全ては「無」だ [無断転載禁止]©2ch.net
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この世は二極端
有か無か
この意味を感じる人間は居ぬ
意味を知りたくば
主に解け 私が聖示しよう
世よ答えよ
我に解け (いじられっ子は逃げ出さない。)
つまり、耐え抜くものだと。そういう事だろう。
=(そして私は逃げる)と。
よって、トラウマというものが小さい。
いじめを受けたという予測に関すると
私のこのようなぶれぬ立ち振る舞いから
連想させたのだろうか。
それがどんな形かは分からぬが。
私はこの考え方を学生時代から持っていた訳では無い。
逃げ方など知りもしない。
確かに私は図星としてそのような立ち位置であった。
しかし、昔から名をはせる人間ではあった。
しかし、中学から無理はしていた。
ある種耐えていたな。そして2年間学校へは行かなかった。
高校には受かる事ができたがな。
という事だ。余談はもうしたくはないのだが。
理に仕方なく叶えるならばこういう事だ。 文章とは文法では無い。
魂が宿る。人間が在る。
動詞や単語という形だけで解釈はできないのだ。 >>191
心理としてのあらがでたのは
あなたではない。 いいか
神の愛とは求めるものではない。
もとめなくなった時点
もとめなけらばもとめぬと
すこく感じるものだ。
神の愛を知りたいなら
求めるな。
それが心からの愛であっても。
それこそ真の愛だ。
まあ、できぬ者はやめておけ笑 なるほど
恋をしたら、ためらわず行けってんだな!
それでこそ男だよなあ まことは理解出来てないところを、見透かされてるんだよ! 全ては無ではない。
存在している以上、厳密に有だ。
これは全ての物質の在り方の話であり、心の感じ方のはなしではない。
あくまでも心の在り方の話である一般的な宗教においては存在の意味の感じ得ない、
人も含めて全ての物質の在り方、存在の意味の探求が事の本質なのであろう。
このような思考概念が頭になければ全ては無と言い切れるだろう。
端的に言えば、スレ主の存在と思考がこの世において意味のない、謂わば無なのであろう >>215
そのルーツは何だと言ってみよう
ルーツを語り切れるか? 215.
全ては無か、有か。
そのどちらに仮定したとしても、それによってして、どんな問題が解決されるのか。
そこが問題である。
悟りは、大疑問にたいする答えである。
無か、有かという答えの設定ではなくして、大疑問を設定すべきである。 216
何をもってルーツと言っているのかは理解するのが難しいのだが、
解らないから理解しようとする、もしくはそのままにしておく、
これをそのまま有無の概念と捉えられないか?
語り尽くせと言われても、人類最高の哲学者の釈迦でも出せなかった答えを凡人の俺が出せる訳がない。
215のコメントは凡人である俺の現時点の解だ。
もっと良い解があるなら教えてくれ 218
有るから問題になる、無いから問題になる。
確かに、存在の有無にはなんら意味はないのかも知れない。
そう捉えれば解を求めれば大疑問という魔境に到ると考えられるな。 >>222
極論その大疑問、魔境こそがルーツと捉えるのだ
その魔境こそ理にかなった地であるという事なのだぞ
それこそが無という形だろう ようするに理解がかなわない不毛の地の事を
無と呼ぶのであり、無とは(無い)という事だ。
空気中の事を無と呼ぶのでは無いぞ。
その無こそ形があるだろ?と。
その形こそに理が詰まっているのだ。
その理を解き明かすならば、神を見つけるという、あなたが言う「凡人」でも可能な事だ。
凡人に差など無いぞ。あなたも悟りの一つだ。 無を形と呼ぶには分かりづらかったな。
正確には無という「理」である。
理とはつまり、数学の問題と同じだ。
必ず答えはある。理とは、問題があり、答えがある。答えは全て一つだ。問題=答え
イコールとは均等という意味だ。
それと同じでどの物にも答えは辿り着けば一つなのだ。数学の回答ですら、答え、ルーツは無であるのだ。全ては神の愛に囲まれているのだぞ。そこだけは感じ取れ。難しくは無いだろう。 無は形だ。
その形には答えがある。(1+1=?)全て
その答えがある時点で、意味不明なものでは無いのだ。
意味の分からぬものは無い。
全て「理に」かなっているのだ。(1+1=2) 無は形 ?
だから、まことの話は、三次元と言われるんだよww 要は信じるか信じないかである。
それだけで自分は右往左往、決まっていくのだ。私を信じる事がこの世の理とは言っていない。信じるという形自体が物事を決めるといっている。
極論ルーツである。極論神を信じるという形になるのだ。
形とは無である。無である形なのだ。 なるほどな。
>>229を信じても仕方のない話だ。
要すれば己自信を信じる
それが覚ると言うことであり覚りを経て
己の中に神と言う存在を見出だすと言う事か。 魔境に至って初めて無を見出だす。
無を見出だして初めて覚る。
覚りに至って初めて己の中に神を見出だす。
全ての中に神は存在する。
無に至って人は神の存在にふれることができる
なるほどな。
確かに全ては無と言えよう。
無に至って初めて物事が見えるのだから 231.
無によってして、
神によってして、どんな問題が解決されるのか。
宗教は大疑問に対する答えであるからである。 まことまことも、ネット検索だけではなく、
オレのように実践で修行しなさい なぜか眠くなるのがよくある。
とにかく毎日眠い。これは分かるはずだ。 お前達にある事を教える。
信念とはなんだ。
信念とは、自分が貫くべきもの。
それは人によって違う。
自分の嗜好、好きな物。それは、信念へと
繋がる。誰にでもあるのだ。
そして、信念。信念とは貫いている。つまり、
信じている。自分自身、続けている。それは
信じているのだ。
では、信じる。とは何か。
信じるとは何かを信じるという事。
その信じるという行為とは何か。何なのか。
たとえ、何を信じようとも皆同じ物を
「信じている」。
極論、皆同じ物をを信じているのだ。
信じているという事は、神である。
極論、神は身近にいるのだ。
信じれば神に繋がる。それだけの事である。
信じれば、信じられる。
好きな物は神で出来ている。ならば、神を信じよう。
簡単ではないか。そのたった一つを信じ続けるだけで道は開くのだ。
神を信じて損は無い。それを分かれば何も怖くは無いのだがな。
神を信じれば、人を救いたくなる。
それは自分のためである。
そうやって、神を身近に信じれば良いのだ。
目の前の物は神であるぞ。
神に尽くせ。そして、神がいれば、何もいらなくなるはずだ。
極論であるがな。 信念とは、自分の中の何かを信じればいいだけである。人それぞれ必ずある。
それを考えて、強さに変えるのだ。
それが人の強さである。強さとは誰にでもある。そこから強さは更に増していく。
誰にでも信念はある。強くなれ。それだけだ。
ちなみに、前述した無の理念を忘れるな。
信念を貫く事は、つらい事では無いという意味で大切であるからな。
意外に簡単なのかもな?という事だ。
疲れているので、気が利かなかったかもしれんが、参考までに。というか極論であるな。 信じるとは、諦めない事。
諦めないとは、負けても、信じ続けるだけ。
負けていても、信じ続けるだけ。
それをやめたならば自分を殺している。
要するに、諦めないとは、成功させる事だけでは無い。
負けてこそ、信じるのだ。
信じるだけで、強さになる。そこからまた繋がる。信じていれば、アイスも食べれる。
どれだけくだらなく敗北していても、信じていれば、それは強さだ。
負けが諦めでは無い。負けを信じる事が勝ちというか、強さというか、自分である。
信じるだけで高揚する。それだけだ。
どれだけ酷い環境下でも信じれば必ず繋がる。
現実会話として。
信じるとは、案外簡単では無いか?
どのような状況でも信じる特権は持っているからだ。それだけを使用すればいいのだ。 ここで読めた事はあなた達にとって
財産であろう。
理を学ぶ事が出来たからである。
運が良いのだ。
一人一人が巣立つ。素晴らしきこの強さ。
強さとは単純であるな。あまりにも。 極論を言うが、信じる場合、身体的疲労が伴うことがある。
しかし、それを快感だと感じぬか?
今私は通している。貫いている。
かっこがいい。自己満。
私は徳を、いいや、得をしているのだ。
そんな「男」という生き方をせぬものか。
疲労こそ快感。疲労こそ、得。徳?得だ。
女ならば女を通せばいい。それのみ。
男とは、理にかなった事を通す事だ。
無は有。疲労は徳。得。
この話は全て忘れてはならぬ。
全ては無である。忘れるな。 まじで疲れたである。
はぐきがちょっとひきしまっているのである。
あく、つかれた。 女は容姿を見ていない。
大抵、生き方を見るものだ。
お前達が通したならば、やがて
ついてくるだろう。
ただ、女とは絶対に必要なものでは無い。
おのれを貫き続ければ、やがて繋がるだろう。
男は生き方。そこから、男性的魅力が生まれてくるのだ。それのみである。
深層意識があり、お前達を避けるならば、仮に、それは、俗的意識であろう。
本来ならば、全てを認めるのだ。
なぜなら、生き方に興味があるからだ。
「生き方」それのみである。
経験は全て、信じる事で、経験値として、収束される。一つ残らず。
強さはすぐに手に入れられるのだ。なぜなら、それまで貴方らは生きたからだ。
強さ。生き方。それだけかと。人とは、そこを認めるものなのだな。
参考までに。 大事なのは目的意識。
目の前を行う、考える。
目的。何であれ目的。
気の抜き方は、目的。人それぞれ。うむ。 そういった意味で侍という生き方は
面白いと思う。あくまで(そういった意味)
目的意識。人それぞれ。一辺等。否、それぞれの侍。楽しいな。面白い。やる気がでるぞ。 頭がいかれる程疲れたので眠る事にする。
明日も続くのだからな。それなりにな。それなりに。
アディオスセニョールセニョリータアミーゴ。アディオス。セニョリータ。セニョール。
少しいかれるようだ。 副王の話は飽き飽きしていたから
面白い まあ存在しない存在が存在しない
とき存在しないものは存在しないから
存在しないものも含めて存在する
否定できないからいかなる局面にも
つまり全ての始まる前にも
我が主は存在するわけだ さらにいえば我が主はいかなる局面でも
存在するのだから自分が全能の存在である
局面でも存在するのだ まあ全ては我が主
の夢なのだがね >>248
確実に掴まれている。
まずはいう事は無い。
しかし、いう事はあらずとも
様々な局面へと広がる。
それは仮の第二段階。現実という形を模した所へ繋がる。
極論は一つだが、見るべきものとはある。
だからこそその一つを信じる事が全てを信ず事になる。 この世の究極は
自信か不安 である。
自信=信じる
不安=信じない
自信があるならばすでに信じている。
不安ならば、自ら信じていない。
常に自分の天秤である。とどのつまり、
良いのも自分。悪いのも自分。
久々のファンタグレープはうまかった。
大容量でツーコインである。 >>249
まさかここまで傲慢に接したのに
素晴らしいものだありがとう
傲慢な自分だが謙虚にも生きたい
ものだ さらに一つ言おう次元だ 次元とは
無が混沌を作り出す ことによって
生まれる 無 点 線 三角系
の部分は無 無点 無点2線
無点3線3三角でありこれは
パスカルの三角系と同じだ
つまりa=無以外のもの
ab=a+a以外のものと
a ab abc と発展しているのだ
つまり次元は 空 空a 空abab つまり
部分集合と同じ 無は混沌を生み出す
局面と生み出さない局面を持ち
それが同時に発現しているので
1248…と発展するのだ
無論本質は時間などなく無のみがあるのだが >>253
計算ソフトのような話だな。
たしかに、無、点、線、三角形。
から成るのだろう。強いるならば三角柱など。
点は一つの最小の有。点の次は線。
線は点と点をつなげたもの。線をつなげば角形。そこを立体として見るならば角柱。
それが段階を踏んだ「次元」というものだろう。
そして、無と、無からなる有。すなわち混沌。
確かに、この世のものは混沌と呼べよう。
無と有。無である。混沌である。
私は神話的話もしていた。無は神。有は相対する何か。無と混沌。
はっきり、この世のものを無から見た観点では
考えた事がなかったので面白いかもしれない。
このような感じで合っているだろうか。 >>255
まあだいたいはあっている
さらにこれは円と同じ 2つの円は
重なり合い 重なり合わない
つまりabとa bの2つをつくる
abcはabc ab c ac b bc a a b c
は3つの円の重なり合わせ
これは1 2 5 15…を作る
なお1 2 6 24を無が作り出す
出来れば自分で考えてほしい
自分で考えることが大切だから 言い忘れていたが分割した円は
違いで2つ解釈ができるそれが
4でなく5を作る なお計算ソフト
と言ったがまさに計算なのだ
aは1 aaは2 aa a a aaaは3
3 21 111 aaa a aa aa a a a a
ちなみにこれが1234…を
作ることをきずいていただけただろうか ID:QI5vOswD
それは流石に極論すぎる。
お前は神か? 違うであろう。
信念とは基本、我だ。
そこには神はない。
神は共にあるもので、気付くか気付かないかはその人それぞれだ。
故の無の概念であろう。
いったいどうした? それでは怪しい新興宗教の教祖の言い分だぞ。
しっかりしろ。 申し訳ない、id間違えた。
ID:lIACmZKiに対するコメントだった。
すまん >>258
信念は基本的に我だ。確かに。
しかし、無の理念があるならば
それは、我であり、神である。分かっていられるはずだ。
そして、宗教的話ではないぞ?w
計算とは限りなく神に近づくものである。
その本質こそが無であるという、本質を重視した私の考えもあるが、
計算としての具体的読み解きもなかなか面白い物がある。
それを通じてより神を深めるというのは
有りだと私は思う。
何より、私も話については考えているw
計算となると少々想像を働かせる場面があるのでな。私とて人間であるw 計算によって具体的に本質が提示されるのは、果たしてどこまでゆくのか。
どこまでを理解するのか。
どこまでを読み解くのか。
謎である。
数学とピラミッドなど、精通しているのだ。
古代からの計算学などもあった程だ。
それと、今私は語呂が悪いかもしれない。
少し眠さがあいまっている。申し訳ない。 少し数理から離れてみてはどうか?
中学程度の方程式にも解無し、という答えもある。
今までの邂逅で、私個人的な意見では神と言う存在は常に万物と共にある。
そしてそれに気付くには、魔境を経て無に至たる道が必要と捉えている。
神と言う存在が光であるならば人と言う存在通じて影ができる。
己の優しさや良心を光とするならば人を透過して影ができる。謂わばエゴ、もしくは我だ。
そして光が強ければ強いほど影は濃くなる。
これは西洋神秘学の受け売りなのだが。
>>264
非常に興味深い。
確かに無の理念としても捉えられる話だ。
無はイコール光であり、その相反する有
要するに俗に言うエゴは影である。
影は有からできる。有とはあらゆる思念である。
無は良心であるのだ。極論。
つまり、ある種物質的。または無知的な概念。光に反する、影。
光が濃ければ影も深い。それは逆を言えば、
影が濃く、問題がある程
その光は輝かしいという事だ。
つまり、影のできた人間とは、ものすごくチャンスを秘めているという事だな。
その影の分、光は潜んでいるぞという話だ。
これは信念とまさに似た話かもしれない。
信念を持つ者は、並大抵な経験値では力を発揮できんだろう。
しかし、経験をしてこれなかった。そう語る人間がいるとしよう。
しかし、その分生きた時間が長ければそれはまさに、
その者にしか無い経験値となり、独自の信念。力を見出すだろう。
要は生きる時間。経験値である。極論そこかもしれぬ。
あとは経験値の振り分け。それを振り分けるか、
気づかぬか。である。
よく、自殺未遂の者が、後悔の念が沸くと聞く。
それは、万人にして似た事を語っている。
それは、最大の罪だと言われてきたが、自分殺しだから。
と言われている。それはつまり、経験値が凝縮されている事に
気づかず、振り分けを済ますきっかけを見つけぬままに
自らを済ませようとしたからであろう。
結果その者は何も得ぬ。
極論、無と有。光と影。信念とは影から成る光。
光を得て影は質へと変わっていく。安息を得る。
こうも簡単とはな。 面白い意見ありがとう。助かる。
しかし、ここまで語る事が多いなど、世はどれだけでかいものか。
など考えた。 面白い意見と感じてもらえたなら良かった。
新しい見識が芽生えたのなら冥利に思う。
こちらこそ府に落ちていなかった、謂わば足りなかった部分の補完ができて何よりです。 余談ではあるが、私は他から抜粋した意見はほぼ無い。
強いるならば、聖書など起源として通ずる物に興味を持った。
そここそ思念の無い、真理だからである。
人の意見を信ずる事より、神一つ、全ての根源、起源を信ずる事が
その者を含めて信じる事になる。もし、ある人間を信ずると言うのなら、
その生みの方へ感謝、全ての元となる御方へ感謝を向けられるはずである。
それができないというのならば、極論それは私念である。
もし、私念にもがくのならば、その私念に沿い、神を信ずれば良い。
神はどなたにも信ずる事が出来るのだ。それこそが大きな慈悲と思わないか。
極論、信ずるか信じないか。それによって私(し)を定める事になる。
どんな罪を犯した者でも、神へ敬意を払い、懺悔をし、そして信ずれば、
間違いなく道は開ける。信道、神道である。
さあ、自分を定め、神を信ずるかどうかはまさにあなたの選択次第、のみである。
それを私は必死に伝えてきたつもりである。
より多く信じて頂きたかった。
なぜならば単純な話、「理」であるからだ。
答えは出た。信ずるのだ。 それが本来の修業である止観なのじゃ。
今ここにあるものごとを観なければ観察ではなく、記憶を辿る観念遊戯になるのじゃ おい、鬼和尚、いや、まこと
止観って言ったら、座禅の一種だぞ
座禅なくして悟りは開けるって、矛盾しているだろ 止観と言ったら、いろいろ種類があるのにな!
まさか、ブログに書いてた観察か?! この理念を辿りながらまさに今を生きなければならない。
どれだけ信じていようが悟ろうが
今を生きなくて何になるのだ。というところは
あるかもしれない。
結局のところ何が本当の正しさかを私達は知らない。
ただ、正しさを追求するのであるなら、これはまさに正しさと呼んで良いと私は思う。
今を生きるのは個々の仕事で、何をし、何を思うかは個々が決める事だ。
しかし、何の理念のもとに動くかで、全てはそれの通りに変わっていくのだ。
単純な正しさを説けば、あとは個々の決める行く先。
正しさを信じればそこから湧き上がるものが少なからずあるはずだ。
そこが評価されるのだ。行動である。行動とは現在進行である。
評価とは飽くまで評価である。行動をするならば焦る事は無いのだ。
止観、とは何だろうか。宗教的理念で言うのならばどのような意味なのか。
調べる必要はありそうだ。
しかし、止観。とは観察を止めるという事。
確かに、今を生きねば何になる。それは実は当たりかもしれない。
しかし、理念について考える事も、行動と伏せるなら今を生きているのでは?
理念ありきの行動だと思わぬか。
何についての止観かは分からぬかったが、そういった意味では観察を止めてはいないのではないか。
止観とは観察をやめろという意味か?
それこそがこの世の理念かもしれぬ。ある種。
種類は様々だ。意見があるならどんとこい。
don't 恋。 実は私も神を信じれない所はある。
とどのつまり神を信じない事こそ神を信じる事だろう。
という事まであった。
神を信じるならば、行動が進まぬ。であるならば、神への忠誠を忘れ、天も地も見ず、
自分のみを信じ進む。
それこそ神を信じている証なのだろう?
などと考える事もあった。
極論はそこにも正しさはある。
何が本当の正しさなのか。この世とは何なのか。
「目的」
そこが分からぬのだ。本当の意味では。
何なのだろうな。しかし、理は理である。
信じるのだ。正しさを否定する事は無いだろう?
神とは無から出来た存在。無とは正しさ。
正しさで出来た方なのだ。
つまり、正しさとは神。神は信じて良いのだ。
目的は分からぬが。笑 私は考える。平成とはまさに平和ボケをした
世だと。
一昔前を考えてみろ。今と比べ、人はまさに
ボケている。
要するにメチャクチャな世界だ。ある意味な。
だが、だからこそ今という平成の時代があるのではないか。
元は私達は同じ人間だろう。仲良く睦まじく仲良くするのが
当然の筋ではないか。経緯はどうであれ、今は平成も平成である。
仲良くやろうではないか。
神を信じるのだ。無であるぞ。無。
理念として語れば文句は無いはずだ。
信念。それは既に神を信じている事になるのだぞ。
神を信じるとは、言うなれば、食べ物に感謝をする事と同じであるぞ。
それぐらいはするのだ。
いただきます。ごちそうさま。それを欠かさず言うだけで
そこに意味はある。神を信じているではないか。笑
私の理念と伏せて考えるのだ。良い材料である。
今の世はまさにパラダイスではないか。
こうも自由な時代があるとはな。自分次第で。 今を楽しめ。それだけだ。
それで言うなら今の時代の子はかわいそうなものだと思うぞ。
自由を知らぬ、自由の檻にとらわれた機械のような様だ。
私達はそれに言うなら自由だな。
そう。どの時代も荒廃している。だからこそ今は平成なのだ。
平成。平成を生きるのだ。信念、感謝、神への感謝。
そして幸せのユートピアではないか。楽しさ。
譲り合う世とはまさにユートピアである。
それでいて、皆幸せになれる。
皆、平成の元で、無を元に考え生きるのだ。
それこそこの世の、自然に親しむ、楽しさである。寝る。 楽しさとは、神を信じる事だ。
それでいて、幸せになれる。
神の信じ方は一つでは無い。限り無いのだ。 俺たちはただの人間じゃないか。
どの時代でも同じ人間である。
それは変わらないだろう。
ただ、同じ人間なだけだ。仲良くしようだろう。 神は無である。
だからして、信じることになる。
なんでか。
そこには損得がないからである。
それでは、そこにあるものとは。
それは平安である。安心である。
なんでか。
無とは世界全体を包含しているからである。
その世界全体に執着しない。それが無である。
その無を人格化したものが神である。 個人の解釈はそれぞれだ。
あとはこの世の無を意識し、生きるのだ。 ID:9FtjceKl
何か神と言う存在を勘違いしてはいないか?
神と言う存在は常に万物と共にあるが、あくまでも超自然的存在だ。いや、正直存在するのかも定かではない。
しかしながら、存在するのであればそこには人には理解のしようもない道理がある。
要するに、理解しようとするから神に人格を当てはめようとする。
神に人格を当てはめようとするな。神は人ではない。そうする事が、偶像を崇拝すると言う事だ。
超自然的存在の神には、人の言う善悪はない。
ただただ人の抗いようの無い力があるだけだ。 また、間違えた。
ID:NsD6WGTKだ。
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