十十十 カトリック246 十十十©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ある日水瀬いのりちゃんのストーカーすずはらみさきち ◆5oR0dKBDzYに
手紙が届きますた・・・
_____
/ ヽ____//
/ / /
/ / /
/ / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| |
| |
/  ̄ ̄ ̄ ̄ /_____
/ /ヽ__//
/ 殺 す / / /
/ / / / >>197
カトリック信徒は御言葉を印籠にしての投稿をあまりしないよね。
ちょっとプロテスタントのマネをして見せたら「お高く」見えたわけだ?
なるほどね(ニガ笑)
ちなみに俺はお前以上に飲み友達は多いと思うよ? >>185
これは、サロメではなく福音派のプロテスタントの関係者による書き込みです サロメさんのブログちょくちょく読ませてもらっています。 (詩篇25・12)
私は平らなところに立ち、
集会において主を祝そう。
ビールケースをひっくり返してそこに立って
信徒に向かって
声を半オクターブあげて
鼻にかかったような声では 語らない。 アメリカ合衆国の起源。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/100533423
トマス・ペイン。
ロンドンやフランスで活動をしたが、ルイ16世がヴァレンヌを旅しただけで虐殺が起きたり、
ジャコバンが公園セックスなどを行ったことから、人々の支持のある君主制(共和党)の立場を固めた。
刑務所に放り込まれて危うくギロチンにかけられるところだったが、モンローに救われた。
しかし、ペインは「女の体が物事を治める」という立場にこだわったため、モンローは居心地が悪くなった。
混合政府は人を殺すという確信があったため、大統領が変わるたびにオフィスを入れ換えるのはペインが考えたのだ。
フリーセックスの実態の話をよく聞く自由民主主義思想にも共感した。
社会は人々が望むものから生み出され、国家は悪から生み出されるとした。
どのような社会も祝福されるが、国家は必要悪だった。
上院には分からないことが下院に集まった。
ジョージ三世の植民地支配への怒りが高まったときに、ペインは「アメリカ国王になる」という禁断の扉を開けた。
【国家を作るのは最初はギャンブルだ】
大陸は単なる地方ではないと主張した。
アメリカ国王になりたいと考えたペインに対して「アカデミズムに疎い」「正気を失っている」という批判がなされるのも当然だった。
フランス革命は暴力に満ちていたし、ジャコバンはフリーセックスだった。
この混乱がアメリカに影響を与えた。
俺の肉体は最強だ、と言える人がいなかったからペインとエドモンド・バーク決別していった。
ペインは肉体的強さを持っていたのだ。
【それで人気を得ることはできるのか?】
アメリカ独立の強烈な力になったバンク・オブ・アメリカの前では学問が必要だと悟った。
いざとなったらみんなが俺を頼ってくる、これが必要だったのだ。
【すべての男女にパートナーを与えるのが仕事だったのか】
ペインは悟った。
すべての男にパートナーを、そして子孫を、名誉革命は議会もないのにそれを知っていたんだ。
みんなに背広を着せてパートナーを与える方法を知っているのならばみんなが俺を頼ってくるだろうね。
フランス革命で見た男の暴力の結論だよ。 2007年(主日C年) 11月4日 年間第31主日
知 11:22〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10
「今日、救いがこの家を訪れた。 この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」(ルカ vv.9-10)
アブラハムの子とは、神から祝福の約束を受けた (創 12:1-3, 15:5-6) アブラハムの子孫、すなわちイスラエルのことであって、捕囚後の頃から通称ユダヤ人と呼ばれるようになった人々のことです。
イエスは先ず、このイスラエルへの福音宣教を優先されたと、マタイ福音書は伝えています(10:5-7)。
初代教会の宣教に対して、ユダヤ人の多くがこれを歓迎せず、福音が異邦世界に宣べ伝えられるようになって (使 10-11章, 13:45-47)、その後キリスト教的西欧にはいわゆる "反ユダヤ主義" が根を下ろすようになりました。
"キリスト殺しのユダヤ人" という偏見を放置し、ヒトラーによるホロコースト (ユダヤ人大虐殺) に至る歴史に対して、カトリック教会も決して無責ではなかったことへの反省が、
第二バチカン公会議での "キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言" となったのでした。
多くの人々は、神の約束と契約が本来イスラエルのものであったこと、異邦人である私たちは後からそれに共に与る者となったという事実を知りません(ロマ 9:4-5、エフェ 2:11-13, 3:6)。
キリストがその福音によって知らせてくださった 「秘められた計画」(エフェ 1:9, 3:2-7) を、教会は久しく聖書から聞かずに歩んで来ました。
上記の宣言が第二バチカン公会議で採択されたとき、なお "その討議の際に生じた緊張と意見の対立を残していた" と言われている事情* の一端が、ここにあるように思われます。
* G.アルベリーゴ/第二バチカン公会議 その今日的意味 p.206
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より
(シラの書3・28)
高慢な人の不幸を治す薬はない、
悪は、彼の中に根を張っている。
事業に失敗した死にたい、マジレスどうしたらいいか
マルチします たすけて
本当なんです!! サロメですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
アタシのブログ読んでねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
http://blog.goo.ne.jp/mugi411/ おはようございます
ヤフー知恵袋で晴佐久神父という方が批判されていました
ご存知の方はいらっしゃいますか? 純真な青少年に性犯罪仕掛けたんじゃねーかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 2010年(主日C年) 10月31日 年間第31主日
知 11:22〜12:2 IIテサ 1:11〜2:2 ルカ 19:1〜10
「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。 また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(ルカ v.8)
このザアカイの意表を突くような大決断を、私たちは何らかの功績、彼が救われた理由と解釈してはなりません。
彼が正しい人間、善い行いの人になったから救われたのではありませんでした。
「では、人の誇りはどこにあるのか。 それは取り除かれました。」(ロマ 3:27)
実にイエスがザアカイに、「わたしに立ち返れ、(なぜなら) わたしはあなたを贖った(から)」(イザ 44:22) と言ってくださっている声が、朗読を聞く私たちにも伝わってくるではありませんか。
自分は罪が少ない、自分は信心と善行によって多くの罪を償っていると思っている人には、決してザアカイのような大決断は不可能です。
私たちが本来全く "失われた者" であったということが、ここでは強調されているのです(ルカ v.10, 15:1-10 参照)。
私たちが使っている新共同訳聖書には、本文の内容区分ごとに、翻訳委員会の努力によるかなり親切な小見出しが付けられています。
今朝の朗読テキスト (知恵の書) の前後にある小見出しを、私たちは感謝しましょう。
「神の力は忍耐によって示される」、「神の愛は忍耐によって示される」、「神の忍耐は回心を促す」。
"キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださる"(フィリ 1:6) 神の忍耐に、賛美 !
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 横須賀美術館〜マホロバから。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/109506928
マルキュースは、フランクフルトスクールのメンバーだったが、
第三帝国の統治下でアメリカに逃れた。
多くの仲間が終戦後、ドイツに戻ったが、彼はアメリカにとどまった。
1960年代に「新左翼のグル」と目されたが、その後はポストモダニズム(面白いことをやろうとする連中)や、ロールズのフリーセックス理論、そして、アドルノの「資本主義社会はテレビだけ見てればいい」という思想に圧倒されていった。
彼の少年時代は常に体育館にあった。
その後、「資本主義と帝国主義のダイナミズム」の研究を始めた。
マルクス主義の「女の共有」にも影響された。
お父さんが出版社を経営しており、彼にアパートを買い与えた。
「存在と時間」ん読んでは若さを無駄にしていた。
ナチスのもとでは教授になれねえよ。
そう思いながらコロンビア大学に出入りしていた。
戦後、マルクス主義の美学などの論文を書き、資本主義社会における「女の抑圧」について探求した。
芸術家が理想を描くときは現実とのギャップに悩んでいることを知った。
このギャップこそが社会を変えるんだろうと考えた。
フリーセックスを求めるグループの支配なんて出来ないよ。
そこで彼は「急進的な女性主義」に走った。
女性芸術が革命を起こすと信じていた。
ブルジョア社会だから一夫一婦制なんだろう。
女ん美しく描きたかったんだ。
「親父の言うことなんか聞いてられるか」
労働者階級の芸術が革命をもたらすんだ。
傑作というのは平凡だよ、それでも力を持っているんだ。
1960年代に女がフリーセックスを求め始めた。
知的な女はみんな革命を望んでいた。
労働者階級、二児の母、アメリカ中西部の生まれ、そういう女が彼を支持した。
みんな心に何かを抱え込んでいたからだ。
「若さを無駄にする」これがマルクス主義の温床だった。
20世紀に入って「マルクス主義革命は起きないのではないか?」と言われ始めた。
ソビエトは全体主義に過ぎなかった。
マルクス主義の連中は「考え方を間違ったのかなあ」と思い始めた。
自然革命論は失敗だった、行動主義だと第二インターナショナルも考え始めていた。日々上達するなんてバカげていた。
高度な産業化が進んだ国ほど若さを無駄にする連中が多かった。
女の共有と若さを無駄にすること、これが新左翼の特徴だ。
自分と世界がかけ離れることが大事だった。
物象化論(女のフェティシズム)ってなんだろうな?
マルキュースはとうとうこの答えにたどり着いた。
サインは上昇思考だったが、コサインは続いていく日常を見ていた。
コサインには、人種や女性差別が道溢れていた。
資本主義のもとで隠れた傷を負っていた者たちがいたのだ。 それほど糖質でも無いんじゃないか?wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>213
マリーさん、神様とあなたの間に「薄汚いもの」を挟み込まないようにしてくださいね。 ここにも聞き分けの悪い
二心の在日プロテスタント牧師が現れていたか。
もう、出たな化け物と考える人も多かろう。 下品下生がお留守ですってかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww フィギュアスケートのエレメント(曲線)とキス。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/104122763
「エレメント」
曲線のふたつのサイドがイコールであること。
スピンやスパイラルのエレメント(氷の上を描いたライン)が完璧で、そのあと速度をつけてジャンプして見せた。
半径は、彼女のキスの数。
エレメントを「幾何学模様の致命的要素」としているのはアメリカであり、
直線のラインでは止まってしまうのがスケートだ。
このことを正確に理解しているのは長久保裕だろうと思われる。
札幌オリンピックがアメリカとどのように関わったのかの研究が必要だ。
男のモデルの理想は、「インターネットにない言葉を話す」「言葉と理論と私の関係を語ってくれる」
そうして、エレメントを女は語る。
A(キス)はエレメントでなりたっており、男のモデルはK(奪三振)の数を争う。
キスは空虚ではない。
男はキスの数が多ければ多いほどセックスと同じだと考えた。
しかし、女たちの噂だけが広がっていくのを知らなかった。
男も追い詰められたのだ。
凡人がたった一度キスすることの大切さを知った。
キスが心に与える影響を知らないのかしら。そのために男はシチュエーションを考えるのよ。
キスの数だけ言葉が豊富。
まるでセックスのよう。 社会民主主義思想大全【書きかけ】
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/109523127
女は文化においても社会においても「セックスされる存在」としてではなく、女として物事を語りたがったし、知りたかった。
しかし、「セックス裁判以外に興味がない」ものだったのだ。
これが、社会民主主義思想の出発点だ。
1970年代にフェミニズム第二の波が生まれ、政治がセックス裁判になった。
力が女にどのように加えられるかが争点だったのだ。
「私の今までの行いを体制が否定するのならば放り投げてやるわ?」
1981年のローラインコードにおいて「童貞坊やの発言は重要か」が語られた。
いくら家父長制のもとで長男を名乗っていても、セックスを知らなければ何も解決できないことが分かったからだ。
マルクス主義思想にかぶれたあとに急激に大人びてくるのが男だった。
その後に女たちは、彼の性差別や男性中心主義を認めたのだ。
偏差値BOYは落ち着いているからいいわね、という意見もあった。
偏差値BOY(うしろゆびさされ組)弾き語り: http://youtu.be/5IhwQ8iEqj4
しかし、何が知識の発信源なのか?を知らなかった。
「私たちは何にしたがえばいいの?」童貞男は言葉を失った。
女が男から何かを「発見」することで女は団結していたのだ。
1990年代以降、女の昔の男という「悪いサイエンス」も色々と分かるようになった。
クーン以降、一気に恋愛論の研究手法が発展した。
【経験よりも学問の方が進んでしまったのだ】
社会というのは人々がいろんなものを交換する場所だ。そこで「何で知ってるの?」ということほど大事なものはなかった。
経験はローカルなものに過ぎなくなった。
1990年代以降、恋愛論ほどパンデミックを起こすネタはなくなった。 カトリック教会に通うようになってから心が落ち着きます
プロテスタントでは祈り方とか教えないのか、
祈りの本も教会では売ってないし、礼拝以外でどのように祈るのかわかりませんでした
カトリックでは祈りの本もあり、ロザリオの祈りも神秘を黙想するとき、どのようにイメージするかの助けになる
挿し絵つきのロザリオの祈りの本を買ってきました
朝晩祈るようになって落ち着いてきました >>224
同じ気持ちです。「ヤベツの祈り」を用いているプロテスタント教会は
あるようです。 あまたの邪教ひしめくこの国でカトリック教会に辿り着く者は幸い。 イタコ芸人の民掛け軸の民は歯がみして悔しがるであろう。 >>229
邪教だなんて。そんなかっこいいのいらない
回心もしない欲ボケのクズ業者でいいよ >>230
たしかにくやしいなぁ。うまいことやるわあの西洋イタコってな もちろん
いまなら破格のストックオプション付きってことで。 神って、そこらへんの金持ちやん。
正味、つよいけどな それは認めるわ 神とは真実なのだから。いくら偽っても勝てないのです。 その神より強ければ勝てるよw
いやそうやなくて長い目で見てカトが続くかどうかのもんだいやねん。
そうかにとられてもてるやん そして真実とは道です。イエスはその象徴に過ぎない。 イエスが救ってくれるのではないのです。道が救うのです。 イエスを免罪符がわりにしたカトリックはアホとしか言いようがない 道はすくわんよ。
教区とバチカンの金庫が救うねんて。
いや、そんなんどうでもええねん
修繕費どないすんねん イエスが貴方を救うのではなく道が貴方を救うのです。 やっぱりワラント債はっこうしたほうがええって。
なんか「愛の羽ばたき債」とかナントカつけたらジジババが食いついてくるやろ なぜならイエスを神と認識出来ない者にとっては、イエスは一預言者に過ぎないからです。
>>248 耐震診断補強とかもちゃんとやっとかんと。
ミサ中に南海トラフきてけが人出たら大変やで。
保険のこともあるし… あと水洗トイレの改修もかんがえなあかん。
じいいちゃんばあちゃん達が和式のうんこ座り、相当きついらしいわ。
予算どんだけいるねんと。
んで、また教区からいらんカネとか言われるしな。
いや、いるねん。
この前も、膝の悪いばあさんが和式にケツをハメよってな。
大変やったw あと階段な。
エレベーターの設置が望ましいんやけど、構造的な問題に加えて電力の問題もあるからなぁ。
長い目でみたら太陽光がええねんけど。
設置費用これまた半端ない。 イエスは神であると信じられることによってはじめて
その者は救われている状況にあるのです。
>>252 神様とか道とかも、もちろんええんやけど あとなに・?真実とか。それもええねんけど。
地方はカネないねん っていうかため込んでる金出せよジジババってのが本音なんだわー イエスっさんとか信じるとか救い?とかもわかんねんけどー
会議すんのに2階に上がれない老人どないすねんw
甘いものとかせんべい喰う暇あるんやったら筋力つけてくれよまじで。 あと訪問いくときのガソリン代な。
市街地からはなれたところにある認知症の方の訪問がしんどいなぁ。
ほんまは近くの小教区で訪問してほしいんやけど
離れたうちの小教区に半世紀も通ってはった方やから、知己のこともあって投げられへんねんなー
車で片道1時間半は体力的にも金銭的にもきついわー つまりイエスは人間だと言うものは救いの内にはないというだけのことなのです。
>>256 このへんは、人生の終末の終末に限ってでいいから顔見知り同士で介護してくれたらうれしいんやけどね
これがビジネスモデルにつながってくれればなお望ましいんやけど うーん もうおもいきって小教区の統廃合を一気にすすめたらどうやろか?
お得意の口八丁手八丁でうまーく土地売って投資にまわせたらなーって。
さいしょは、なかなかうまいこといかへんやろうけど、
天変地異で統廃合したとこなんかはけっかてきには合理的にまわってる実績あるからなー
司祭不足の問題もすこしはマシになるやろうしさぁ 毎年の予算編成とか収支決算とかでもやっぱり金融リテラシーと経営管理のスキルがある信徒さんは
めちゃ助かんねんなー。
修道会の学校法人で投資で巨額の損失だして身を切ってる腐れ外道みたいなとこもあるから怖いしな。
まぁ投資ってのはそんなもんやけど、損失隠して粉飾して信徒や生徒から金をだましとるようなことだけはかんべんな
ほんまやったら、背任で逮捕やで。わけのわからん神のちからで握りつぶしたみたいやけど。 神は目に見えへんところではたらいてくださってる
神に感謝
そやけど、もってるもんは出し惜しみせんとだしてなーwこれからもおねがいしますね! そやけどこんなことを言ってみても小教区の全体像としてすら把握しているうちの1割にも満たないんやろなぁ
1割どころか何にも知りえないレベルなんやなぁ
ほんま、神のみ旨は私ごときちっぽけな人間の人知の及ぶところではないわ。
そやけど、神のみ旨を行ったり仲介してくださるイエスさんいつもありがとうご苦労様
たまにちらっと見かけるんですが、いつも忙しそうで触れるのがやっと。
またあなたを見習って遥か後方からですがヨチヨチついて行きますので、
見かけたときはどうかこえをかけてください。
それでは〜 >>232
「イタコ芸人の民」とは、エロバカンターレの信者のことだと思いますよ。
しかし貴方はエロバカンターレ本人ではないかと思われるほど饒舌ですね。 >>224
マリーさん、カトリックがいいですよ。年数を重ねるほどにますます
好きになられると思います。
聖母マリア様もいるので女性がいっそう輝きます。 >>267
ありがとうございます
ロザリオの祈りで心が清くなっていく気がします 最近知ったことなのですが、昔のミサでは、最後の「派遣の祝福(もしくは閉祭のあいさつ)」の際は跪いていた、
というのは、本当でしょうか。
今は、ミサの中での跪きをなくす方向で、日本(日本司教団?)は動いているそうなので、今は立ったままで、
「神に感謝。」とかしていますが、跪いたほうが神様の御心にかなうということであれば、跪いたほうが良いと思うのです。
神の民として、「派遣の祝福(もしくは閉祭のあいさつ)」の際に跪くことは、神の御前においておかしいことではない、
と思うので、そのようにしたいと思いますが、皆さんなら、どうなさいますか?
人間に従い、「動作の一致」を重んじますか?
それとも、神に従い、「志の一致」を重んじますか?
それから‥‥ミサの典礼の中で、会衆が「司祭とともに」と唱える箇所がいくつかあったと思います。
その箇所は、「あなたの霊とともに」と唱えるのが本当らしいのですが、
「あなたの霊とともに」と唱えてはいけないのでしょうか?
それと、奉献文の最後の「すべての誉れと栄光は〜♪世々に至るまで〜♪」を歌っている人たちがいるのですが、
ここは「司祭のみ」が歌う箇所ではないのでしょうか?
先日、主任司祭が不在のため、協力司祭がミサをした際、一部の会衆に歌わせていたのですが、大丈夫でしょうか?
この部分を会衆が歌うと、神の恵みが削がれる、ということを知らない高齢者が大勢いるのでしょうか?
あと、気になったのが‥‥記念唱で、会衆が「主が来られるまで」と唱えますが、
この箇所を「主が『再びorまた』来られるまで」と唱えないのはなぜなのか、と思うようになりました。
この唱え方だと、「主はまだ来ていない(=まだ復活していない)」ということを前提にしていると思います。
まるで、主を「死んだ者」のように扱っているこの箇所は、以前から変更はないのでしょうか? >>270
あなたのいう昔のミサのさらに昔のミサ調べてごらんよ >>211
人気はあるらしいけど、ああいう説教は苦手。誰が教祖
お前教祖?突っ込みをいれたくなる。 晴佐久神父様の説かれるイエズス様は蜂蜜のように甘い。それを聴いてる
信徒がほんとうにそんなことでいいのだろうかと思うほどに…。 東京文化財ウイークで教会建造物見学をしたいのだが東京若葉キリスト教会と明治学院インブリー館ならどっちのが良いかな 神様をカレーと考えるといいのかもしれません。晴佐久神父様が神様とは
このようなカレーですと出されるカレーが蜂蜜とリンゴがたっぷり入った極甘カレー。
神父様がニコニコしながら、さあ、お食べと言われる。それでは、いただきます。
どう、美味しかった?
あ、はい。あのう、砂糖も入っていませんか?とも言えず、とても美味しいかったです。ニコ。
この信徒は確かにカレーを食べたのだが、本当のカレーはもっと辛いはずだった。 >>270
「またあなたとともに」でバチカンに申請しているようです。
ttp://www.cathoshin.com/news/roman-curia/4305
上のサイトに、「霊」には叙階の秘跡によって与えられた聖霊の働きの意味も
含まれること、と典礼秘蹟省からの説明が書いてあります。 神父様のお話は現実の厳しさから解離しているような感じなんですね 嘘つきの言葉に騙されて、無実の者を攻撃するならば、その者も同じく罪人です
悔い改めなさい >>275
自分自身で判断されるのがよいと思います
晴佐久昌英神父様の説教集
ttp://www.fukuinnomura.com/ >>282
おはようございます
blogを探していただいてありがとうございます
独特の説教ですね
もしかしたら、「小学生が聞いてもわかるように」説教を考えていらっしゃるかもしれませんね
私は…あまり… 妬みそねみのたぐい。
本物の証だなwwwwwwwwwwwwwww >>265
あるいみ天才
>>266
カルトの教祖ってこんなんだろうね (CNN) 米オハイオ州の小学校に通う11歳の少女が、学校で執拗(しつよう)ないじめに遭って自殺した。母親によると、少女は脳腫瘍(しゅよう)の治療の後遺症で笑うと表情がゆがむ症状があり、これを理由にいじめを受けていたという。
こういうニュースは、キリスト教ではどのように説明するのでしょうか >>289
気の毒ですが、彼女は自殺という大罪を犯しました。
決して天国には行けないでしょう。 女中との関係。
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1325367/439553/109523127
あなたの恋愛マップも世界のどこかに位置付けられる。
松浦亜弥 : SKY PerfecTV! (200411-2): http://youtu.be/SLKGz5YT0LE
我々はカップルから知識が欲しいのだ。
それがないのならば泥沼になる。
女は実は恋愛を語る言葉を持たない。男が発信力を持っている。
若者はマルクス主義(女の共有)から説明している。
ブルジョアが現状維持を求めるのに対して、プロレタリアートは、我々の方が恋愛に詳しいと主張したのだ。
女は搾取されることしか知るないが、男は搾取する側とされる側の二つの見方をしている。
性的搾取と階級搾取がこのシーンに存在するのだ。
【子育てが女に居場所を作るだろう】
女は何かの力に目覚めているんだろう。
男はこの力を利用して戦っているんだ。
抑圧は抑圧によって破壊される。
セックスがお金だってことが分かるだろ?
恋愛に詳しければこんなこともできるんだ。
【知っているから資本家なんだろ】
男たちは「知っている人」に頼っているんだ。
恋愛論も医学も法律学も我々の知識に頼っている。
マルクス主義者もみんな頼ってくるんだ。
力の発信源というのはどうしても生まれてしまう。 2001年(主日C年) 11月11日 年間第32主日
IIマカ 7:1〜14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38
アンティオコス・エピファネスによるユダヤ人とユダヤ教への弾圧の物語りの中で、エレアザルの殉教と七人の兄弟 (とその母) の殉教の話は、イスラエルの民が受け継いで来た信仰の核心を見事に証言してくれています。
キリスト教会は、この復活の希望の信仰を受け継ぎました。
キリストが死者の中から復活して、すべての死者の将来の復活の初穂となられたからです(Iコリ 15:20)。
ですから私たちキリスト者こそが、最もよくこの IIマカ の殉教者たちの証言した信仰を理解することが出来るのです。
復活はそれがあるかないかという仕方で論じる問題ではありません。
そうではなくて、その希望の信仰によって生きているか否かが問われている事柄なのです。
私たちは洗礼の秘跡によって 「キリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」(ロマ 6:4)
そしてこの 「希望はわたしたちを欺くことがありません。 わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:5 )
使徒たちから受け継いで、代々の教会がささげて来たミサは、これに参加する会衆にいつも 「永遠の慰めと確かな希望とを」(IIテサ v.16) 与えて来ました。
なぜなら、私たちの主イエス・キリストは、聖霊の交わりの中で、父なる神と共に会衆の 「心を励まし、また強め」(IIテサ v.17) てくださるからです。
「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロマ 5:3-4)
だからこそ、使徒パウロがテサロニケの信徒たちのために祈ったその祈りは、今なお現代の私たちキリスト者のための祈りでもあり続けています。
「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように。」(IIテサ v.5)
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より 韓国人プロテスタント牧師ではないかと思われる老クリがカトリック信徒に
ユダのように接吻しに来たね。 2004年(主日C/A年) 11月7日 年間第32主日
IIマカ 7:1〜14 IIテサ 2:16〜3:5 ルカ 20:27〜38
「さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。」(ルカ v.27)
イエスの時代の厳格なユダヤ教的敬虔は、旧約聖書の解釈を基礎としていました。
彼らの信仰と生活に関するすべてのことが、聖書に由来し証明されなければならないのでした。
地方の庶民の間で影響力を発揮していたファリサイ派の活動によって、律法学者による聖書の解釈が "昔の人の言い伝え (マコ 7:1-13他)" として広く普及していました。
それに対して、エルサレムとその神殿を拠点とするサドカイ派の人々は、教義の発展や再解釈を嫌い、律法 (モーセ五書) に書かれていないことをすべて拒否する保守主義者でありました。
両者とも旧約聖書を重視していました。
しかし彼らにとっての聖書は "神のことば" ではなくて "律法の体系" となっていました(ロマ 9:30-32 参照)。
彼らの質問に対するイエスの答えは、意表をつくものでした。
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。 すべての人は、神によって生きているからである。」(ルカ v.38)
旧約の預言者エリヤは 「主は生きておられる」 という言葉をもって救済史の舞台に登場しました(王上 17:1)。
預言者エゼキエルに臨んだ主の言葉は、「わたしは生きている」 であり、「イスラエルの家よ、・・・・・ お前たちは立ち帰って、生きよ」 であました(エゼ 17:19, 18:31-32 他)。
しかし当時、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」 という 出 3:6 の言葉を復活の論拠とする "昔の人の言い伝え" がユダヤ教に存在しなかったために、人々はイエスの答えに驚いたのでした。
・・・・・ 以下、本文参照。
http://www.kuwaei2000.com ●Archives● より ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています