【イエス】キリスト教難民スレ第13部【キリスト】 [無断転載禁止]©2ch.net [無断転載禁止]©2ch.net
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重荷を負って苦労している人は誰でも皆イエス様の所に行きましょう。
共に重荷を負い合い分かち合い、慰めを頂き救われましょう。
自分の弱さや罪に苦しんでいる人
何かの原因で悲しんでいる人
自分の良い教会を見つけられない人
自信のない人 将来に夢を持てない人
難しい神学が解らない人
何でも話し合いましょう
祈りあいましょう
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
マタイによる福音書:第11章28節
まちことシャロンは悔い改められますように。
※前スレ
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1476023444/ 本能をなくすことではありません。
ひとつの大きなテーマです。
もっとその先もあるらしいですが、わたしにはわかりません。 聖書は、創世記第一章から改ざんが始まっています。
詳しいことは言いません。信じられなくていいです。 >>923
ヨハネ15:13だが、そこは確かにフィリアの動詞形フィレオー まあ、ペテロに愛するかと問う箇所も実際にはアガパオーとフィレオー いくらギリシア語で正確な翻訳を求めてもムリ。
ギリシヤ語になった時点ですでに改ざんされてんだ。
簡単に改ざんされ得るような形態で、神がその言葉を残すと思うかい ?
時期わかるさ。 ペテロの答えから、フィレオ―だと知ったうえでイエスがアガぺーで問いかけていることになる。
イエスはペテロがイエスを知らないという事を前もって話している。
ペテロの暴漢の耳を切り落とした正義感と血の気の多さと卑怯さと、そうした罪への自覚イエスに
出会った時の「わたしは罪深い者だからです」パウロの書簡にもあるペテロへの批判などから、総合的に見て
ありえる話です。 福島瑞穂(趙 春花)が石原慎太郎に「朝鮮人」と呼ばれ、
「私の名誉を毀損された、法的措置も検討する」と不快感【差別主義者】
https://www.youtube.com/watch?v=SrvijygvO0E
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社民 福島瑞穂議員に朝鮮人と言えば名誉棄損になるそうです。
これは、朝鮮人に対する差別ではないでしょうか?
また、未だに「石原慎太郎」元都知事を告訴していません、
それともできないのでしょうか(笑 まこと君
自己満足のネット検索だけで
救われたか? 聖書のギリシア語の愛の解釈って深い意味があったのですね。 >>934
この個所の解釈は学者の間でも定説がないと聞いた。
が、聖書全体を通して推論すれば、「フィリア」でいいという意味ではなく、
イエスの言葉の意味は「ペテロ、お前がわたしに従おうとする気持ちはあるのに
恐怖のためにつまずいた悲しみとみじめさを知っている。だから今度はつまづか
ない。わたしが愛のために死んだように、おまえも同じように死を受け入れる。
わたちはおまえと共にある。」 http://www.jinjahoncho.or.jp/iroha/jinjairoha/ujigami/
神社本庁によると
崇敬神社とは、こうした地縁や血縁的な関係以外で、個人の特別な信仰等により崇敬される神社をいい、
こうした神社を信仰する方を崇敬者と呼びます。
信仰=崇敬=崇拝ですから、いっしょのことです 義のために迫害される人々は幸いである、
天の国はその人たちのものである。 イエスを信じなさい。
信じていない者は救われていない。 憐れみ深い父。
その昔、主イエス・キリストは十字架で死なれ、
わたしたちのために救いを全うされたのち、
アリマタヤのヨセフの備えた墓に
みからだをいこわせられました。
そして三日ののち、
その所を栄光に輝く復活の場とされました。
今、わたしたちは、深いみ旨によって召された
兄弟のなきがらをこの所に納め、
終りのよみがえりを主によって待ち望みます。
主は恵みをもって、この兄弟をみ救いに入れ、
尊い血をもってその生涯をきよめ、
そのみからだなる教会につらならせてくださいました。
今よりのち、わたしたちは住むところを異にしますが、
主によって結ばれた交わりを堅く保ち、
主の再び来たり給うことを望みとして生き、
主の栄光をあらわす者とならせてください。
また、わたしたちもやがて召される日には、
この兄弟と共に主のみ前に立ち、
限りなくみ名をほめたたえることを得させてください。
主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン。
願わくは主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。
願わくは主が御顔をもってあなたを照らし、
あなたを恵まれるように。
願わくは主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を賜わるように。アーメン。 ルーテル教会は、宗教改革記念日です。
讃美歌267番 神はわがやぐら
ttps://www.youtube.com/watch?v=h_xbYi7k0a0
ttps://www.youtube.com/watch?v=KrQAzhU3gDA
ttps://www.youtube.com/watch?v=52ndLLVBNuk
みなさまに讃美歌をお届けします。 私はわかってしまった。
ユダヤ教(旧約聖書)=卑弥呼教
キリスト教(新約聖書)=大国主教
でしょ?
キリスト教の神が妬み深いのは、大国主が日本国を譲ったから。
キリスト教の使徒に漁師が多いのも、大国主が釣りをよくしていたことと一致。
大国主も漁師だったのかも。海の神だしね。
出雲系大国主がいた場所は、優しい人が多いはず。
たとえば、伊豆・三島の方とか、東北とか。海岸沿いも、多いかもしれないね。
山の民は陰湿な印象あるけど、海の人はフレンドリーで面倒見良い人多いよね。 「すうきょう・まひかり」だってソンナ変な説を説(と)きませんよ。 神道系の新興宗教のダジャレ説は笑えるのが多いですよ。
仏教系の新興宗教の方が難しくて有難い説があったりする。 たとえば「ラルロの嵐」とか「ムー大陸」とか「五色人」とか。
新約聖書にだって
旧約聖書にだって書いてあるはず無いじゃないですか。 漫画チックなんですよ。シントー系新興宗教って。
キリスト教系でもペンテコステ派も笑えますよ。
666はミロク(3つの6)だとか言って、仏教は悪魔扱いだし。 ホサナ メンブロメ バルカンマ アドナイ。
いと高きところの者よ救いを賜え、
主のみ名によって来たる者に祝福あれ。 私達があなた方に伝えた事は、私自身、主から受けたものです。
即ち主イエズスは引き渡される夜、
パンを取り、感謝の祈りを捧げてそれを裂き、
『これは、あなた方の為の私の体である。
私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。
また食事の後で杯も同じようにして、
『この杯は、私の血によって立てられる(エレミヤの)新しい契約である。
飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい。』
と言われました。
だから、あなた方は、このパンを食べこの杯を飲むごとに、
主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。 私は元創価の会員でした。
すぐ隣に防衛省の背広組みの官舎があるのですが、
自分の家の窓にUSB接続のwebカメラを貼り付けて、そこの動画を撮影し続け、
学会本部に送っていました。
別に大したものは写っていません。ゴミだしとか奥さんが子供を遊ばせている所とか。
官舎が老朽化して使われなくなってから、
今まで法人税(うちは自営業です)をほぼ払わなくても済んでいたのが、
もう守ってやれないのでこれからは満額申告するように言われました。
納得がいかないと言うと、君は自業自得で餓鬼地獄へ落ちる、
朝夕南無妙法蓮華経と三千回ずつ唱えて心をきれいにしなさいと言われ
馬鹿らしくなって脱会しました。
それ以来、どこへ行くにもぞろ目ナンバーの車につけまわされたり大変な日々です。
全部自分の出来心から起きたことで、どこに訴えるわけにもいかないのですが、
なんとかあの人たちと縁を切って新しい始まりを迎える方法はないんだろうか。 さて、カイザリアにコルネリオという名の人がいた。
イタリア隊と呼ばれた部隊の百卒長で、
信心深く、家族一同と共に神を敬い、
民に数々の施しをなし、絶えず神に祈っていた。 イエズスは答えられた、「第一の戒(いまし)めはこれである、
『イスラエルよ、聞け。
主(しゅ)なる私達の神は、ただ独りの主である。
心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、
主なるあなたの神を愛せよ』。 偶像造りの野心は王を知らない人をも駆り立てて、
偶像崇拝を広めさせた。
彼は権力者に取り入るため、
腕を振るって肖像を実際よりも美しいものに作り上げた。
多くの人は職人の見事なわざに引かれ、
先程まで人間として敬っていた者を、
今や礼拝の対象と見なすようになった。
この事は人間の生涯にとって罠となった。
災難や権力に支配された人々が、神聖な名を石や木に与えたから 命のないものに望みを賭ける人々は惨めだ。
彼らは人の手で造られたものを神々と呼ぶ。
技術の生み出した金銀の作品、動物の像、
昔の人が加工した役に立たない石などを。 彼らは神を知る点で間違っただけではない。
無知から生じた大きな戦いのうちに生きながら、
次のような悪事を平和と呼んでいる。
流血と殺害、盗みと偽りが至るところにあり、
堕落、不信、騒動、偽証、
善人への迫害、恩恵の忘却、魂の汚染、性の倒錯、
結婚の乱れ、姦淫、好色が至るところにある。 命のないものに命を乞い、全く経験のないものに助けを求め、
自分の足さえ使えないものに旅の安全を願う。 律法の全体は、
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という、
この一句に尽きるからである。
気をつけるがよい。
もし互いにかみ合い、食い合っているなら、
あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう。 なぜなら律法をことごとく守ったとしても、
その一つの点に落ち度があれば、
全体を犯したことになるからである。
たとえば「姦淫するな」と言われた方は、
また「殺すな」とも仰せになった。
そこで、たとい姦淫はしなくても人殺しをすれば、
律法の違反者になったことになる。
だから自由の律法によって裁かれるべき者らしく語り、
かつ行いなさい。 互いに愛し合う事の外は何人にも借りがあってはならない。
人を愛する者は律法を全うするのである。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、貪(むさぼ)るな」
など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局、
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」
と言う、この言葉に帰する。
愛は隣り人に害を加えることはない。
だから愛は律法を完成するものである。 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。
怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、
すべての人に対して寛容でありなさい。
だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、
お互いに、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのものを識別して、良いものを守り、
あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 みことばを教えてもらう人は、教える人と、
すべて良いものを分け合いなさい。
すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、
霊にまくモノは、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
私達は、善を行うことに、うみ疲れてはならない。
たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
だから、機会のあるごとに、だれに対しても、
とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。 あなたが知っている通り彼においては、信仰が行いと共に働き、
その行いによって信仰が全うされ、
こうして「アブ・ラハム(多くの父)は神を信じた。
それによって彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、
そして彼は「神の友」と唱えられたのである。 私(イエス)の弟子であるという名のゆえに、
この(キリストの)小さい者のひとりに
冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、
決してその報いからもれることはない。 霊魂の無い体が死んだものであると同様に、
行いの無い信仰も死んだものなのである。 人は言う、「彼の手紙はオモミがあって力強いが、
会って見ると外見弱々しく、話はつまらない」。 多くの人が肉によって誇っているから、わたしも誇ろう。
あなた方は賢い人たちなのだから、
喜んで愚か者を忍んでくれるだろう。
実際、あなた方は奴隷にされても、
食い倒されても、略奪されても、
いばられても、顔をたたかれても、それを忍んでいる。
言うのも恥ずかしい事だが、私達は弱すぎるのだ。
もしある人があえて誇るなら、
わたしは愚か者になって言うが、私もあえて誇ろう。
もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。 すると、どこに私達の誇りがあるのか。全くない。
なんの法則によってか。行いの法則によってか。
そうではなく、信仰の法則によってである。
私達は、こう思う。
人が義とされるのは、(割礼の)律法の行いによるのではなく、
信仰によるのである。
それとも、神はユダヤ人(ヘブルびと)だけの神であろうか。
また、異邦人の神であるのではないか。
確かに、異邦人の神でもある。
まことに神は唯一であって、
割礼のある者(ユダヤ人)を信仰によって義とし、
また無割礼の者(異邦人)をも信仰のゆえに義とされるのである。 なぜなら、律法を行うことによっては、
すべての人間は神の前に義とせられないからである。
律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 そこで、律法によっては、
神の御前に義とされる者は一人もないことが、明らかである。
なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。 私達の行った義のみわざによってではなく、
ただ神の憐れみによって再生の洗いを受け、
聖霊により新たにされて私達は救われたのである。
この聖霊は私達の救い主イエス・キリストを通して、
私達の上に豊かに注がれた。 舌は火である、不義の世界である。
舌は私達の器官の一つとして備えられたものであるが、
全身を汚し生存の車輪を燃やし、自ら地獄の火で焼かれる。
私達は舌で父である主を賛美し、
また舌で神にかたどって造られた人間を呪います。 キリストは私達の為に、呪いとなって、
私達を律法の呪いから贖い出して下さった。
(旧約)聖書(申命記)に「木に架けられた者は呪われる」
と書いてある。
それはアブラハムの受けた祝福がイエス・キリストにあって、
異邦人に及ぶ為であり、約束された御霊を、
私達が信仰によって受ける為である。 なぜなら人は心に信じて義とされ、
口で告白して救われるからである。 ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、
ただ神の憐れみによるのである。 憐れみを行わなかった者に対しては、
仮借のない裁きが下される。
(神の)憐れみは(終わりの日の)裁きに打ち勝つ。 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、
むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、
「主が言われる。復讐はわたしのするところである。
わたし自身が報復する」と書いてあるからである。 「あなたがたの律法に、
『わたしは言う、あなたがたは神々である』
と書いてあるではないか。」 「この世の子らは、めとったり、嫁いだりするが、
かの世に入って死人からの復活にあずかるにふさわしい者達は、
めとったり、嫁いだりすることはない。
彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、
神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」 死人の復活も、また同様である。
朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、
弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。
肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。 なぜならメシアはあらゆる敵をその足もとに置くときまでは、
支配を続けることになっているからである。
最後の敵として滅ぼされるのが、死である。 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、
次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。
なぜなら自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。 しかし今や私達を繋いでいたものに対して死んだのであって、
私達は律法から解放され、
その結果、古い文字によってではなく、
新しい霊によって仕えているのである。 神は私たちに力を与えて新しい契約に、仕える者とされたのである。
それは文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。
(律法の)文字は人を殺し、(キリストの)霊は人を生かす。 わたしたちは、四方から艱難を受けても窮しない。
途方に暮れても行き詰まらない。
迫害にあっても見捨てられない。倒されても滅びない。 なぜなら患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、
練達は希望を生み出す事を知っているからである。
そして希望は失望に終わる事はない。
なぜなら私達に賜っている聖霊によって、
神の愛が私達の心に注がれているからである。 「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてある通り、
それと同じ信仰の霊を持っているので、
わたしたちも信じている。それ故信じている。 それとも
「神は私達の内に住まわせた霊を嫉むほどに愛しておられる」
と、聖書に書いてあるのは、虚しい言葉だと思うのか。 何よりもまず、お互いの愛を熱く保ちなさい。
愛は多くの罪をおおうものである。
不平を言わずに、互いにもてなし合いなさい。 語る者は、神の御言葉を語る者にふさわしく語り、
奉仕する者は、
神から賜る力による者にふさわしく奉仕するべきである。
それは、すべてのことにおいて、
イエス・キリスト(ヨシュア・メシア)によって、
神があがめられるためである。
栄光と力とが代々限りなく、彼にあるように、アーメン。 このように、いつまでも存続するものは、
信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは愛である。 そして、善を行う事と施しをする事とを、忘れてはいけない。
神は、このようないけにえを喜ばれる。 最後に言う。
主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。 このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
life time: 16日 5時間 36分 20秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。