>主体がどのように認識しようが「夫が死んだという事実は変わらない」というのが、
> 仏教の見解ということでしょうか?

仏教に限らず、全てにおいての見解だと思いますよw
奥さんが、夫を愛していたら、その死を悲しむでしょうし、
殺したいほど憎んでいたら、反対に喜ぶでしょうw
どちらの場合でも、「夫は死んでいます。」
生き返ったりはしませんよw

>つまり、「夫が死んだ」は、主体以前にあるということでしょうか?

「夫が死んだ」と言う事実は、主体がそれを認識する以前に存在します。
そうでなければ「認識」できないでしょう?

>主体が認識する以前の話をしているのですが、
>仏教では、主体が認識する前についての言及はないのでしょうか?
>もちろん客体の話ではありません。
> (主体以前ですから客体もありえません。)

何を言ってるのか? 意味不明ですw
「認識」と言う行為が成立するには、まず、「認識する主体」の存在が
不可欠です。 その「主体」が存在せずに「認識する」という行為のみが
存在するわけはありません。
また、認識する客体(対象)も「認識すると言う行為」以前に存在していなければ
なりません。 当然のことです。 そうでなければ「認識」できませんからw