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・・・● 国王への畏敬、聖職者への崇敬(=バーク哲学「偏見」)

 バークが「偏見の哲学」を展開したのは、無神論を奉じて国王や貴族や政治家や聖職者への尊敬を喪失した革命フランスを、人格喪失の精神の腐敗と見抜き、自由の原理への破壊行為だと喝破し、この危機から英国を救おうとしたからだった。

バークは、この革命フランスの新思想とは逆の正しく健全な精神が「偏見」で形成されていることを洞察する。

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 バーク曰く、

 「われわれは神を恐れます。畏敬の眼で王を見上げます。議会に対しては愛着の、判事たちに対しては服従の、聖職者に対しては崇敬の、貴族に対しては尊敬の眼を上げます。・・・・そのように心を動かされるのが自然だからです。それ以外の感情は嘘偽りであって、・・・・」

 「われわれ(英国民)は一般に教わったものではない感情の持ち主であって、われわれの古い偏見を誰も捨てるどころか大いに慈しんでいます」
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すなわち、バークの「偏見」とは、このように、神への畏怖、聖職者への崇敬、貴族に対する尊敬、判事たちへの服従、・・・・の「感情」のことを指す。
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日本語の“偏見”が意味するところの“客観的な根拠のないのに、特定の個人・集団に対して抱く非好意的な意見や判断、またそれに伴う感情”とは全く異なるものである。
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この「偏見」にバークは文明の人間が欠いては健全に生きていけない、二つの機能を発見している。
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第一は、「偏見」にこそ「潜在する深遠な知恵」が宿っていること。
第二は、「偏見」によって、精神の腐敗と、道徳の損傷と、道理に適った自由からの逸脱が防止されること。
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第一の点について、僅かな智力しかない人間の理性は、「偏見」という服を何枚も着重ねて初めて、漲るほど豊かな智恵を得て、美徳ある文明を創る真正の智力へと大きく成長する。「偏見」なき理性とは、智力の貧困となる。
 
・・・第二点の、「偏見」と道徳・自由との関係については、バークは次のように述べている。

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 バーク曰く、

 「(神への畏怖、王への畏敬、という偏見)以外の感情は嘘偽りであって、精神を腐敗させ、主要な道徳を損ない、道徳にかなった自由からわれわれを逸脱させます」