>>123 猊下の死後に於いても色々な参考的なご意見が有るようです。
詰まるところ、欲と言うよりも、人間の悩みの極まりとは己の病を治してくれて
天寿を全うしたい。

原始仏教、釈迦仏教から言えば子の回答は落第点ですねえ。
釈迦牟尼が悩んだのは確かに、いかにしてそういう苦から
逃れられるかで、瞑想を極めて瞑想を離れ、また瞑想で得た明智に
よって結論を得たものが悟りなんですよ。
それは、あなたの言う「己の病を治してくれて天寿を全うしたい」
という根源的なる渇愛という煩悩を堰き止めることだったのですねえ。
だから阿含宗の因縁解脱なんて造語の囲碁仏教は通用しないし、と言うのも
桐山さんは、新聞死亡蘭で囲碁教祖のようにコメントされていたもんね。
ですから宗教的評価はゼロに等しかったし、一切阿含宗の教義が仏教界に
足跡を残したなんてことも書かれていないほどに、外道の考えそのものだった
ということなんですよねえ。
まあそこでえ、簡単に言えば「過去を悔やまず未来を望まず」という箏ですわ。

「(愛欲の)流れは至るところに流れる。(欲情の)蔓草は
 芽を生じつつある。その蔓草が生じたのを見たならば、
 智慧によってその根を断ち切れ。」(ダンマパダ=法句経 340)

しかし頑なに超常的法力を信じるあなたのような人には理解できないし、
そういう人が多いから釈迦牟尼はこのように落胆して述べていたんだよな。

「ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、
執着のこだわりを嬉しがっている。さて執着のこだわりを楽しみ、
執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人々には、
(これを条件としてこれがあるということ)すなわち縁起という道理は見がたい。
またすべての形成作用のしずまること、すべての執着を捨て去ること、
妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)という
この道理もまた見がたい。」(サンユッタ・ニカーヤ「懇請」より)