悟りを考える [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>1
本当に「真理」を悟れたら、つまり確信的に認識・自覚できたら、
現世の現実生活も10倍以上、死後の人生も余裕で10倍以上、楽に、そして有利になれると思う。
実際、自分自身、神や真理を確信的に認識出来てから、
真理に対する無知だった頃に比べて現実生活が10倍以上は余裕で楽になったし、
日常的な恵まれ感では100倍以上は豊かさを感じられるようになったと言える。
体感を例えると本当に、年収240万円生活ぐらいから超大富豪になれたような感じ。
そこに至れるまでの紆余曲折は大変だったけど、その苦労に神は報いて下されたのだと感謝している。 犬飼いは躊躇なく他所を平気で汚すのに自分の家や敷地に立ち小便されたら激怒するクズ 悟りを開いたのならば従容として死ねよう。従容として死ねるのならば従容として生きられよう。
従容として生きられぬのならば従容として死ねるまい。従容として死ねぬのならば悟りなど開いておらぬな。 入道、つまり悟りを求めるとは、信仰を否定すること。
成道、つまり悟りを得るとは、信仰を否定しきること。 たぶん仏教は、キリスト教の真逆だな。信仰を捨てないことを求めるキリスト教と、悟りを得る方法を説く仏教。
イエスはユダヤ教を否定して積極的に布教した。ブッダは既存の宗教とあまり敵対せず、あまり熱心に布教しなかった。 イエスは熱血で、ブッダは恬淡としていたのではないかな。 まあ、イエスもブッダも会ったこともないし、イエス伝もブッダ伝もどこまで本当なのかはわからないし、そもそも二人とも大昔に死んでいる以上、二人の実在をこの目で確かめることもできないが。 無生物の世界に、生きものの世界あり。
生きものの世界に、人間の世界あり。
人間の世界に、自分の世界あり。 ただの自分。
ただの人。
ただの生きもの。
ただの無生物。 誕生が過去で死亡が未来。→正常な時間感覚(健康)
誕生が未来で死亡が過去。→異常な時間感覚(病気) 過去に生まれたのであり、未来に死ぬのである。過去に死んだわけでもなければ、未来に生まれるわけでもない。 無生物の世界あり。
生きものの世界あり。
人の世界あり。
自分の世界あり。 誰かの得でしか動かないものは永遠に真理には近づかない ヤスパースやサルトルらの説く実存的自由も、
パウロからカルバンに至るキリスト教的自由も、
すべて物質的基礎から抜け出せるものではない。
抜け出せると思うのは錯覚であって、
それは単に理念としての自由でしかないであろう。
それは、現実的自由とは、まったく異なったものなのである。
荒 正人 大日本百科事典 「自由」 偉大なるマスターたちは 完全な自由。
生老病死からの 現実的な自由を得た。 悟りって言うのは思い込みの自分じゃなく、生まれ本来の自分に行き逢うってだけ。 俗世的なことですが、メンヘルで失業中なら、生活保護と言う手があります。
仕事にとらわれる必要は有りません。 この世(此岸)=身体世界(身界)
あの世(彼岸)=精神世界(心界)
[] (´・ω・`)
||____.ノ(. つ¶つ¶____
/ ̄:l: .―:l:――――:l:/___ヽ,―、_ ゴロゴロ……
| :|:./ E:|: EEEEl :|:|: :  ̄ ̄||`l
/ ̄ ̄ヽ ̄ヽ EEEEl :|:|:__:___||._|
/ ,●、 | |777777|:| l, ―┴、┴――、
| ●| |.● | |/////// .:|:| / ヽ ヽ∩ ∩
ヽ `●' .| |====:|:| |====l===| (´・ω・`)/>>229
ヽ____/_/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~'ヽ_____/____/ /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄'"''''''''''''"'"''"'"'"'"'''''''' 悟りとは
手の上に棒を乗せてバランスを取る曲芸がいつでもできること。これが、悟りである。24時間365日この曲芸をしていることが悟りなのではない。 本質が善である人間は、悪くて偽悪家。
本質が悪である人間は、よくて偽善者。 悟りは1回開くと永続的と考えるのは大きな間違い
開いて閉じて開いて閉じる
むすんで開いてまーたむすんでまた開く
何故か
法律・条令・明文化されていない様々な習慣や常識
そうしたもの矛盾する悟りは悟りとは言えない
よしんば世捨て人となり悟るのもよかろう
だが日本国民である以上、憲法で定められた教育、勤労、納税の義務を負わなければならない
局所的に悟り、また現実に戻り、また悟る
そうでなければ、あきらめか、死か、悟っても悟らなくてもまったく同じにちりあくたとして生きることを許容する悟りがせいいっぱいだからである。
さぁ歌おう
むすんで ひらいて
てをうって むすんで
またひらいて てをうって
そのてを うえに
むすんで ひらいて
てをうって むすんで 太陽の女神、天照どの。この星地球から、悪霊を祓除致しましたぞ! 地球の四箇所に私は呪符を置き、この星から悪霊を祓除した証とした。 損得を無視した善悪 バカ
善悪を無視した損得 冷酷 有償の愛をもって、有償の愛に応える。
無償の愛をもって、無償の愛に応える。 1+1=2だと知っているのに、1+1=3だと他人に言われると、「1+1=2だと思ってはいけない(実際には思う思わないの問題ではないが)、酷い目に遭わされる!」という強制自己説得で、1+1=3だと自分で自分に無理やり認めさせてきた。 俺をただマインドコントロールするだけでなく、俺にセルフマインドコントロールまでさせた。サイコパスの悪魔、DV母親!こいつ、個人と個人だけでなく、個人内部まて分割統治する。悟りを失わすという最も過酷な方法で他者を支配する。悪魔だ!!! もう、悟りを得た。もう、一生悟りを失わないぞ!
悟りを得ることだけでなく、悟りを失わないことも必要だと教えてくれたの母さんだよ!ありがとう!!!笑 悟りを得た者は、泰然自若としている。
悟りを得ていない者は、必死で論破する。 自己不当化はバカ、自己満。
自己正当化はキモい、自己愛性人格障害。 周囲を凍りつかせることができたら、怨念の勝ちだ。
周囲が笑わせることができたら、怨念の負けだ。 善悪に従えるが故に従う。無功
善悪に従えぬが故に従わない。無罪
善悪に従えぬのに従う。有功
善悪に従えるのに従わない。有罪 他人に罪を引き受けさせるなら、他人の罪を引き受けろ。
他人の罪を引き受けないなら、他人に罪を引き受けさせるな。 他人の功をもらうなら、自分の功も与えろ。
自分の功を与えないなら、他人の功ももらうな。 不動明王はヒンドゥー教のシヴァ
起源についての明確な出典等、ご存じの方にお尋ねします。
wikipediaを見ても、「とする説がある」と一行つけ足してあるだけですが、
今のあの記載は百科事典としては全く貧弱であり、他の情報量とのアンバランスというか、
まるでカルト宗教の杓子定規なトークの受け売りみたいです。
wikiがおかしいことも含め、
半ば常識化している事柄まできちんと解説できないようでは
まさに大乗=非仏説を証明・・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11209444936 心理的に制裁なら、復讐もまた制裁。
心理的に復讐なら、制裁もまた復讐。 自力の功罪だけが功罪。他力の功罪など、功罪とは言えない。はたして、自分の功罪の者が、この世にいるかな?
運命を呪うことはできても、運命に感謝することはできない。こういう人間に、真人間は一人もいない。
全部自力でやって来た?ふ〜ん!自力で生きていけるなら、地球外でもやっていけるね!!!笑 運命を呪ってはいけないのでもなければ、運命に感謝しなければならないのでもない。呪っても感謝しなくてもいい。だが、呪うことはできるが感謝することはできないとか、感謝することはできないが呪うことはできるとか、そういうのがおかしいのだ。
不運を呪うなら、幸運に感謝しろ。
幸運に感謝しないなら、不運を呪うな。 不運を呪うなら、幸運に感謝しろ。
幸運に感謝しないなら、不運を呪うな。
その程度のこともできぬ人間に、生きている資格はない。 功を賞されたいが罪を罰せられたくないという願いを、天は聞き入れない。
罪を罰せられたくないが功を賞されたいという願いを、天は聞き入れない。
功を賞されずともよいから罪を罰せられたくないという願いならば、天は聞き入れる。
罪を罰せられていいから功を賞されたいという願いならば、天は聞き入れる。 自分と他人の間に差別愛を置かぬように、人と人以外の生きものの間に差別愛を置かず。
人と人以外の生きものの間に差別愛を置かぬように、生きものと無生物の間に差別愛を置かず。 倫理とは、愛されることではない。
倫理とは、愛することだ。 俺、善人か偽善者でいなければ、愛してもらえないって確信していたんだ。
だけど、今わかった。偽悪家でも悪人でも愛してもらえるって。 >>1 全ては糞坊主どもが貧乏人たちから搾取するための洗脳ロジックだよ
お布施・修行・御神体・疑ったら負け、とかな 置いたワシや、
必然的に加齢による症状は出家修行者にとっても避けることができない。
そこでお尋ねになる、
場面は難波地方であった。
紙を用いられるときは、必ずコウゾ、ミツマテを原料として作られる和紙であった。
だが、探しても見当たらないことが度々あった。
「此処(ここ)に置いた和紙や、誰か知らへんかぁ」
先日は飛び込んできた空飛ぶ鷲(ワシ)をどこかに置き忘れられ、お尋ねになって「ここに置いたワシや」とウロウロ探し回っておられた。
修行僧たちは ひたいをよせて82歳の寄る年波の長きをかえりみつつ言った、『おいたわしや」
2500年前の出家修行者は早朝に鉢を持ち、各家々をめぐり乞食(こつじき)をして一日一食の非生産者の身を律しておられた。
次第に修行者も増え、手元不如意の日々が、数年も続くことが有った。
そこで、質物(しちぶつ)を差し出し糊口をのりする事があった。
過去七仏かこしちぶつ
釈尊以前に出現した7人の仏のこと。七仏ともいう。
それらは毘婆尸 (びばし) 仏,尸棄 (しき) 仏,毘舎浮 (びしゃふ) 仏,拘留孫 (くるそん) 仏,拘那含牟尼 (くなごんむに) 仏,迦葉仏,釈迦牟尼仏である。
これらの仏陀が釈尊の戒めとして共通して受持していたのが,
「諸悪莫作,衆善奉行,自浄其意,是諸仏教」という偈戒で,七仏通戒偈として現在も仏教徒に読誦されている。
過去に出現した七人の仏。その一人釈迦は真理を悟った人(仏)の一人にすぎないということが含意される。
過去七仏の思想は仏教史の早期から現れているが,釈迦以前の六仏についてはその実在性が明らかでなく,伝記も釈迦のそれと同工異曲である。
七仏のそれぞれに独自の道場樹(菩提樹)がある。
七仏の名と道場樹を仏の出現順に示すと次のようになる。
毘娑尸(びばし)Vipa?yin・パータリ樹,
尸棄(しき)?ikhin・プンダリーカ樹,
毘舎浮(びしやぶ)Vi?vabh?・サーラ樹,
?留孫(くるそん)Krakucchanda・シリーシャ樹,
?那含牟尼(くなごんむに)Kanakamuni・ウドゥンバラ樹,
迦葉(かしよう)K??yapa・グローダ樹,
釈迦牟尼??kyamuni・ピッパラ(アシュバッタ)樹。 テヘランの死神とともに生きること、これを悟りを得ているという。
テヘランの死神から逃げ続けること、これを悟りを失っているという。 王権は、言語に絶する壮絶な権力闘争の末に勝ち取られた。王権神授説は、誤りだ。人権もまた、然り。 俺はこの世界に、人権を確立する。天よ、それが罪なら、俺を罰しろ。 何々するやつ。
何々活して、何々するやつ。
何々活せず、何々しないやつ。
何々活だけして、何々しないやつ。 >>305
天とか神とかに何かを何かで
罰する力や能力があるのだとしても
人間社会のことで罰する理由とか
存在しないのではないですか?
人間社会に決まりごとの中で
善悪などがあるだけではないですか? 信仰が試されるのは、その一生においてである。悟りを得ればそれで終わりではない。 慈悲を得んとして偽善を為す。
偽悪を為して恨みを買う。 偽善者、人の不幸に追い討ちをかける。
偽悪家、人の幸せを応援する。 誰かを犠牲にしなければならないほど、他の誰かは尊くない。
他の誰かを犠牲にしなければならないほど、誰かは尊くない。 悟りを得た、悟りを得た、悟りをついに得た!私の信仰は証明された!!! 善良→偽悪を以って悪を制し、善を以って偽善を制す。
邪悪→悪を以って偽悪を制し、偽善を以って善を制す。 >>1
悟りとはなんなのかを考えても考えても永遠に考えても答えが見つからない
しかし、なんぴとも遅かれ早かれいずれ死は訪れる事に気がづいたので私は考えるのをやめた
生きてる時間は有限だからやりたいように生きろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています