マタイの話と古い禿げの話し


だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。

だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
(マタイ 9:16-17)

あるキリスト教系神秘主義者はこう語った
キリスト教が世に現れ出した頃は、今よりもずっとユダヤ教的であった
パウロですらコリントT 3-6のようなことを語っている
しかし、頭を覆うことと、敬虔な気持ちの有無にはなんの関係もないことを現代人は知っている
物事には常に「新しい見方」がある
だからといって古い見方が間違いにはならない
見方には、それに相応しい「時と場所」がある
人は教会にミニスカートを履いたギャルがいたら驚くだろう
しかし神や神的存在はそんなことに頓着しない
ミニスカートを履いていたとしても彼女の祈りは中途半端な誰よりも敬虔であることもあり得る
古い人物の習慣は尊重するが、だからといって新しい人の習慣が間違っているわけではない
古い人に新しい習慣を強要することが間違っているように、新しい人に古い習慣を強要することも間違っている

「古い信仰や伝統を持ち続けたまま、新しい原理に従って生きて行くことはできない。なぜなら、新しい原理というものは、古い信仰や伝統に馴染まないからである」
新しいものには必ずそれに相応しい時と場所がある

禿げ人は老いたことを認め、古い習慣や価値観と新しい習慣や価値観の違いを知り、それを尊重し、寛容であろう

その隣人への愛に満たされた態度こそ、神が喜ぶものだ