ラマナ・マハルシ他[不二一元論]アドヴァイタ総合16 [無断転載禁止]©2ch.net
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インド古典のヴェーダやウパニシャッドから発展し
中世のシャンカラ(Adi Shankara 8世紀)が思想と学派をまとめたとされる
インド哲学のアドヴァイタ・ヴェーダーンタ(純粋不二一元論)の分野について
難しい言葉の議論でなく、むしろ瞑想や体験など実践的な視点で
結局‘真我探求’って何?とか、本当に‘梵我一如’(真我実現)を会得できるの?
とかを、初心者〜覚者の分け隔てなく、自由に語りあおうという主旨の
「アドヴァイタ関連・雑談その他なんでもOK」の総合スレです
関連書籍やサイトなど >>2-5
前スレ
ラマナ・マハルシ他[不二一元論]アドヴァイタ総合15
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411253168/ いつもあるんだよ!
いつもあるんだよ!いつもあるんだよ!いつもあるんだよ!いつもあるんだよ!無努力なんだよ!努力している奴らは皆殺しである! 心は無努力の状態に帰する、これが正しいサハジャである
ゆえに努力している奴らは皆殺しである むひょ〜♪ 批判コメントでもされたら
おれはだまっちゃおらんからな
over(以上) いつもあるんだよ!
無努力なんだよ!無努力なんだよ!無努力なんだよ!オートマチックなんだよ!オートマチックなんだよ!わかってないクズ! くそパンダめ !
捕獲して 火あぶりの刑にしてやる!!! 覚醒者もしくは覚醒に興味ある人間だけが価値があり、
興味のない俗人、凡人はゴミすらの価値もない家畜たちなのである。 むひょ 覚醒者は議論して
必ず 勝つ!
必ず 勝つのである! きづくだけでいいのです
すべパーなのである
精神病院には入院いたしません
凡人たちが異常なのである 自己満足こそ すべパーなのです
独善こそ すべパーなのである
わたくしは覚醒しているのです 静かにしようとしなくていいのです
だから毎日毎日暴れているのです のぶちゃんは すべパーなのである
しかし、クソババアでぃーやクソパンダは すべパーではない
だから指導してやっている わたくしは 気づいたのです
気づいてない あなたがたに いつもある精神統一を教えてあげてるのです 愛ある行動を強制する奴らは、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!
愛のない行動も赦しなさい!赦さない奴は死ね死ね死ね死ね死ね死ね! 病む人は非難しつづけます。
病む人は自らの兄弟も自分自身も赦すことができません。
真の赦しに支配されている人は苦しみません。 いつもある精神統一に
気づけない愚か者たちは
PL花火芸術を観覧して
観覧してください。 「あなたはすでに自由だ。何もしなくていいのだ(笑)」 by パパジ
いつも精神統一があることに気づいたとき
私と私の世界はとけさる
そのとき 一者 が実在し
実在と遊び(夢)はオートマチックであることもしる (笑)(笑)(爆) よろしければ
4時頃から相撲をご一緒に観ましょう^^
(千秋楽は表彰があるので早めに試合はおわるので…)^^
マインドはウキウキ白鵬を応援していますが
すでに先日偉業を達成してくれてますし
わたくしは
平等にやはり
いつもある精神統一として
試合を見ることにします
相撲はもともと
神聖な儀式だったそうですので
お互いパワーをだしあう取り組みは
なにかを癒しているのでしょう
抽象(パワー)
に感謝します 覚者は、目の前に起きている体験より
テレビ・映画・TSUTAYAのDVDが好きなのである ノンデュアリティ にはまってるひとって
ホント成長しないよね。 https://youtu.be/3KOx0pGRkJc
福島県郡山市、二本松市の放射能汚染(2017/8)
ほうざんくんが、がんばってた通りだったんだな。 私の好きなインドの覚者で昔銀行員だった人の本で「人生の悩みの8割くらいはお金で解決します。
自分は生活のためのお金で苦しんでいる人に人生をあるがままに受け止めましょうとか言えません。
それは傷口に塩をすり込むようなものです」って意味のことを書いてて、激しくうなずきました。
https://twitter.com/atsuji_yamamoto/status/939720636536037376 元銀行家というとクリシュナムルティのことかな?
現実的な発言で、生活を大切にすることを教えてくれる覚者だよね。
ただ、女性の扱いがね・・・
女性信者を何人か妊娠させて中絶させていたという話もあったような クリシュナムルティは銀行なんて働いてないよ
女性が妊娠ってのも何人もなんてことはないし一緒に住んでた友人の妻の話で女性本人が言った話じゃなくて噂の域を出てないはず
ちなみに元銀行ってのはたぶんマハラジの弟子のラメッシのことでしょ 人間は自分の信じたいことを信じる。
どんなデタラメでも信じたいことなら無批判に鵜呑みにして信じ、それがその人の真実となる。 ほんと、仏陀は他人のしたことしてないことを見るな、自分のしたことしてないことだけを見よって言ったし
マハルシは他人のことは他人にまかせよ自分の外のことは神にまかせよと言ったのに、
俺も含めてみんなそんな簡単なことすらできてない >>55
ラメッシだったっけ?訂正dクス
妊娠中絶のことは丸呑みで信じてるわけじゃないんだが
インドの覚者はけっこうな割合で妙な話は聞くよ
盲信しないように教えと人間性は別として考えるようにしている
(マハルシ、マハラジ、クリシュナなど、変な伝聞がない覚者もいるが) >>57
その教えの重要さはわかるけど
現実社会で生きていくなら、他者の行動や言動を観察して、自分はどう判断するか?の基準は失えない
初っ端から>他人のしたことしてないことを見るな
ここを意識しすぎてしまうと、危機管理能力も甘くなったり、変なカルトに引きずられやすくなる
重要なことは、「見ない」のではなく、
「他人の言動行動を見る」「それを自分の主観に取り込んでいたら、自分を見る」
それから、「他者を見ること」「自分を見ること」の意識を観察し
結果として、他者を判断しているのは誰か、自分を判断しているのは誰か
最終判断として、誰がそれを観察しているのか?の視点を持ち維持する。
日々常々、その繰り返しを維持することであって、
一足飛びで「他人のしたことしてないことを見るな。自分のしたことしてないことだけを見よ」に飛びつくのは危険だよ 他人の過失をみるなかれ。
他人のしたこと、しなかったことをみるな。
ただ、自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。
出典:『ダンマパダ』50
わたしたちは、他人の過失にはよく気がつく。隣人や友人がどんなことをいったか。どんなことをして自分に迷惑をかけたか。いかに約束を守らなかったか・・・・・。
そういうことには敏感で、しばしば陰口や不平をいうものである。これにたいして、自分がしたことを正確にみることを、私たちは苦手とする。
私たちはまた、ものごとが思い通りにならなかった場合に、責任を転嫁しがちでもある。
たとえば、「私が遅刻したのはバスが遅れたせいです」などと、しばしば言い訳をする。
しかし、交通渋滞の多い時間帯では、バスが遅れるのはむしろ当たり前で、約束の時間に着くためにもっと早いバスに乗るか、地下鉄などの交通手段を利用するかすべきなのである。
自分がそれらのすべきことをしなかった、という反省はつらく、苦しいもので、私たちは往々にして、しなかったことをみることを避けてしまう。
それをブッダはしっかりとみるようにと厳しく説くのである。
その反面、このことばは限りない勇気を与え続けてくれる言葉のように思われる。
ブッダは、自分がしたこととしなかったことだけをみるようにいっている。これすなはち、行為を問題にしていることばである。
原始仏教時代の仏教徒にとって一番大切なのは、人がどのような行為をしたかということだった。人は、自分の人間としての正しさを、生まれや家柄によってではなく、自ら行う行為によって証明しなければならなかったのである。
何をどれだけもっているかなどは問題にならない。自分がしたことだけが問われたということは、何とさわやかなことだろう。
他人を批判することのみ多い現代の日本人が、未だ学歴にこだわったり、拝金主義にとらわれたりして生きている姿に深い反省を迫ることばでもあるようだ。
【参考文献 仏教のことば 生きる智慧 中村 元師 主婦の友社刊】
http://www2.synapse.ne.jp/syouhukuji/bukkyou/012.htm >>61
言っている意味はわかるんだけど、そういう仏法の説教じみた話じゃなくて
そもそも他者とは何か?自分とは何か?だよね、不二元論の哲学とは。
極論、自分の行為すらも、そのどこに「自分がいるのか問え」という話。 >俺も含めてみんなそんな簡単なことすらできてない
これも、簡単なことと書いてるけど、人間であるならば一番難しいことだよ それだけ言えるならとりあえず覚者(クリシュナムルティやインドの覚者)のことに関して
見てもなければきちんと知ってるわけでもないことを憶測で何か言うのはやめたら? >>64
「見てもいなければきちんと知っているわけでもないことを語るな「」と言うと、
ブッダのことを語れる人も誰もいなくなってしまうよw
「何十年も勉強してきた宗教家だからきちんと知っている」というわけでもない世界だからね 仏陀のことだって盲信すべきじゃないのは当たり前でしょ
だから仏教は実践主義だし、あなたも覚者のことをあれこれ言うより非二元を実践したら? 一つ言えるのは、「覚者だから人格も聖者だとは限らない」ということ
(クリシュナムルティがそうだと言っているわけれはない)
そこを混同してしまうと、「もっともらしいこと」を言う教祖にあっさり騙されてしまうからね
どこのスレだったか忘れたが
「サイコパスと覚者の瞳が似ている」と書いている人がいた
経験上、これはその通りだと思うんだ
もちろん、覚者=サイコパスではない
覚者のような瞳をしたサイコパスとは、善悪に関心がなく、他者に徹底して無関心でもあり、
他者の尊厳を守ることについても無関心である
そして徹頭徹尾、自分のことしか見ておらず、自分が行う悪にも悪意という罪悪感の揺らぎがなく、
その揺らぎがないから精神の不安定さが微塵もない
こういうサイコパス気質といえるような人が(専門家でないので、あくまでも「ような」)が覚者のフリをしたら
かなりカリスマ性のある教祖になるだろう
相手が誰であろうと、
教えは教えとして、人物は人物として識別し、混同して見ないほうがいいよね、ということが
こちらのレスの発端でした
嫌な思いをさせたなら失礼 っていうか、67をレスしてから>>66を読んだけど、なんかケンカごしだね
追記しておくと、非二元論は、実践の仕方によって性格が破綻しやすくなると思う
精神的に極限まで突き詰めると、善悪が曖昧になるからね
自分はちょっと自分について思うところがあって、おしゃべりできる精神科医の所に通いながら
非次元論に触れてるよ
こういった宗教的なことやその問題、哲学について話せる医者なので、薬は貰わず会話しに通ってる
こちらの様子がおかしいと感じてきたら、薬を勧めてくれと伝えてある
自分について思うことというのは、まぁ医者が心配しているのは
「哲学的な理由で自殺はしないでくれ」ということなんだけどね
その医者が言うには、人間には四種類のタイプがいて
・まったく気づかずに人生を営んでいる人
・気づいたことで人生のすべてを放棄して夢遊病のように生きていく人
・気づいたことで、自殺を選ぶ人
・気づきながら、それはそれとして、またはそれを活かしながら、日常を営む人
これらのカテゴリーに分かれるそうだ
4番目として生きられることが、もちろん一番望ましいことだが、
そうできるための答えも自分(医者)は模索している、
精神科医としてではなく、人間として今一つ言えることは、人には宗教が必要だと語っていたよ
キリスト教であれ仏教であれ、所属するだけでもいいと(カルト以外)
非二元論も、まったく一人で実践するのは、避けたほうがいいと思う
読むのはマハルシの本ばかりで、ラメッシの本は随分前に一度読んだだけだからうろ覚えなんだけど、
仕事をしろと繰り返し言ってたのはこの人だよね、確か。
非二元論を実践するにあたって、仕事が支えになり自殺を防ぐこと、狂気の誘発を抑えることを、
彼はビジネスマンの経験からわかってたんだろうね
(これもうろ覚えだけど、彼の信者が自殺してたこともあったんだったかな) いろんなこと心配して生きてるんだね
まあ好きにしたらいいよ
あなたの人生であって誰かの人生ではないのだから >>69
まーそうなんだよねw
自分という生命体の人生だからねぇ
でもやっぱり、変なほうに巻き込まれる人は少なくなってほしいとは思うよ
他人は他人であり、他人が苦しんでいたとしても、苦しんで見える他者が自分の主観による幻影かもしれなくても
人の温もりや言葉によって、救われた記憶があるからこそ
人と人と結び合った記憶にこだわってしまうんだな
すべての問題を引き起こすのは、他人ではなく、連鎖する記憶だと理解していてもね 私は他人を見るとき何を大事にしていて、何のためにそれをしてるかを、気にしてるな、関わり続けてるとそれがわかることがあると、してることと大事にしてることとの繋がりがわかり納得する クリシュナムルティには興味がなくて読んでないんだが
クリシュナムルティの功罪スレを読んで思ったこと
「私の教えを理解した人は一人もいなかった」
スレの>>763にある、今わの際に遺したというこの言葉
これが真実なら、最上等の至言に思う
クリシュナムルティ自身が実践できてないからだの、信者のレベルが未熟だからだの
そういうことではないでしょ
死に際のこの一文だけで、真理の鴻鵠を射ているのではないか?
教えを理解するものは一人もいない
私の教えが伝わることもない
誰もいないのだから
私の教えは存在しない
教えはない
私というものがいないのだから
自分が生きてきたすべての否定の言葉であり、その否定の先には何もないことを
最期の否定によって、何もないことの証明のみを残したように聞こえる
人それぞれの解釈の違いといえばそれまでだが >>72
別に構わんやろ。
ただ自分の脳や身体の仕上がり方を観るだけやし。 いや、量子もつれのことを言ってるんだろ。
縁は大切だよ。 幻想に執着し過ぎだな、全てを妄想だとして生きるなら 全ての顕れが作品として成り立たない。クリエーターは作品を表現として大事に生み出すから美しいのに。 >幻想に執着し過ぎだな
ここなんだよな〜
現実の仕事でクリエーターやってから、職業病みたいなもんもある
けど、作品を表現として大事に生み出しているのは誰か、となると
本来、そこに自分は存在しないということになり… ただ、すべての顕れは作品として成立はしているんだと思うよ
人間の感覚で美しいか醜いかに関わらず 映画監督にしても、クリエーターにしても、
物作りとしてそこに意味を見出したいんでしょ?記憶に残る作品を。自分は死んでも作品は残る、岡本太郎なんて みんな知らなくても作品は知ってる。凄くない? まあ 特別感なんて別にどうだってよくて 生きる素晴らしさ みたいなものがあればいいのかな。 自分は死んでも作品は残る、とは一度も意識したことないや
自分の(と思っている)自我が創り出す幻想を愛していただけ
生育環境からサバイバーだったから、幼少時から自我が創る幻想だけが生き延びる支えだったんだよね
幻想の自覚はあったから、現実生活を見失うことはなかったけど 主観と客観のバランスだね。どちらかなんてない、どちらも大切。 >どちらも大切。
そうだね
水や風のように流動する主観と客観を、静観することでバランスをとる
未熟な自分には簡単じゃないけどねw
明治に生まれた仏教の僧侶が、「真理の道は進むほど、一歩一歩、薄氷を踏むようなもの」と、本に記していた
バランス感覚は必須かな 量子もつれとは 簡単に言うと 糸のもつれ。
絡まって無理矢理ひっぱると 必ずどこかで歪みがおこる。仏陀の本でも書いてあっただろう?
弦は引っ張り過ぎても 緩めてもダメだって。
あれを量子もつれと言うんだよ。要するにバランスだよ。 >>87
ありがとう。弦って何のことを表してるんですか? 中道のその例えは全てを表してるだろ
何かをするにも極端ではダメ >>68
はえー
俺はどっちかっていうと2番だな
夢幻の世界を生きているつもりだ この世界は神がみせている幻覚に過ぎないと思って生きてる
そうすると、出会う色んな人や物は神なんだなあって感じる
だから最近、多神教って究極的には一神教だと考えてる ムージの動画好きで最近よく見てる
英語わからないからサットサンには行かないけど
あの人の話はわかりやすいから好き 他の人の動画で、ただ無我を唱え続けてばっかりの人いるけどあれがスピリチュアルなのかね
自己は存在しない以外の教えが なくてつまらなかった印象 >>20
世俗的な話をしてるのか宗教的な観点から話してるのかによるでしょ ラマナが10人を覚醒させ、その10人がまた10人を覚醒させると100人
あっという間に地上は覚者だらけになるはずなのに マハルシは沈黙こそ雄弁とおっしゃっています
マハラジも日の出を昼と勘違いして知識を言いふらすなと言っています
教えが自分の中に浸透するまで時間がかかります 他人のことに目を向けている暇があったら自分の事をすべきです
あなたが何をしようと神の思い通りにしかなりません
自分にかせられた義務を遂行するべきなのです >>68
ラメッシは、人間に自由意思はないという立場で、
受胎(conception)の時にすでに運命が決まっており、
何が起こってもそれはその個体の運命と言う立場。
>The organism is not the doer, that whatever happens is part of
>the functioning of Totality, and that that's the destiny of this organism.
>"There is no way I can control the consequences. Life is an impersonal
>flowing and I cannot control either my life or anybody else's life."
>However much we think and believe that we're living our own lives,
>the fact of the matter is that our lives are being lived.
>The choice is not really his. The choice is made for him at birth,
>at conception. >>95
本で読んだ知識だけど、
無我と言っても、何にも意識が集中していない状態は
熟睡しているときと同じでignoranceな状態(鈍性)らしいよ。 >>95
>>106の補足
>無我
真我に溶け込んで無我になるのか、
その前段階で親しみのある神のイメージに溶け込んで無我になるのか、
他の瞑想の対象に溶け込んで無我になるのか、
目の前の仕事に没頭して無我になるのか、
その辺の一番大切な説明や手順が抜けてるか見落としてるんじゃないかな。
>自己は存在しない
このスレやこのレスを見てうなずいたり
反発する気持ちが生じるということは
自己(自我=心)が確かに存在している証ですが、
心は思考と感情の束と言われており
実体がなく非実在であるものの、
目的地にたどり着く途中までは
samskara(過去の個々の印象)やvasana(samskaraの
蓄積により形成される潜在的な傾向、性向)が詰まった乗り物で、
その乗り物をきちんと管理して「自己が存在しない」境地を
目指しましょうということではないでしょうか。
ダルマを固く守るとか
自我意識や執着、欲望、憎悪などの心を形作るものを
生贄として差し出すとか、目的地にたどり着くまでの
霊性修行で済ませておかないといけないことが
たくさんあるでしょうから、
結論(到達点)のお話しがそのまま聞く人や読む人に
当てはまるわけではないと思います。
不二一元論はスピリチュアルのかけらも存在しない大本に
戻る(融合する)ことを目指した教えではないでしょうか。 >>107
何が言いたいのさ
無駄な言葉を並べる必要はないわ 悟りは理解の問題ですよ。
ラマナの発言で重要な部分がありますが
例えサマーディを何年修練したとしても
ヴァーサナを非拘束にしない限り解脱には繋がりません。
ラマナはこの部分を根絶と表現しましたが
正式なアドヴァイタの表現ではないので注意しましょう。 それは起こる。
私の場合、完全に体験が先だ。
それは避けられない。
私が言える事は最悪の出来事が恩寵になりえるという事だ。
逆説的に言えばあるがままを受け入れる、或いは去来するものを恐れてはならないという言い方になる。
マハルシやマハラジの言わんとする事は同じでありどちらも真理を示唆している。 私はエゴを退けて利他行為をしたときに起きました。
崖からすべり落ちたかのような瞬間、
天地がひっくり返りました。 >>115
エゴを自分の意思で退ける事が可能だろうか?
利他行為とはどの様な行為だったのだろうか?
そして精神的に死にはしなかったか?
ぜひ聞かせて欲しい。 >>116
可能です。
全財産を手放しました。
精神的臨死体験だと思います。
でもそれは究極の幸せを知ることでした。 心理学で、普通という権域があるが
このバイセクシャルのホモ豚は普通ではない🎵 >>117
物質的な何かを手放す事とエゴの終焉は全く別の話しだ。 >>112
あなたはサマーディがどのような状態なのか?どんな体感をするのか
ご自分の体験にもとづいて説明できますか?
体験してるのならできますよね? >>117
あなたの臨死体験は金が原因ですか?
安っぽい臨死体験ですね >>106
まったく違いますね
無我はよく「何もない、何も意識しない」と勘違いされますが
そうではありません
無我は、自分は無いという言葉の意味ですが
それは裏をかえせば、全体こそが我であるという意味です。 >>106
たとえば、体のどこかを蚊にさされたとします。
貴方はかゆいのでその部分をかきますが、
その書いた部分は自我にたとえることができます。
蚊にさされるとかゆいので、まるで体の中で蚊にさされた部分が
すべてでもあるかのように、かゆい部分に意識が集中します。
それが自我が肥大した状態です。
ところが、そのさされた部分は時間がたつとかゆみがおさまります。
あなたはついちょっと前まで、かゆみに支配されていた感情がなくなり
しだいに刺された部分を気にしなくなります。
あなたは普段どおりからだ全体を意識して、もはや蚊にさされた部分を
忘れてしまいます。このときの刺された部分は「無我」だといえます。
「 >>109
おすし屋さんでの待ち時間に暇つぶしに瞑想してたら
いわゆるワンネスの体験をしたというだけのことです
ちょっとおどろいたけど面白いですね >>121
ラマナの教えを実践していて、わからない部分があるということでいいのかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています