(日本会議国会議員懇談会)にも所属し、
神道政治連盟国会議員懇談会やみんなで靖国神社に参拝する国会議員の会などを通して右派的な活動も応援していた模様。
そして、驚くべきは公益財団法人大分がん研究振興財団の理事だったことで、
がん対策の研究を主導する立場の人間ががん患者に野次を飛ばしたということになります。
他にも色々な組織や団体に関わっていたようで、穴見議員の黒い人脈にも批判が集まっているところです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています