> > 「それ」をリンゴと判断しているのは主体ですよね?
> > 主体があって「リンゴ」という言葉やイメージが生まれる。
> > 何かがそこに「ある」という認識が生まれる。
> > 主体がなくても「それ」は「リンゴ」なのでしょうか?
> >主体がなくても「何か」が「ある」のでしょうか?
>
> ある基体が何かを認識してそれを「リンゴである」と認知する。
> それは、その物体が「リンゴ」であると過去の経験及び記憶から認知出来るから
> そう思うのであって、リンゴを全く見たことがない者にとっては、「何やら赤い果実
> みたいなもの」でしょう?w

厳密には、「何やら赤い果実みたいなもの」という認識も主体の「過去の経験及び記憶」ですよね?
主体がないとき(主体の前)、「それ」はなんなのでしょうか?

> ⇒>主体がなくても「何か」が「ある」のでしょうか?
>
> そうです。これは唯心論とも関係しますが、対象の存在はその認識主体に依存しません。
> これはかつて「神の存在証明」にも利用されましたが、「月は誰も見ていなくとも
> 存在するのです。」

「ある」という考えは主体の「過去の経験及び記憶」から起こるのでは?
たとえば、真っ白なキャンバスに丸が描かれていたとしたら、
それば、単に丸い絵ですよね?
そこに、物体があるとは思わないわけです。
リンゴを見たとき、なぜ、それが絵ではなく物体であると思うのでしょうか?
キャンバスに描かれた丸い絵と、テーブルの上に置いてあるリンゴとの違いは何なのでしょう?